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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

2007年01月04日
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カテゴリ:歴史・考古学
 こんなニュースを見つけた。

(引用開始)
人類最古の戦争、6000年前に=独考古学者がシリアで遺跡発見
1月4日21時0分配信 時事通信
 【ベルリン4日時事】ドイツ考古学者の調査で、これまで確認された中で人類最古となる「戦争」が約6000年前にシリアで行われたことを示すとみられる遺跡が発見された。米シカゴ大学東洋研究所のクレメンス・ライヒェル氏が率いる調査隊が発見したもので、4日付独週刊紙ツァイトが報じた。
 同氏によると、シリア北東部にある対イラク国境地帯の町ハモウカルで、紀元前4000年ごろによく乾燥させた粘土球が大量に見つかったという。同氏は、ウルクとみられる南メソポタミアの都市国家が北部にあるハモウカルを侵攻、粘土球を弾丸のような武器に用いて陥落させたと推測しており、「世界最古の侵略戦争の実例」と指摘している。 
(引用終了)


 へえ、と思って元記事の「ツァイト(時代)」のページをを調べたら、これが見つかった。ついでに言及されているシリアのテル・ハムーカルについていろいろ検索すると、このページが見つかった。新発見というわけでもなく、既に一年以上前にマスコミ発表はしていたわけね。日本語記事に出てくる「石つぶて」の写真はこちら

 戦争の起源云々はいろいろ議論があるのだが、農耕文明の開始、あるいは都市文明の開始と共に始まったとされる。この記事は後者の説に拠っているが、日本では弥生時代から戦争が始まったという説が根強い。鏃が刺さったり刀傷のある人骨がかなり大量に発見されているからである。それ以前の縄文時代の人骨にも石鏃が刺さったものがあったと思うが、事故か個人的行為かなどかは分からない。

 ドイツでは新石器時代に一つの穴から殺傷痕を伴う大量の人骨が発見された事例があり、或いは戦争の犠牲者ではないかとも言われているが、当時は武器が未発達ということもあるし、断定されているわけではない。
 個人同士の殺し合いというならそれこそ人類の歴史に匹敵するくらいの長さかもしれないが、戦争の定義を「人間の集団が別の集団に殺意を持って組織化され行動する」とするならば、やはり文明の始まりと共に戦争は始まり、今に至っていると言えるのではなかろうか。

 「原始人」というと弓矢を使ったイメージがあると思うが、実は弓矢は世界で普遍的に使われていた道具ではない。僕の知る限りでは、アメリカ先住民が弓矢を使うようになったのは日本でいえば奈良時代の頃からである(同じように刀も世界中に普遍的な武器でというわけではない)。

 一方、実は弓矢よりも石つぶてのほうが威力も射程も大きかったりする。弓矢は知らないが石つぶては使うという民族は世界中に結構いるし(一昨年亡くなったマンフレート・コルフマン教授の博士論文に詳しい)、旧約聖書に出てくる少年ダヴィデと戦士ゴリアテの逸話や、戦国時代の武田軍では郡内衆(小山田氏)の投石部隊がその射程を生かして先駆けした事績はよく知られていると思う。他にも古代ギリシャやローマでは、鉛のつぶてが使われていた。
 弓矢と違って製作する手間も省けるし、何より弓矢は熟練するのに長い訓練が必要となる。石つぶては最も原始的だが強力な武器だった。コルフマンはこれを「古代のミサイル」と呼んでいる。
 
 というわけで(?)、以下にツァイトの元記事を訳してみる。しかし原文はかなり長いので、ハムーカルに関する部分のみの抄訳である。

・・・・・・・・
 「粘土のモロク」(注・モロクは古代西アジアの神の名。ユダヤ教では邪神とされる)
 6000年前に両河地方(注・メソポタミア=現在のイラク)で最初の都市が成立した。新発見は人類の進歩に関する考古学者の想像を変える。ウルリヒ・バーンゼン、トビアス・ヒュルター

 攻撃軍が投石したとき、終わりが来た。数千の硬く乾き締められた粘土塊がハムーカルの守備隊を打ち倒し、その抵抗が弱まったとき、南方から来た攻撃軍は高さ3mの城壁を破って町に侵入した。ハムーカルは炎上した。
 紀元前4000年、人類最初の戦争が起きた。「我々は人類最古の攻撃の痕跡を発見した」とクレメンス・ライヒェルは言う。南メソポタミアの都市国家、おそらくウルクの軍隊が北方に侵攻し、ハムーカルを落としてその周辺地域を征服した。「ここで起きたのは小競り合いなどではない。これは戦場だ」とライヒェルは言う。瓦礫、灰、そして大量の弾丸である。

 シカゴ大学東洋研究所のドイツ人考古学者は2003年から、両河地方の先史時代の古戦場の発掘を指揮している。遺跡の中心にある20mx20mの広さの「B地区」だけで、ライヒェルとその同僚たちは2300もの土の弾丸を発見した。これは先史時代の大砲の弾であり、考古学者は確信する。「これは5500年前の『衝撃と畏怖』だ」(注・このキャッチフレーズは2003年のイラク戦争で使われた)

 これは征服活動があったことの証拠ともなった。残存する武器は、先史時代と歴史時代の間の薄闇の中に謎の山と疑問の材料を与えることになった。イラクとの国境から数キロしか離れていないシリア北東部でのライヒェルの発見は、初期の都市国家同士の抗争の証拠を示すだけではないからだ。この地域での数々の発見は、人類史の決定的瞬間について新たなイメージを与える。文明の興りは、従来考えられてきたのとは違う経緯を辿ったのだ。

(残念ながら中略)

最初の都市とともに権力抗争、そして戦争が発生した
 チャタル・ホユックをはじめ初期農耕集落遺跡の壁画にも、頭のない人物とその上を飛ぶハゲタカのモチーフに行き当たる。ギョべクリ・テペの頭のない人物像との共通性は、偶然で説明するには明白すぎる。鳥が死者をあの世に運ぶという信仰は、既にその以前の太古からあったのだ。クラウス・シュミットは「共通の精神世界があった」と考える。
(訳注:チャタル・ホユックもギョべクリ・テペも、共にトルコの新石器時代遺跡)

 それが消えたとき、都市の興隆の機は熟した。さまざまな時期に起源を持つ建築技術、食糧生産、発明が、最初の大都市に集約された。行政、交易、産業の中心として。都市とともによりモダンなものが生まれた。国家、権力、そして戦争である。

 ウルクとその姉妹都市では精神的な神々の世界(あの世)と共に、この世での飢餓感が生まれた。「ウルクの支配者は、今まで思われていたよりもヒッピーではなかった」とライヒェルはいう。実際ハムーカルを侵略した容疑者であると思われる。その理由はあった。あらゆる大国と同じく、ウルクは資源を渇望していた。ウルクは黒曜石、レバノン杉、鉱物を必要とした。それは北方で得なければならない。ウルクを中心とする交易網が整備された。「ウルクは穀物以外に何も持っていなかった」と考古学者のフォン・エスはいう。交易都市であり北方輸入路の宿駅であったハムーカルは、南方の権力者にとって有意義な獲物だった。

 「南メソポタミアの北方に対する帝国主義戦争」というライヒェルの説は、一部の同業者から有力な反論と共に批判されている。なぜ町を襲ったはずの弾丸が建物の中にもあるのか?彼らは家の中で互いに戦ったとでもいうのか?

 しかし過去数シーズンでライヒェルは自説をより確信するようになった。弾丸の多くは粘土と藁で出来た壁に当たった痕跡がある。また炭化した柱や瓦礫の間には、戦争を生き延びた住民が調理のため火を焚いた痕跡があった。「彼らは動くものは何でも食べただろう」とライヒェルはいう。ハムーカルの近くの遺跡、例えば200km離れたテル・ブラクの発掘でも、戦後の様子が明らかになっている。遺物はまた、ハムーカルは戦争直後にその最盛期を迎えたことを示す。それはウルクの支配下でだった。

 新しい支配者はその痕跡を遺している。より上層でライヒェルは紛れもないウルク様式の土器やウルク式の建築物の痕跡を発見している。ライヒェルにとっては明白だ。南方からの征服者はハムーカルの軍事的支配を引き継いだのみならず、文化的にも征服したのである。それはこんにちまで両河地方で繰り返されてきた紛争の姿である。
(訳出終わり)



(追記)
 その後「シュピーゲル」に関連記事が載ったので追記。黒曜石刃や投弾、遺骨や遺構の写真が見られる。
 また天水農耕地域である北メソポタミアがウルク期には想像以上に有力だったこと、以前「ハムーカルの衰退は地震によるものであり戦争ではない」と反論していたウルク期研究の権威ギジェルモ・アルガゼ教授が、「投弾や破壊された壁を見れば、これは疑いなく戦争による破壊だ」とライヒェル教授の説を支持した発言を紹介している。






最終更新日  2007年01月17日 23時38分50秒
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