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第7官界彷徨

第7官界彷徨

兼好さまの日記

 2010年4月3日よりNHKラジオ第2放送にて古典講読「耳で聞く徒然草」の講座が始まりました。

2010年4月3日
 さて、昨日からNHKラジオ第2放送の古典講読の時間の「徒然草」が始まりました。まずは、兼好法師と徒然草の説明などでした。
 作者の兼好法師という人は、生まれた年も亡くなった年も分からないようです。
 大体は、1283年頃に生まれたらしく、昔から神祇官の家系の卜部氏の出だったようで、先祖もそうであるし、父も兄もそうだったようです。
 成長した兼好は後二条天皇の時代の頃(1301~1308)朝廷に仕え、大覚寺派の歌道師範、二条為世の門に入って古今伝授を受けました。
 しかし、そのうちに隠遁の思いが募り、30歳の頃の1313年には、兼好御坊と言われる隠遁者になっていることが、「大覚寺文書」により、分かります。
 南北朝の内乱の時代には、彼は北朝側に属して京に留まり。二条派の和歌四天王と呼ばれました。
 1344年には足利尊氏が編纂させた和歌集の中に、5首を献じています。
 彼は歌人、古典学者、能書家、有職故実家として世に認められつつ、1352年以降、70歳前後で京都以外の土地で世を去ったものと類推されるようです。
 いつ、どこで世を去ったのか、彼の死を知らせる資料は全くないのだそうです。

 さて、徒然草序段
「つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」

 これについて、伊井春樹先生は、小林秀雄が昭和17年に40歳の時に書いた評論「徒然草」を紹介されました。
 その内容とは、まず、徒然草の名はこの有名な書き出しで始まるが、兼好の苦い心が、この名文によって隠された。つれづれとは、枕草子でも源氏物語でも、何かによって紛れるものと捉えられているが、彼にとってつれづれは、なぐさめられるものでも、何かによって紛れるものでもなく、一人寂しく虚しい。書いたために消えるものではない。書けば書くほどつれづれは深くなり、苦しいものとなる。

 兼好はまた私歌集を残しているが、歌集は徒然草については何も語らない。彼は歌人ではなく空前絶後の批評家である。その後、現在まで彼の毒を飲んだ批評家は日本に一人もいない。
 (世界を見れば)彼の批評より200年後に出現したモンテーニュがいるが、モンテーニュよりもはるかに鋭敏に、しかも鈍い刀で書いた文章は、味わえば味わうほどに凄さを感じさせる。

 というような内容の論文でした。
 徒然草が、鈍い刀で書いた凄みというのは分かる気がします。
 しかし、私は基本的に小林秀雄がキライなので、全面的になるほど、とは思えませんでした。小林秀雄って、その取り上げる対象人物について、大体がこういうふうに持ち上げて、突然モンテーニュみたいな人を持って来て、知識をひけらかして読む人をケムに巻く、っていうパターンのような気がします。

 彼はまた、この論文の中で鴨長明を「鴨長明と兼好法師を並べて評する人がいるが、鴨長明は全く異質である」とも言って割と否定しています。
 相当にリキの入った論文ですが、もし、小林秀雄が、兼好のつれづれの本意に触れるとしたならば、そんなふうに大仰に持ち上げることこそ、やめてあらまほしけれ、で、あります。

 なあんて生意気なことを書きましたけど、来週を楽しみにしています。
 この講座では、毎回兼好の歌集から歌を3首紹介してくださるそうです。それによって彼の私生活がおおよそ読み取れるらしい。

*春もくれなつも過ぎぬるいつはりの(以下聞きもれ)
*雲のいろに別れもゆくか逢坂のせきじの花のあけぼのの空
*逢坂の関吹きこえる風の上にゆくへも知らず散るさくらかな

4月10日
 第1段
 「いでや、この世に生まれては、願はしかるべき事こそ多かんめれ。」
 という、リズミカルな書き出し。
 はたで見てすばらしい人も、話してみると俗物だったりしてがっかり!とか、見た目が立派で心の良い人でも、勉学をしなくなると品性が落ちてもうダメ!とか、いろいろ書いてあります。

 第2段
 「いにしへのひじりの御代」
 は、醍醐、村上天皇の頃は、正しい政治が行われていたけれど、今はひどいものだ、という嘆き。

 第3段
 「色好まざらん男は、もの足りない」
 ということで、恋の情趣を理解しない男はつまらないやつ、という話。そこに
「あふさきるさに思ひ乱れ」という言葉がありました。「あふさきるさ」とは、あちさま、くるさま、あちこちへ、いろいろ考えて思案に暮れる、一方が良くてももう一方が悪い、ということで、どうしようもないありさま、だそうです。

2010年5月1日
すでに14段
 和歌こそ、なほおかしきものなれ。あやしのしづ、山がつのしわざも、言ひ出でつればおもしろく、おそろしき猪のししも「ふす猪の床」と言へば、やさしくなりぬ。

 和歌とは優雅なもの。下賎なものや山の木こりなどのようなもののことだって、歌にすれば趣がいっぱい。恐ろしい猪も「ふす猪の床」といえば優雅。
 今の歌は面白みがあるようだが、昔の歌にはかなわない。
 今同じ言葉を使って詠んでいても,昔の人が詠んでいるのは、たとえその頃評判の悪い歌でも、とても優れていると思う。

 第15段
 いづくにもあれ、しばし旅立ちたるこそ、目さむる心地すれ。

 この書き出しはすばらしくて、旅に出た時など、井伊直樹先生は時折この一行が心を横切るそうです。

 どんな所でも、ちょっとした旅に出た時は、なぜか新鮮な気持ちになる。
 あちこち見て歩き,田舎や山里などでは珍しい事ばかりだ。都へ行く人に留守宅に手紙を言付けたりするのも面白い。
 グループの旅などで、同行の人の旅の支度も地位の高い人はそれなりに、能力のある人、姿の良い人もそれなりに、いつもよりも趣があるし、寺や社にひっそりと籠るのもまた良いものだ。

 第16段
 神楽こそ、なまめかしく、おもしろけれ。
 おほかた、ものの音には,笛、ひちりき。常に聞きたきは、琵琶、和琴。

 これは枕草子の方法を引き継いでいる。兼好は音楽にも通じていて音楽好きだった。

 第17段
 山寺にかきこもりて、仏に仕うまつるこそ、つれづれもなく、心の濁りも清まる心地すれ。

 第18段
 人は己れをつづまやかにし、奢りをしりぞけて、財を持たず、世を貧らざらんぞ、いみじかるべき。昔より、賢き人の富めるは稀なり。

 人は、自分を謙虚にして、奢らず、財産を持たず、権力を求めるべきではない。昔から、賢人と言われる人に富める人は少ない。
 唐土に許由という人がいた。彼は何の財も無く水を飲むのにも手で飲んでいたので,ある人がひょうたんをくれたが、木の枝にかけたそれが風にカラカラと鳴るのがうるさいといって捨ててしまい、また手ですくって飲むようになった。どんなに心が爽やかだったことだろう。
 また、孫晨という人は冬でも布団がなく、藁が一束あるだけで、夜はそれに寝て朝はこれを片付けた。
 唐土の人はこれを素晴らしいと思えばこそ、記録して後世にも残したのだろう。わが国の人はそういうことは尊重しないので,語り伝えることもないのだ。

★藁一束というのは、なんともすごいですね。
 許由という人は帝から天下の政治を任せようと言われた時、良くないことを聞いてしまったと、川で汚れた耳を洗ったという故事もあるそうで、掛け軸の絵なんぞでも有名な話らしいです。

 次に兼好さんの和歌
18番
 おおい川つなぐいかだもあるものを
      うきて我が身のよる方ぞなき
(桂川の一部のおおい川は、丹波から切り出された材木を筏にして運んで来る。引き比べて、寄る辺のない我が身を) 
19番
 昔思うまがきの花を露ながら
      手折りて今も手向けつるかな
(小倉の宮の住んでいた所にお堂があり、そこに泊まった翌朝、花を仏前に手向けようと思い、同じ場所で同じように花を手折った宮の漢詩を思い出して)

20番
 契り置く花と並びの丘の上に
      あはれ幾世の春を過ごさむ
(御室の双びの丘近くに住んでいた兼好は、そこに自分の墓を作り隣に桜の木を植えた。自分が亡くなったのちも桜が見られるように。しかし、あといく春、生きてこの桜を眺める事ができるだろうか)

★まだ、なかなか兼好くんの徒然草の中に入り込めません。

5月8日
第19段
 =折節の移り変るこそ、ものごとにあはれなれ=
 「もののあはれは秋こそまされ」と皆さんがいうけれど、それもそうだがひときわ心浮き立つのは春の景色。鳥の声も春めいてのどかな日影に垣根の草が芽生えるころから、少し春が深くなって、霞がかかり,花も咲きでるころには折しも雨や風が続いてあわただしく散り過ぎてしまう、青葉になるまで心悩まされる日が続き、花橘、梅、山吹の清らかさ、藤のおぼつかない様子、すべて見捨てられない素晴らしいことばかりだ、、、。
 四月の灌仏会、五月のあやめ咲く頃、夏の終わりの水無月祓、秋の初めの七夕、夜寒く啼き渡る雁、野分の朝、

 こういうふうに書きつらねてみれば、みんな源氏物語、枕草子などに書き古されているけれど、今また言ってもいいのだと思う。「思っていることを言わなければ、腹ふくるるわざ」なので、筆にまかせて書いてみよう。破り捨てるつもりなので、どうせ人に見られることはないのだし。
 
★以降、冬枯れの景色、新年を迎える行事などを書きつらね、兼好くんとしても,自分なりの1年の行事を書いてみたかったようです。

第20段
=某とかやいひし世捨て人の=
 出家した人が、「この世のいろいろなものを捨てた身だけれど、ただ、空しくも過ぎ去った思い出ばかりは捨て去ることができない」と言うのは,本当にそうに違いありません。

第21段
=万のことは、月見るにこそ,慰むものなれ、ある人の「月ばかり面白きものはあらじ」と言ひしに、またひとり「露こそなほあはれなれ」と争ひしこそ、をかしけれ。折りにふれば、何かはあはれなれざらん=
 月、花、風、岩に砕ける水、昔も今も素晴らしいものだ。
 人里離れ,水も草も清いところをさまよい歩くことほど、心が癒されることはありません。

兼好くんの歌
ともだちの頓阿の母が亡くなったおくやみに
*儚くて降るにつけても淡雪の消えにし後をさぞ偲ぶらむ
頓阿,返し
*嘆きわびともに消えなでいたづらに降るもはかなき春の淡雪
(母を慕って死ぬ事もできずに、いたづらにこの世を過ごしています)
 兼好くんと頓阿は、二条為世の門下の「和歌四天王」の2人です!

山里にて
*寂しさもならひにけりな山里の問ひくる人の嫌はるるまで
(あまりに山深いので、尋ねて来る人も嫌って来なくなってしまいました)

用事があって都へ出かけたとき
*立ち返りみやこの友ぞ訪はれける思ひ捨ててもすまのやまじは
(田舎に引っ込んだ身の上なんだけど、都にくればすぐにともだちを訪ねてしまうんだ)

法華経の序品に
*いづかたも残るくまなく照らすなり時まちえたり花のひかりに
(菩薩さまが説教を終わり,目を閉じられますと、光りがあまねく四方を照らします)

★本文の「思っていることを言わないのは腹ふくるるわざ」というのは、徒然草の有名なフレーズですが、初出は「大鏡」のようです。

[ 日本史 ]
 
  今日の東京新聞、童門冬二さんの「先人たちの名語録」は、吉田兼好でした。ラジオで聞いているけど、いまいち馴染めない徒然草です。こういう人だったのか~。こんな書き出し。

=「枕草子」とならんで”日本の二大随筆文学”といわれるのが「徒然草」だ。作者の吉田兼好は京都の吉田神社の神官の家に生まれた。時代は建武の新政の前後である。
 建武の新政は後醍醐天皇の親政という、王政復古を標榜していたが、それを支えるのは、もはや王朝公家ではなく、新興の武士勢力だ。つまり、王政復古は名目であって、新政の実態は武士間の権力争いに変わっていた。=

★ふむふむ~さすが童門先生、短い中に情勢がよく分かります!さて、兼好くんはどうしていたのでしょう?

=兼好はこの状況を
「古代王朝的な慣習と新興武士のアンモラルとのせめぎあい」とみた。しかし、兼好はいたずらに懐古主義的立場に立って、”古きよきものを偲ぶ”というようなうしろむきの生き方はえらばなかった。
「この混乱期をいかに生きぬくべきか」
 と、前むきに対いあった。

 その点、数々の惨状を、ルポライター的に見聞し記録した鴨長明(方丈記)とはちがった。
(兼好の)
「一事を必ずなさんと思わば、他の事の破るるをもいたむべからず」はひとことでいえば「失敗をおそれていてはなにごとも成功しない」ということだ。
 が、兼好がいいたいことは、そういう観念的なことではなく、
「成功には必ず失敗がともなう」
 という冷厳な現実の認識だ。この事実に対して腹をくくる覚悟がないならば、事をなそうなどと思うな、ということだろう。
 展開される新政の諸相をみていての兼好なりの感慨なのか、それとも
「失敗をおそれずに変革をやりとげよ」という、かれなりの新政へのエールなのか。そこななんともいえない。=

★東京都政を仕切っていた童門先生は、今の政府のやり方にも、そうとう先が読めているはず。最後に

=おなじ「徒然草」のなかでこんなこともいっている。
「弓射ることを習うに、初心の人、二つの矢を持つことなかれ」と。つまり、二本目の矢に心をのこして最初の矢を射たのでは、最初の矢に心がこもらない、緊張感に欠けて結局ははずれる、というイミである。
 「徒然草」はきびしい人生の書なのだ。=

★という童門先生でした。橋本治ニイサんが「キャピキャピ女子高生」と称する枕草子に比べて、いまいち馴染めないのは、このきびしさについていけないからかな~。
 
2010年6月5日
 第三十八段

「名利に使はれて、閑かなる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。」から始まる段でした。
 財が多いと身を守るのに大変で、煩いを招く原因になるので、金は山に棄て、玉は淵に投げるべきだ。
 高い位につこうとあくせくするのも、たとえ愚かな人でも高位の家に生まれれば出世は決まっているし、賢人、聖人という人だって、時局にあわずに埋もれたままの人もいるのだから、ただただ高位を望むのも愚かなことだ。
 知性と精神の優れた人という名声を残したいと願っても、死んだあとに名前を残しても何の意味もないし、知っている人が死んでしまえば、誰も知らないことになってしまう。
 名利に関する全てのことは、全て存在しないことになり、生きている間にそのことを求めてあくせくするのはムダな生き方というものだ。

 というような段でした。兼好さまは
「働き蜂にならないように働きなさい」と、現代の人々にメッセージを残したようです。

第三十九段
「或る人、法然上人に、、」
 念仏の時に眠くてたまりません、どうしたらいいでしょうか、と聞くと「目の覚めている時だけ念仏しなさい」と答えられたのは素晴らしい。
 また、「往生は、確かと思えば確かだし、疑えば疑いのままだ」と言われたのも素晴らしい。
 また「疑いながらもひたすら念仏すれば往生できる」と答えられたのも素晴らしい。
 (人間の思惑を越えた念仏の行の絶対性を挙げたのだそうです。)

第四十段
「因幡の国に、何の入道とかの娘、、、」
 娘は美人の聞こえが高かったので、求婚者がたくさんいたが、この娘は栗だけを食べて米類を食べなかったので、「このような変わり者は人様に嫁がせられない」と、親の入道が許さなかったとのことです。

 源氏物語で、明石の入道が姫をなかなか近隣の豪族には嫁がせなかったことを彷彿させる。
 小林秀雄は、物が見えすぎる目をいかに制御するか、よき細工は鈍き刀にて、の例といいます。理解に苦しむ変な話ですが、余白は読者にゆだねられ、この小段から読者はいろいろな想像を広げるのだ、、、そうです。

第四十一段
「五月五日、賀茂の競べ馬を見侍りしに、、、」
 葵祭の一環で、混雑して前の人が邪魔でなかなか見られなかった。そんな折りに、向かいのせんだんの木に法師が登って見物していたが、眠りこけて落ちそうになって、あわてて目を覚ましているシーンが度々だった。人々はおどろきあざけって、「世にも稀な愚か者。あんな危ない所で眠ってしまうなんて」と言うので,ふと思いついて
「我らが生死の到来だってすぐかも知れないのに、こんな所で見物している。愚かさはあの法師以上かも」と言うと、前で見ていた人たちが「本当にそうですね、我らこそもっとも愚かな事です」と「こちらへお入りください」と席を空けてくれた。
 これくらいの道理はだれでも思うことだけれど、人々はどきりとしたらしい。人は木や石ではないので、時には胸に感じることがないわけではないようだ。

 気軽に言った兼好さまに人々が反応し、兼好さまはそのあと前の席でゆっくりと楽しんだらしいです。

 そんな兼好さまのうた。
*世の中はあき田刈るまでなりぬれば露も我が身も置きどころなし
(出家にあこがれているうちに、すっかり秋になってしまいました)
*あらましも昨日にけふは変わるかな思ひ定めぬ世にし住まへば
(出家への決意が乱れる)
*ともすれば鳰の浮き巣の浮きながら身隠れ果てぬ世を嘆くかな
(カイツブリのように身を隠すことがなかなかできません)

 兼好さまの出家の原因は不明だそうですが、なかなか思い切って憂き世を棄てられなかった人間兼好の思いがこめられている、、そうです。

2010年6月12日






2010年6月19日
 第51段
「亀山殿の御池に大井川の水をまかせられんとて、、」 
 大井の住民に水車を作るようにお命じになりました。多くの銭を払い、数日をかけて作らせたが、全然回りません。直してみたけれども回りませんでした。
 そこで、宇治の住民に作らせたところ、うまく回って、大井川の水をお池に汲みいれることができました。
 全て、その専門の道をわきまえたものは大したものです。

 第52段
「仁和寺にある法師、、、、」
 年をとるまで岩清水にお参りしたことがなかったので、あるとき思い立ってひとりで歩いてお参りに行きました。手前の極楽寺や高良などを拝んでよしよしと思って帰りました。
 そして、仲間の法師たちに得意げに「今までの念願が叶いました。噂以上にすばらしい所でした。しかし、お参りの人たちが皆、山へ登って行ったのは、何か行事でもあったのでしょうか。知りたかったのですが、神へ参るのが目的だったので、山までは行きませんでした。」と言いました。
 些細なことにも、案内役は必要なものです。

☆有名な段ですね。この最後の1行の簡潔な批評は、兼好らしさで冴えています。
 岩清水八幡宮へ行ったときはケーブルカーに乗って行った記憶があります。白い神馬もいましたっけ。
 
和歌
 兼好さまも、出家後の気持ちがだんだん定まってきたようです。

花を見て
*花の色は心のままになれにけり こと繁き世を厭うしるしに
(出家した甲斐がありました。花をゆっくりとみることができるのです)
後二条院崩御の折り、母の女院より経文に書き添える和歌を所望され、題「夢に逢う恋を」に
*うちとけてまどろむ事もなきものを会うとみゆるやうつつなるらん
(うとうとしたわけではないのですが、後二条さまにお会いしたのは夢かうつつか)

「木の残りの雪」という題を」いただき
*山深み梢に雪やのこるらん日陰に落つる松の下つゆ

「花の雲」という題で
*山高みまがわの花の色なれや凪ぎたる空に残るしら雲

「薄暮帰雁」という題で
*行き暮るる雲路の末に宿なくは都に帰れ雲の雁がね
(途中で宿がなかったら、再び都に帰って来てほしい。空の旅鳥たちよ)
第42段 
 「唐橋の中将といふ人の子に、、、」
 行雅僧都という人で、僧の学問的な指導をする僧がいました。のぼせの病で、だんだんに鼻の中がふさがって息もできなくなり、手を尽くしましたが治らないで、目、眉、額なども腫れてしまい、目をおおってしまうほどになって目が見えなくなりました。顔は二の舞の腫れ面のようになり、しばらくして亡くなってしまいました。
 こんな気の毒な病もあるのです。

第43段
 春の暮れ方、のどやかな空の下、それなりに身分のあるらしい人の家に古い木立もあり、庭に散り敷いた花も風情が会って、ついつい中に入って見てしまいますと、南の格子は全部下ろしてあるものの、東の妻戸がちょうど開いていて、御簾の破れから覗いてみれば、20歳ほどの美しい男が、くつろいだ姿なのに心にくいほど素晴らしい姿で、机の上に文を広げているのが見えました。
 どのような人なのでしょう。尋ねて聞いてみたいほどでした。

第44段
 「あやしの竹の網戸の内より、、、」
 若い男の、月影に色合いは定かではないのですが、つややかな狩衣(普段着)に濃い袴を佩いて、訳ありげに童を一人連れて遥かな田んぼの細道を、稲の葉の露に濡れながら分け入って行くとき、笛をなんともいえず吹き鳴らしていく姿を見て,どこへ行くのだろうと、あとをつけて行くと、笛を吹きやめて山の際の大きな門の中に入って行きました。
 車も並んでいるので、
 下人に聞くと、「今日は仏事のため、宮様などもおいでになっています」とのこと。
 御堂の方に法師たちも集まり、焚き物の匂いも流れて来て、寝殿から御堂の方に歩く女房たちの袖の香りも、人目のない山里なのに心遣いしてあるのでした。
 繁った秋の野のは露がいっぱいで、虫の音も、遣り水の音ものどかです。山が近いのでしょうか、都の空よりは雲の行き来さえ早い気がするのです。

第45段
「公世の二位のせうとに、良覚僧正と聞こえしは、、、」
 (歌人で15首勅撰集に入っているので、そう悪い人とも思えないが)
 極めて性格の悪い人で、坊の傍に大きな榎の木があったので人々が「榎の僧正」と言うのが気に入らなくて、この木を切ってしまいました。その根があったので、人々は「きりくひの僧正」と呼びました。 
 いよいよ腹を立てて、きりくいを掘り捨てたので、その跡が大きな堀ができたので、「堀池の僧正」と人々が言いました。

 歌
 世を逃れて木曽路にて(迷っていたけどやっと出家できましたあ!)
*思ひたつ木曽の麻ぬの浅くのみ染めてやむべき袖の色かは
(出家したからには決意は固い)
 修学院にこもりて
*逃れても柴の刈り穂の仮の世に今いくほどかのどけかるべき
(出家しても柴の庵に住んでも、いつまでのどかに過ごせるだろうか)
*逃れ来し身にぞ知らるる憂き世の心にものの叶うためしは
(憂き世で叶えられることもあったし、出家しても叶えられないこともある)
*身を隠す憂き世のほかはなけれども逃れしものは心なりけり
(逃れられたのは心だけだった)
*いかにしてなぐさむものぞ世の中を背かず過ぐす人に問はばや
(仏に身を委ねることにしたが迷いは無くならない。俗世の人はなぜ平気でいられるのか、聞いてみたいものです)

 徒然草本文では、王朝趣味の若い男の後をつけたり、趣のある家を覗いたり、興味津々の兼好さまですが、歌には、心の悩みがいっぱいです。
 どちらが本気でどちらがポーズの生き方なのでしょうね。



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