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第7官界彷徨

第7官界彷徨

私の立原道造

on 05.2.22 10:01 AM, at
wrote:
好きな詩人は立原道造です。彼の愛した信濃追分に住むのが長い間の私の夢でした。彼
が療養していた中野の療養所にも行きました。「悲しみではなかった日の流れる雲の
下に僕はあなたの口にする言葉を覚えた」立原道造のいろいろな詩を読んでいると、
梢を漉いた青空から流れる雲が見えてきます。彼は建築家だったので、「風信子ハウ
ス」という建物を設計しました。かれは自然や自由を愛し、戦争に反対しました。




2006/4月
立原道造ソネット集より 
『草に寝て』
それは花にへりどられた 高原の
林の中の草地であった 小鳥らの
たのしい歌をくりかへす 美しい声が
まどろんだ耳のそばに きこえていた

私たちは山のあちらに
青く 光っている雲を
淡く ながれてゆく雲を
ながめていた 言葉少なく

ーーーー幸せはどこにある?
山のあちらの あの青い空に そして
その下の ちいさな 見知らない村に

私たちの 心は あたたかだった
山は 優しく 陽に照らされていた
希望と夢と 小鳥と花と 私たちの友だちだった

 *1938年頃の作でしょうか。翌1939年3月29日、中野区沼袋の療養所で亡くなっています。26歳くらいでしたね。私は近くの椎名町のアパートに住んだ時、すぐに、憧れの地に早速行ってみました。(ミニ文学散歩!)国立中野療養所は、エゴの木の白い花が真っ盛りで、道に散り敷いていました。昔、彼が散歩した道かしら、彼がながめた花かしら、と思うと、感無量でしたよ。


2007年

 立原道造の盛岡ノートを読みました。これは春にSちゃんたちが盛岡に行ったときにお土産に買ってきてくれたものです。

 しおりには
 「平成18年、盛岡市は「もりおか暮らし物語」をスローガンとするブランド宣言をし、盛岡の観光・文化・景観・特産品・先人など多様な盛岡の価値をブランド化する計画を打ち出した」と、立原道造の世界とはほとんど正反対のことが書いてあり、また
「60年代末期の「立原ブーム」を支えた団塊の世代が自由な時間を獲得するのも間もない。ふたたび多くの人々の心を立原の清冽な抒情がとらえるであろう」なんて書いてありました。ちょっと俗っぽい取りあげ方です。

 清冽な抒情を商売にする感じ。地方の活性化に一役買わようという方向みたいで、実は高校生の頃からの立原道造おたくのわたくしめには???なんですけど、この試みによって、「盛岡ノート」を手にいれることができたので、つべこべ言わずに感謝です。
 同じ年に長崎にも行き「長崎ノート」も書いたそうです。読んでみたいです。

 立原道造は1914年・大正3年に東京で生まれ、
1928年、作歌を始め、石川啄木に心酔。
(それで盛岡に行きたかったのかも)
1934年、東京帝国大学工学部建築学科に入学
1937年、大学卒業・卒業設計は「浅間山麓に位する芸術家コロニーの建築群」
      秋、肺を病む
1938年、夏、病再発。信州追分に療養。9月、盛岡へ。11月、長崎への旅で発病、沼袋の国立療養所へ
1939年、3月29日、沼袋の療養所にて逝去。

 信濃追分に道造の跡を訪ねたことがあります。沼袋の国立療養所に行ったときには、エゴの花が雪のように散っていました。

 盛岡ノートでは、道造が歩き回った盛岡の町の地図があり、興味をそそられます。彼の得意とするソネットではないので、リズム感はないのですが、いろいろな人との出会い、岩手山や姫神山などの自然描写が素敵です。
 続く長崎ノートはどんななんでしょう。

 では、追分での彼のソネット・14行詩をひとつ
題もこんなに甘いんです
「甘たるく感傷的な歌」
その日は明るい野の花であった
まつむし草 桔梗 ぎぼうしゅ をみなへしと
名を呼びながら摘んでゐた
私たちの大きな腕の輪に

また或るときは名を知らない花ばかりの
花束を私はおまへにつくってあげた
それが何かのしるしのやうに
おまへはそれを胸に抱いた

その日はすぎた あの道はこの道と
この道はあの道と 告げる人も もう
おまへではなくなった!

私の今の悲しみのやうに 草むらには
1むらの花もつけない草の葉が
さびしく 曇ってそよいでゐる

 昭和41年の角川文庫の立原道造詩集は中村真一郎さんの編集です。その後書きにこんなことも書かれていました。

「人間であるよりは、遙かに妖精に近いような歩き方で、動き回っていた、建築家兼詩人の、半ば少年のような姿が、いつも半分真面目で、半分はあそんでいるような姿が、あの独特な笑みと一緒に、ありありと生きている。戦争直前の暗い時代の中で、彼は時代錯誤のように、時代の外に超越しているように、不思議の透明で、夢のように甘美な、純粋な詩を書いていた。「街には、軍歌ばかりが聞こえるようになる」と呟きながら。」

2008年4月
 今朝の東京新聞「とうきょうどんぶらこ」に、小林秀雄と中原中也のことについて、関川夏央さんが書いていました。昔、我ら文学少女は、中原中也派と、立原道造派に分かれていました。といっても一般大衆予備軍とは一線を画した、少数派の中のまた少数派の分裂なので、2~3人対1~2人という組織人員数。

 私は立原道造派でした。どこか女性のあたたかさを求めているような、母性から抜け出ていないような中也の甘さより、クールな立原道造が好きだと思ったのです。

 先日、友川かずきさんの歌う「中也」を聴き、もしかして立派な男だったのかもしれないと、思い直しました。
 今日の記事には、全然知らない中也の姿が。ちょっと短くしてご紹介します。

「昭和3年、24歳の小林秀雄と、23歳の長谷川泰子は、中野区中央1丁目に越して来た。
 桃園川が神田川と合流する手前、その南側である。 
長谷川泰子は、中也の年上の恋人だった。大正14年2月「駆け落ち」のように京都から上京。彼らはまもなく小林秀雄と知り、親しんだ。泰子21歳、中也18歳。

 東京帝国大学文学部に入学したての小林秀雄は、のちに「グレタガルボ」コンクールで1等をとって、松竹蒲田の女優になる泰子の美貌にひかれ、大正14年11月、中也から泰子を奪った。

 失意の中也は、中野区の下宿に一人住まいをしていた。例の「つば広の帽子をかぶった」写真の頃。

 昭和3年5月のある夜、小林秀雄は「出て行け」と長谷川泰子に言われ、家を出た。夜行列車で奈良に行き、そのまま住みついた。

 中也は勇躍した。もう一度泰子と暮らす夢をみたが、結局ふられた。
 関川さんの文章では、
 「昭和5年、泰子は別の男とのあいだに男の子をもうけた。中也はその子の名付け親となり、泰子の女優業が忙しいときには、あずかって世話をした。やがて泰子はまた別の男と結婚した。

 中原中也は昭和12年に30歳で死んだ。
 小林秀雄は昭和58年に、80歳で死に、長谷川泰子は平成5年、88歳まで長命した。

(中略)
 2008年は昭和83年である。彼らの「青春」が桃園川の橋の下を流れ去って、ちょうど80年が過ぎた。」

☆立原道造だったら、こんなに深追いしないでしょうね。さっさと見切りをつけて別れたことでしょう。

 友川かずきさんの歌でもすてきな中原中也「サーカス」の1連を。
「幾時代かがありまして
 茶色い戦争ありました

 幾時代かがありまして
 冬は突風吹きました

 幾時代かがありまして
 今夜此処でのひと盛り
 今夜此処でのひと盛り

 (中略)
 屋外は真っ暗  闇の闇
 夜は劫劫と更けまする
 落下傘めのノスタルジアと
 ゆあ~ん ゆよ~ん ゆやゆよん



2008年5月
帰って来てみかんの散歩に公園に行くと、エゴの木の花はいよいよ見事に咲いていました。昔、立原道造が亡くなった沼袋の療養所に行ってみた時、たくさんのエゴの木がいっぱい花をつけていたのを思い出します。エゴの木は私にとって、立原道造に一番近いものです。
 この木は、秋にカロリー豊富な実をつけ、ヤマガラの一番のご馳走になるのだそうです。確かにこの木にも冬になるとつがいのヤマガラがやってきて、一日中夢中で実をつついています。

 1938年夏、立原道造は肺の病が再発し、信濃追分に療養しました。
 建築事務所を退職し、同人誌を始めます。その同人たちと会う事を目的として、日本の南北を縦断する大旅行を計画し、9月に北に向けて盛岡に行き「盛岡ノート」を書きます。
 11月、帰京して長崎に向かって出発。旅行中に発病して帰京。沼袋の東京市療養所に入ります。
 1939年3月29日、同療養所に逝く。

 ここで、気が付いたのですが、そうすると立原道造はエゴの木の花の季節には沼袋にいなかったことになります。今まで、立原道造が見たであろう沼袋のエゴの木、とばっかり思っていたのに。(涙)

 では気をとりなおして彼の詩をひとつ
「草に寝て」」ー6月のある日曜日に

 それは 花にへりどられた 高原の
 林のなかの草地であった 小鳥らの
 たのしい唄をくりかへす 美しい声が
 まどろんだ耳のそばに きこえていた

 私たちは 山のあちらに
 青く 光っている空を
 淡く ながれてゆく雲を
 ながめていた 言葉すくなく

 ーしあはせは どこにある
 山のあちらの あの青い空に そして
 その下の ちひさな 見知らない村に

 私たちの 心は あたたかだった
 山は 優しく 陽にてらされていた
 希望と夢と 小鳥と花と 私たちの友だちだった

 病気の苦しみよりも、希望やしあわせな思いが勝っていたような、立原道造の闘病生活だったと思います。高校生の頃からずっと好きで、今でも一番好きな詩人です。


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