「誇示されたものは・・・」
やさしい人に出会う時・・・自分の中のやさしさの方向を確認することになる。傲慢な人に出会う時・・・自分の中の傲慢な部分を試されることになる。全ての出来事は、いま自分がいるところを顕わにもできる。顕わにしたくなければ、見たくなければ、見ないこともできる。自分を守るために、自分で自然に選んでいる。あらゆる事柄に、優劣、上下はあり得ない・・・だけど、それを持つことで安心する人もいる。そんな時は、また、自分の中のそれらを試されている。そんなこと、本当はどちらでもいいことだし、見方によっては、逆転することも往々としてあることだけど・・・自分の思い通りに理解されないことに、恐れだったり、嫌悪感を感じたりしてしまうのかもしれない。「こう理解して欲しい」と強く示したい思いの中には、「本当はそうではないかも…」と確信できない思いもあるのかもしれない。自分の思いは自分のものなんだから、いくら誤解されてもいい、と思う反面、誤解されることで人は、不安定を感じてくる。それは「人は1人では生きられない」という、単純なすり込みによるものからきているのかもしれない。誤解する人は、それが正しいと勘違いして、誤解しているのではなく、ほとんどの場合は、自分が信じたいものを受け取り、そう思いこむ。なにかを、証明したい、弁明したい、と思った時、また、逆に相手にそれを感じた時、「誇示されたものは欠如を表す」 (フロイト)この言葉が頭の引き出しに入っていると、こころに余裕が生まれるかもしれない。実際の場面では、そうやすやすと切り替えできないかもしれないが、こころの中のスペースを、外のものに全て乗っ取られることなく、自分が自分らしくあられるスペースがあるかないかでは、雲泥の差になるかもしれない。そういう時の言葉は例え、きつい言葉使いでも柔らかい・・・素っ気無くてもあたたかく伝わる。先達に教わった言葉でも、自分の言葉として回っていく。借り物、嘘、偽り、誤魔化しが統合されていく。逆にそうでない時は、どんなに飾った言葉でも潤いが無い。表出しているものと全く相反するものが、想念としても伝わるのかもしれない。