173822 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

朝吹龍一朗の目・眼・芽

朝吹龍一朗の目・眼・芽

幽霊  第五回から第十回

第六回
ずいぶん早いラストオーダーだと思ったが、身支度をして6時に降りてくると、レストラン
といっても街を見下ろす窓際に4つ、柱をはさんで6つ、それに奥の壁沿いに5つ、合わせて15テーブルしかない小ぢんまりとした店であることがわかった。金曜日なのに誰もいない。実際はあとから6組の老夫婦が現れたのだが、それにしてもこれだけ空いていれば6時から9時までの営業というのもわからないでもないし、ヨーロッパ人のメンタリティから言ってもそれが相応しいのかもしれない。

 案内された席は柱のそばの、決していいところではなかった。一種の差別かなあ、と思いつつ、うやうやしく寄り添ってくるギャルソンが差し出すメニューを見て眼の玉が落ちるかと思った。この値段ならこれだけ閑散としていてもおかしくない。普通の人なら1年に一度、よほどの記念日にしか来ようとは思わない値段だった。森之宮は小さくため息をつきながら、「小さいメニュー(定食)」というのを指さしながら、それでも
「ジビエはないか」
 と英語で聞いた。
 下の町ではすでに提供しているところもあるが、当店では11月から加える予定です、という答えが返ってきた。ジビエとは、野生のウサギやシカやイノシシなどを猟銃で撃って取ってきたものを言う。日本を発つ前に読んだ本の中に、秋のヨーロッパの味覚としてこれに勝るものはない、と紹介されていたものだ。そういうわけで「小さいメニュー」のメインディッシュはアヒルだと言うので、ソムリエにワインを選んでもらうことにした。本当は1本は結構多いのだが、ひとりで旅する限り、仕方ないことだと割り切って、コース料理とほぼ同じ値段の1976年もののブルゴーニュの赤を選んだ。鳥料理に合わせて少し軽めである。


 前菜を運んできたのはアンジェだった。見たこともない美人で、知的で、英語も上手で、フランス語も当たり前だが上手で、はにかみ屋で、ともかくまだまだ100も200も褒め言葉の形容詞が連ねられるほど森之宮は一瞬で夢中になった。

「belle femme(美人)」
とささやいた。彼女は微笑んだ、ように見えた。すると、彼は君のことを気に入ったみたいだから、よく注意して見ているように、とギャルソン頭が言っている。英語のうまい丸顔の人のよさそうな中年男だ。そのおかげでなにくれとなくアンジェが面倒を見てくれることになった。ワインが少なくなれば、パンを食べてしまえば、必ずアンジェが給仕に来た。全部で7組しかいないのだから楽なものかもしれないが、それでも森之宮一人にサービスしてくれているように思えて仕方がない。

 目をあげると窓が見えるのだが、外はやや荒れ模様で、時折大きくなびく木が園燈をさえぎり、黒い模様が窓枠と交差する。

 周りにはそろえたように60過ぎの夫婦が席を占めている。一目で裕福とわかる身なりである。どのテーブルにもワインが2本くらい並んでいるので、いくらなんでも車を運転して市街地まで戻るとは思えない。すると今晩の宿泊客は森之宮を含めて7部屋分ということになろうか。あとでN**市の観光局発行のガイドパンフレットをみると、市内に3軒しかない4つ星(この当時ベルギーでは星は4つが最高)ホテルのようで、たぶん一般住民がおいそれと食事や宿泊に来るところではないだろうという推定は当たっていたようだ。

 レストランの中は老人たちの立てるナイフやフォークと皿が当たる音以外に滅多に耳に入るものはない。厨房との境は開け放ってあるのだが、そちらの物音もほとんど聞こえてこない。それだけに時折交わされる彼らの会話は、別に耳をそばだてているつもりはなくても、森之宮の意識の表層をゆらゆらと横切っていく。

 どこから来たのだろうか。中国人だろうか、それとも日本人か。ずいぶん若くて、しかも一人でこんなホテルに泊まるなんて、マンダリンじゃないか。声が大きいよ、いや、フランス語はあまり分からないようだから大丈夫じゃないか。たしかに、日本人は英語ばかりで、大陸の言葉を理解しない、いや、大陸の物の見方を知らないのではないか。島は島しか理解できないのかもしれない、しかし我々はブリテンを理解できるぞ。あのギャルソンヌは彼のことばかり気を使っている、きれいな子。何か手帳に書き付けている、ミシュランかな。いや、ミシュランなら少なくとも二人で来るらしいよ、でもさっきからシェフがそわそわと厨房から顔を出している、気になっているに違いない・・・

 まるで『聞き耳頭巾』だ。物心つき始めた頃母親が布団の中で話してくれたおとぎばなしのようだ。彼らの本当の本心は別だが、少なくともお互いにしゃべっていることはほとんどすべて筒抜け状態になっている。『聞き耳頭巾』をかぶった男が、小鳥や小動物たちが目撃した真実を言い交わすのをこっそり聞き取って自分の役に立たせるストーリーを聞いて、子供心には少しずるいような気がしたものだが、こうして自分がその立場に立ってみると、こんなに有利なポジションはざらにないことが実感できる。森之宮自身が歳を取って、3歳の子供より無垢でなくなってしまった証拠かもしれないと思いつつ、しかし同時に加藤さんのアドバイス、あまりフランス語ができることを見せないようにしなさい、ということの真意がこんなところにあったのかとようやく思い当たった。そういえば加藤さんはドイツ語もフランス語も本当はできるし、切符を買ったりレストランで何か交渉したりするときは流暢にそれらをあやつっていたけれど、国際会議ではほとんど英語しか使っていなかった。森之宮同様、『聞き耳頭巾』状態だったわけだ。

「小さな定食」のはずなのだが、こうして耳に入ってくる、ある意味で無遠慮なささやきや、さっきから片時も心と眼を離せない美女のギャルソンヌの影響か、メインディッシュのアヒルのフィレはとうとう四半分を食べ残してしまった。柑橘系ベースで野ぶどうとパイナップルのシロップ漬けが一緒になっているのになぜかあっさりしてほどよい甘味のソースがかかっていて、付け合わせの新ジャガイモともよくマッチしていたのだが、いかんせん量が多い。

 すでに何組かの客は帰っている。あと3組くらいしか残っていなかった。それほどこの一皿とはだいぶ格闘していたらしい。アンジェが見かねてフィニー?(食べおわりましたか、と言うほどの意味か)と小さな声をかけてきたので、同じように小さな声でウィ、と答えた。

 レストラン中の客がさわさわ、という音でもしそうな感じで森之宮に視線を送る。ほどなくギャルソン頭が来て、お気に召さなかったか、と聞くので、単に胃袋が小さかっただけで、味は上々だったと、注意深く英語で答えた。ちょっと口をすぼめて不満を表しながら、でもそれ以上何もいわずにギャルソン頭は引き下がり、入れ替わりにアンジェが来た。 

 アンジェというのはあとでわかった名前である。このときは森之宮はずっとベルファム(belle femme)と呼び続けていた、ただし小声で。ちょうどこのとき、時間的には9時を過ぎる少し前に、最後のデザートとしてミラベルという梅の一種から作られたリキュールを凍らせたシャーベットを運んできたのだった。

 思い切って言った。
「9時に終わってしまうということなので、仕事が片付いたら部屋に来てくれるとうれしい」
 胸がドキドキしている。顔を上げられない。目を合わせるのがこわい。

 ギロチンが落ちてくる瞬間を待つような間があって、ほかの客やギャルソンたちに聞こえない程度の小さな、でも森之宮にだけははっきりと聞こえる声で、それも思いがけないことに日本語で、答えが返ってきた。


第七回
ヨロコンデ。ヨとロに微妙な間があり、「コ」にアクセントがある変な発音だった。すぐにフランス語で同じことを言った。avec plaisir!(アヴェクプレジール!)なんとなく大人が子供を諭すようなイントネーションだったので、これはよくできたリップサービスだと観念した。森之宮は飛び出る目玉をメガネが抑えてくれているうちにと思い、そそくさと請求書にサインして部屋に戻った。宿泊代より高い。

真っ白で長い髪。青灰色の瞳。長いまつげ。ふっくらした頬。薄くもなく厚ぼったくもない唇。対照的に薄い胸。その代り締まった腰。ガラス細工のように細くて華奢な指。少し細長い卵型の顔、適度にシャープなあご。真っ白で端正な歯並び。ぽきんと折れそうな腕。順不同で思い出すその容姿。そして声。アルトというほど低くはないが、頭のてっぺんから出るようなソプラノでもない、女声としてほどほどの高さ、ゆっくりとした明晰な語り口、それも過不足なく控え目でいて満ち足りている。何のことはない、典型的なフランス人形の顔立ちとインテリの物腰だ。日本人ならみなあこがれる、一度は付き合ってみたい、できれば妻にしたいと思う、そんな。

 でも本当に美人だったし、もう少し話もしたかった。みるからに改装したてとわかるアメリカ式に清潔で明るいバスルームで自分の身長より大きいバスタブにつかりながら、森之宮はアンジェの容姿を思い返してみた。このホテルには月曜の朝まで都合3泊することにしている。比較的ゆとりがあるので、明日は早めに出発してD**市観光の予定だ。日曜日はゆっくり起きてN**市を回ろうと思っている。一人には慣れているから。強がりを独り言でつぶやく。

 暗い照明の下で父親の助言のブランデーを取り出し、ナイトキャップ代わりになめていると、ちりんちりんと小さめのベルの音がした。

 ドアの外の紐を引くと、部屋の中にあるベルが揺れる旧式の仕掛けだった。ドアの外にはアンジェがいた。ククー、とフランス人がよくやる鳩時計のまねをした顔の前で両手を広げるおどけたしぐさをしながら笑って立っていた。

 森之宮は一瞬何がどうなったのかわからず、幽霊でも見るような眼でアンジェを見つめた。まるで幽霊のように見えますか、と笑いかけたアンジェをもう一度見直すことで、ようやく天国に昇ってしまいかけた魂を引き戻した気がした。

「よく来てくれましたね」
 一応『聞き耳頭巾』状態を保とうと、取り敢えず英語で話しかける。あなたがうれしいと思うことをする気持ちになりました、それが理由です、それ以外に理由はありません、とアンジェが言うのだが、森之宮は自分で誘いかけておきながら全く訪れを予期していなかったのでうまく言葉が出てこない。その上、体が動かない。アンジェに胸を押されるまで、自分がドアの内側に立ちふさがって、いわばとうせんぼをしていることに気付かなかった。でも押されたときに、アンジェのほうが背が高いことにだけは気がついた。

 後ずさりする格好で部屋の中に入る。3メートルほど廊下のような部分があって、その右手はバスルーム、突き当るとドアがあってその奥がベッドルームである。後ろへ後ろへと歩き、幸い開け放ったままだったドアを通り抜け、ようやく体を反転させることに思いが及んだ森之宮は、そのまま窓際のテーブルセットまでアンジェを導いた。いや、正確にはアンジェが導かれるように振舞ってくれただけで、実際はアンジェ自身の意思でそこまで歩いて行ったといっていい。

「だってきてくれるとおもわななった」
 思わず日本語でつぶやくと、再びアンジェが今度は日本語で繰り返した。あなたがうれしいとおもうことをするきもちになりました。やっぱりアクセントが変だ。思わず森之宮がクスッと笑うと、にほんご、おかしいですか、わたしの。と、後ろから2つ目の音節にアクセントを置いて話す。いっぺんで足がじゅうたんについた気がした森之宮は正直に英語で言った。
「あなたの日本語はラテン語系の発音です、後ろから2番目の音節にアクセントを置いていますね。日本語は強弱のアクセントをあまり持ちません。どちらかというと、高低のアクセントで、それも同音異義語を使い分けるとき以外はあまり意識してアクセントをつけることをしません。したがって」ここから先は日本語で言った。
「あなたのにほんごのアクセントはおかしいです。しかしにほんごはじょうずです」

 わかりました、ほめられるということは、へただということを表していることは承知しています、では英語で話しましょう、アンジェはそう言って英語で話し始めた。差し出した父親の助言のブランデーを慣れた手つきで受け取ると、いいにおい、と言いながら一気に飲み干す。ゲントではほとんど手をつけなかったのでビンの中身はほぼ丸々残っている。今晩中に空けてしまったら、また買ってくればいいやと思いながら、アンジェが差し出す空のコップの半分くらいまで注ぎ足した。

 このときの最初の自己紹介で初めてアンジェの名前がアンジェリック・ロレーヌだということがわかった。森之宮の名前がKimitoshiとわかると、Kimiはあなた、という意味もありますね、とアンジェが講釈を述べる。漢字で書くと「公」だから、いわゆる「君」とは違い、もっと貴族的なのですが、と反論を述べると、なるほど、貴族ですか、あなたは日本の貴族階級出身なのですね、と、妙に納得した顔をするので、すぐに打ち消したが、森之宮としてはまんざら悪い気もせず、むきになって否定したのをすぐに後悔した。

 そのついでに、この部屋、に限らず、このホテル全体、いや、ヨーロッパのホテル、いやいやもっと広げてヨーロッパ全体の夜の照明、が暗いことを指摘した。
「欧州人は明るいのを嫌うのでしょうか。眩しいのでしょうか。だからホテルの部屋の照明は思いっきり暗い。おかげでアンジェ、あなたの美しい顔がよく見えません」到底日本語では、日本では言えないセリフである。英語だから言えるんだなあ、と森之宮自身が思ってしまうような、いわゆる歯の根の浮きそうな物言いである。

 アンジェの答えは、目が黒くないかららしいです、というものだった。調子づいて、どれどれ、と鼻と鼻がくっつく距離まで近づいた。確かにアンジェの眼は灰青色をしていた。あなたはなるほど目が黒い、と言うので、
「日本語には「おれの眼の黒いうちは」と言う表現があります」
 と言うと、すぐに、そうすると欧州人って、みんな死んでいるのですね、とアンジェが答えを返した。

「そうか、お化けだから暗い所が好きなんだ」
 と森之宮が言うと、では、肝試し(Test your brave)をしようという。納屋があって、武器庫(アーセナル)があって、よろいががちゃがちゃと動き出すという。鎧の手にはバトルアックス。ときどき首を切られる宿泊客がいる、自分を部屋に招いた紳士はみんな・・・
「みんな?」
 アンジェがギロチン(Guillotineギヨチーヌ)のしぐさをする。うそばっかり。
                                
 
第八回
それなら行こうと出かけることにした。森之宮の部屋のある1階から地上階に降り、更に地下1階に降りると、従業員用の出口から外に出ることができた。風は収まっていたが気温はかなり低く、東京でいえば1月か2月の夜という感じだった。寒さだけがふるえを催させているのではない、森之宮だけでなく、言い出しっぺのアンジェすら、ちょっと怖いかもしれませんね、と小さいが高い、かすれた声でつぶやいた。コートのポケットの中で左手をきつく握ってくれるのがうれしいような、誇らしいような気がしている。

 ホテルから城塞に向って急な坂道を降りていく。ほとんど明かりはない。日本なら街の灯が曇天に映えて、その照り返しが暗い一帯をもぼんやりと明るくしてくれるものなのだが、眼下にひろがるN**市のたたずまいは中世の城下町ならこうだったのではないかと思わせるほどぽつんぽつんと街路灯が目につくくらいで、面としての明るさは期待すべくもなかった。空に星はない。

 案の定、空から白いものがちらちら落ちてきた。切れそうになっている蛍光灯の街路灯の下でそのいくひらを手に受けながら、今年初めての雪です、幸せに満ちた天から、地上にも幸せがあるのかどうか、わざわざ私たちに聞きにきたのです、何と答えましょうか、とアンジェが言った。
「祝福でしょうか(Blessing us?)」
 歩き続けながら森之宮は言った。声が枯れているがもう気味の悪さはない。アンジェが握りしめる左手はじっとりと汗をかいている。思いのほか背の高いアンジェの横顔がかすかな明かりの中にほの白く浮かびあがる。ギリシャ彫刻のようにすべすべして、まっ白で、美術館にあるように美しい。両側は落葉樹の並木が続く。すらりと伸びた木が一本もないのが不思議と言えば不気味な気もした。

 アンジェにとってもこんな夜更けの散歩は初めてのようで、昼と夜とではこんなに印象が違うということは、支配原理も違って当たり前でしょう、やはり夜には夜の主張と哲学があると思いませんか、と聞くので、
「仕事原理の昼、恋人原理の夜。これでいかがでしょうか」
 と森之宮は答えた。正直言ってもう少し気の利いたことを言えばよかったと後悔したのだが、アンジェは黙って森之宮の左手を握りなおしてきた。

 城を出た時には気づかなかったが、下に降りてくるに従って地面から湧き出すようにもやが出てきた。そのぶん、すこしだけ温かいような気がする。アンジェは誰に言うともなくフランス語でぶつぶつと独り言をつぶやいている。それは、自分自身の性格を反省するものであったり、同じく今日の振舞いを自己批判する内省であったり、ホテルの従業員たちとのやり取りを反芻するものであったり、また森之宮への印象を語るものであったりした。

 いちいちは答えていられないし、聞き耳頭巾としてフランス語はそんなにできない『お約束』でもあるので、森之宮に言及したところだけ、英語でコメントを返すようにした。サルみたいだけど知性はあるというので、こんな夜更けにこんな戦場であったところを、かすかに血の臭いのするところを歩くのだったら少なくともお化け、ゴーストでないだけでも良しとするべきだ、と答える。また、わざわざ日本からこんな中世の残滓みたいな街に来なくてもいいものだというので、夢でエンジェルが舞い降りた先がこの街だった、よく見たら君だった、と答えた。

 あなたが夢に見たのはもちろん私ではなかったのでしょうが、私にとっても、こんな霧の中を暖かい声の人と一緒に、それも真夜中、こうして歩いているのは一種の奇跡かもしれませんね、あなたがこのままの姿でいてくれることを願います、とつぶやくアンジェの腕を引き寄せようとしたとき、逆に強い力で引っ張られ、そのまま小走りに走り出すことになった。

 雪に濡れて少し滑りやすくなっている石畳の上、城壁と通路が入り組んだ一帯を通り抜けると、ぼんやりと広がるN**市の街を一望に見下ろせる一角に出た。ゆったりと流れる2つの川の合流点の三角形になった部分を占めている。確かに『ヨーロッパで一番』かどうかは別にして、要衝と言うのに相応しい位置取りであることは間違いない。川を越えて町に向って城壁には規則的な間隔で銃眼が開いている。攻めのぼってくる敵軍を迎え撃つためのものに違いないのだが、時には領民に向って火を噴いたであろうことは間違いない。同じことをアンジェも考えていたようで、昨日まで親しくおしゃべりしていた人たちに向って殺意を抱くことができるのが人間なのですね、と小声で言った。声を出して同意を表す代わりに、すっかり暖かくなったので森之宮のコートのポケットから出してつないでいた手をそっと握りなおした。

 Me**川とSa**川の合流地点が見える『城の足』と呼ばれる、城壁の先端部分まで来ると、アンジェが何かを探すようにきょろきょろし始めた。ええと、Sa**川の方に向いて、下からいちに、さん、四段目の、左から十一番目。これです、これを見てください。この石はいつも濡れているのです、きょうは雪でどれも濡れてしまっているのでわかりませんが、どういうわけか、夏の強い日差しの中でもこの石だけはしっとりと濡れているのです。なぜだかわかりますよね、とアンジェが水を向ける。空いている左の手を目の上にかざし、首をかしげて森之宮を見る。黒いコートの上に無造作にまいたカシミヤの白いマフラー、もっと白く美しい顔。答える前にじっと見つめたいくらいなのだが、気を取り直して少し真面目に答えてみる。

「ここで何か惨劇が起きて、N**市にとって大事な人が無念を飲んで亡くなったのかな」
 森之宮自身があまりに陳腐だとに思ってしまった想像力にそれでもアンジェは笑わずに、そうなのです、ドヴィルパン男爵とその娘がここで卑怯にも裏切りにあって殺されたのです、と答えた。
「すると、この石をないがしろにすると亡霊が出てきて追いかけられるのかな。蹴っ飛ばしてみようか」
 森之宮が右足を引いてフリーキックのしぐさをすると、アンジェがきゃっと小さく叫んで抱きついてきた。頬と頬が、胸と胸が、触れ合う。しばらくそのまま温かさを感じていたかったのだが、何かに気がついたようにアンジェのほうから身を離した。

 アンジェは無言で森之宮を見ている。思わず目を伏せた。それを潮に、城壁の西側をたどりながら、かなりの高みになってしまったホテルを目指してゆっくり戻り始めた。すっかりご不興を買ってしまったようだ。二人とも無言で、しかし手だけはしっかりつないだまま、いつの間にかほとんど10メートル先も見えないくらい濃くなってしまった霧の中を歩いて行った。ちらちらと雪は少しだけ、しかし止むことなく落ちてきている。

 1時間以上散歩してしまったようだ。気温はどんどん下がっているが積もるほどではないらしく、路面は黒いままだが芝生はうっすらと白くなっている。私たちはこんなに息を吐いたでしょうか、この地面の白さの原因は私たちにあると思います、とアンジェが左に体をひねって下から森之宮を見上げるようにして言った。見下ろすアンジェもきれいだと森之宮は思った。すっかり機嫌も直っているようだ。

 ホテルの前の噴水が見えてきた。まっすぐ登れば正面玄関だが、二人は厨房に近い、すなわち玄関から左へ回ったところにある通用口から出たので、そちらへと向かう。

 と、出る時に使ったドアが開かない。アンジェが一生懸命ドアノブを回すのだが、固くさびついたように動かない。締め出されてしまった、と振り向いたアンジェが泣きそうな顔をする。どうしよう、あの石、蹴ったでしょう、だからです、きっと後ろから亡霊が追ってくるのです。ああ、わたしたち、もうおしまいです。その時、やや遠くでくぐもった、しかし明らかに金属がぶつかり合う音がした。鎧の擦れる音が頭に浮かんだ。

                               
第九回

森之宮が力一杯ノブを引っ張ろうとすると、あっけなく開いて予想外に大きな音を立てた。アンジェが笑っている。かつがれた。さっと顔に血が昇るのが自分でもわかる。しかし顔には出しても声には出さず、落ち着いて問いただした。
「あの音は何だったのでしょうね」
 たぶん庭園の柵がちゃんと閉まっていなかったのでしょう、とアンジェはこともなげに言い返してきた。懐中電灯の光がまばらになってきた雪片に反射されたかすかな明かりのなかに、笑いをこらえることに精いっぱいになっているアンジェの顔がぼんやりと照らしだされる。不快感と同時に、悔しいけれどちょっぴり安堵感を植えつけられた森之宮は、大きく息を吐き出すと足早にドアの中へと飛び込んだ。

 屋内は外気と同じくらい寒い。廊下や使っていない部屋に暖房がないのは当然なのかも知れない。二人の着ていたコートの表面についた雪は屋外にいる時からすでに溶けていて、まるでにわか雨にでも逢ったように濡れている。1階の森之宮の部屋まで戻ると、ドアを開ける前にアンジェがそのコートを器用に脱いでばさばさと振り回す。こうして外で水気を払っておかないと部屋の中が湿りますという。ヨーロッパ人にとっては、自分に与えられた部屋のドアが境界に相当するのだということがわかった。森之宮にとってはホテルの玄関ドアがそれに当たるのだが。

 こうして探検から戻ってすっかり冷え切った体を温めたのは父親アドバイスのブランデーだった。アンジェは受け取ったコップをベッドサイドの照明にかざすと、あまり高級ではないグラスですね、と言って2フィンガー分を一気にあおった。でも中身は上等です、と、グラスをテーブルに戻しながら付け加えた。

 一息つくと、アンジェが挑発してきた。城塞を背景にした肝試しは無事終わったけれど、実はこの城自身にも肝試しをする場所はまだまだ隠されている、たとえば、塔、タワーといえば、美しい姫君が幽閉されているところと相場が決まっています、と言うのだ。

 ホテルについて、正面から見あげたときに既に気づいていたのだが、玄関の上に確かに塔がある。持ち前の好奇心から、チェックインしてすぐに出かけた探検の際にはどうしても入口が見当たらなかった。しょうがない、あまり乗り気はしないのだがアンジェに案内してもらうことにした。手をつないでそのまま3階まで階段を上がる。一度来たフロアだ。最前はここで立ち往生したのだった。しかし今回も森之宮の目にはどこにもその上の階に上がる階段らしきものは映らない。客室もここまでのようである。

 ところがアンジェが森之宮の手を引いてそのまま階段正面にある客室のドアを開けた。中は真っ暗だが、どうやらいわゆる客室ではないようだ。1階や2階と同じような少し小さめのバンケットルーム然としていて、今は机や椅子が片付けられているせいでがらんとしている。真っ暗でも外から入ってくるかすかな光と二人が照らしている懐中電灯のおかげでそのくらいはわかる。アンジェが握っている手に力が入って、部屋の右隅に引っ張られていく。真鍮のレバー型のノブがついたアーチ型のドアがあった。アンジェは何のためらいもなくそのドアを押した。と、隠し階段が続いていた。これでは一見(いちげん)さんにはわかるわけがない。

 4フロア分くらい昇ると、これが最後なのだろう、鉄のはしごが天井に向かって伸びていた。耳元でKimiが先か、私が先か、とささやく。息が耳の穴にかかってくすぐったい。先に行かなければ男の子じゃないと思って、森之宮は鉄の横バーを握った。

 天井はちょうど梯子の上の一部が跳ね上げ式になっていて、音をたてないようにそっと開けて頂上に出る。すぐ下から息一つ切らせずに続いてくるアンジェの手を最後に引っ張り上げて男らしいところを少しは見せて、地上25メートルくらいある物見塔にやっとたどりついた。

 ほとんど風がないのだが、さすがに午前2時を回っているのでしんしんと冷えてきた。天気は目まぐるしく変わっているようで、霧が少し切れ始めている。雪はとうにやんでいる。暗いながら、それでもだいぶ見通しがよくなってきた。北方遠くになんとなく街の灯が見える。それに引き替え南側は真っ暗である。視界は確かに360度開けている。さすが物見の塔である。

 と、突然アンジェがJe suis en chaleur.(ジュスイアンシャリュール、私は熱い)とささやいて体を密着させてきた。確かにそうすれば寒さはいろいろな意味で和らぐ。森之宮が羽織っているのはほとんどレインコートのように薄い化繊のバーバリで、アンジェのは手触りがすべすべしていて素人でもすぐに上等だとわかる白いカシミヤだった。どちらかといえばアンジェのコートにくるまれたほうが温かいのだが、ここは見栄を張ってでも自分のコートの前を開いて受け入れることにする。少し腰をかがめて、お姫様は見つかりましたか、と言うせっかくのアンジェの問いかけには答えず、森之宮は眼下に広がる闇の中を指さした。

 城塞内に点在する街灯にぼんやりと照らされている木々が、まるでお互いに謀ったように突然音もなく一斉に葉を散らし始めたのだ。すると森之宮の驚きを察したようにアンジェが言った。あれは単に散るのではないのです。散らす順序も速度も決めているに違いないのです。木々は土でつながっているのです。散らすのにもハーモニーがあると思いませんか。木(Arbre)は、ちょっとエロチックです。森之宮は同じような表現を日本語で読んだことがある(*)ような気がした。その時はずいぶん気障な言い方だと思ったが、目の前でアンジェがつぶやくのを聞くと、なんとふさわしい表現なのかと感心してしまった。単純なものだと自分で思った。

 寒かった。二人、目を合わせるとどちらからともなく今は床になっている跳ね上げ天井の板を見た。降りるときもレディーファーストなのだろうかと思っているとアンジェが森之宮の方を見るので、これは先に降りるのが正解だと悟った森之宮が先導することにした。

 部屋に戻って再びブランデーのお世話になろうとしたとき、机に放り出してあった単行本をアンジェが手に取った。これは何かという。「人間臨終図鑑」というタイトルで、ある年齢で亡くなった古今東西の有名人の小話が集めてあります、と解説した。

 受けた。アンジェが尋常でない興味を示した。

わたしは24歳だというので、20代で死んだ人々のあたりを目次で拾うと、カタカナ名前がただ一人載っていた。ジェームス・ディーンである。それも、24歳没との
ことである。ああ、私と同年でしたか、では私ももうすぐでしょうか、とけらけら笑いながら言う。この屈託のなさは天使のそれであろうかと森之宮は思った。

 とたんに、この明るさはまるで天使のようだと思ったのではないでしょうか、私の名前はアンジェですから、そもそもアンジェがアンジェ(天使)のように語るのは当然なのです、私はアンジェです、と言う。自分と自分以外の区別、森之宮とアンジェ自身の区別があいまいなように感じられる。目がくるくる動く。アンジェの印象が小動物、そう、リスか何かに似ているような気がしてきた。

 3時を過ぎた。
「明日、土曜日ですが、城塞とサキソフォンで有名なD**市に行こうと思うのですが、ご一緒していただけますか」だいぶ酔いも手伝って、今晩2つ目になる『清水の舞台』的問いかけをした。

 こたえはつれなかった。乗馬の練習があるから行けません、そう言うと下を向いてくすくすと笑った。あしたとあさっては週末ですからホテルの仕事はお休みです、(毎日がお休みでもいいのですが)D**市はこじんまりしたきれいな町ですから、きっとよい印象を受けるでしょう(5分で終わります)、お一人で訪ねることをお勧めします(たいていは団体です)、郊外にはいくつかの小さな城がありますので、(見たってつまらないのですが)そちらも観光には適しています、(商業化されていますが)という時のアンジェの口調はまるでガイドブックを棒読みするような英語で、かっこ内に訳出した部分はなぜか低音のフランス語で解説のように語った。両方英語、あるいはフランス語なら意図も理解できるのだが、建前を英語、本音と思われる部分をフランス語でしゃべる意味が森之宮にはピンと来ない。

 しかしそのピントが合わないもやもやをただす間もなくアンジェが両手で森之宮の両腕をとらえると、もう一度、生きている人の目を見せて下さい、と言った。森の宮の返事を待たずに再び、アンジェの高い鼻と森之宮の低い鼻が触れる。思いがけないほど長い舌が出て来ると、続いてルージュの引かれていない唇が森之宮の唇をとらえた。

 思わず目を閉じてしまった。ふふふ、というのが聞こえる。アンジェが笑いかけているに違いない。黒い瞳を見せなさい。

 再び目を開けると、今度はアンジェが腰をかがめて目を閉じている。自然に腕を回して唇を重ねる。隙を作ってもらった格好だ。ところが森之宮はうかつにも再び目を閉じてしまった。アンジェの、獲物から目をそらすなんて狩人としては失格、と言うことばにあわてて目を開いたときには、獲物は腕の中から抜け出す動きをしていた。それすら止められない。

 オールヴワール(さよなら)、と言いながら天使が去っていくのを地上の少年は力なく見送った。かちゃり、と気を使いながらドアを閉める音がした。
着替える気にもならずにベッドに座ると、森之宮は黄色い表紙の仏和中辞典を開いた。
「Je suis en chaleur.」は、『私は発情している』という意味だった。

 眠れそうにない気がした。

(*)小林秀雄「中原中也の思い出」


第10回

うとうとしながら深い眠りにつくことなく土曜日の朝を迎えることになった。昨夜の目まぐるしい天候変化は悪いほうへ落ち着いており、7時にセットした目覚ましが鳴った時には外は霧雨だった。

 ブッフェ(バイキング)タイプの朝食を済ませ、呼んでもらったタクシーに8時には乗ったのだが、駅に着いたときに財布を忘れたことに気がついて再びホテルに戻り、今度はゆっくりと昨晩アンジェと歩いた城塞を散策しながら下って行った。今度も例の石は他の石と区別がつかない。しかしあえて蹴飛ばすこともしなかった。

 電車に乗ってしまえば30分程度でD**市に着く。途中で雨は止んだが、それでも見上げると今にも降ってきそうでかなり寒い。すでに時計は11時である。アンジェの独り言部分から想像していた通り城塞と教会とサクソフォーンしかない街を歩いて、小麦粉と蜂蜜で作られている「クック・ド・D**」というクッキーを見つけた。まともにかじりつくと歯が折れるのではないかというほどとんでもなく固く、甘みの少ないお菓子だった。持って歩いても絶対壊れないから大丈夫ですと、無造作にリュックに詰め込もうとしている森之宮の手元を見ながら店のおばさんが声をかけてきた。

 相変わらず、いつ雨が、いや、雪が降ってきてもおかしくない空である。予定していたV**城はあきらめて、Me**川のクルージングに乗ることにした。1時間ほどだという。この川はN**市内も流れていて、D**市は上流側になる。途中でベルギー国王がロッククライミング中に滑落して亡くなったということで有名ななんとか岩のそばを通る。フランス語(正確にはワロン語)とオランダ語(これも正確にはフラマン語)でガイドがしゃべるのだが、ひどく訛りのある発音で森之宮は聞き取るのに苦労した。

 思いのほか時間がかかり、戻り始めた時はすでに2時を過ぎていた。いつの間にか西のほうから青空がのぞいてきた。雲が切れると金色の光が差し込む。どうしてヨーロッパの空は高いのだろうと森之宮は思った。

 それなら予定通り行こうということでタクシーで15分くらいのところにあるV**城に向かうことにした。まずは降り立った門のそばでディズニーアニメにでも出てきそうな可愛らしい姿をカメラに収めてから、ちょうど観光バスで乗り付けていたアメリカ人の団体のあとをついて城内に向かった。

 大人一枚、というと、若い受付の男が即座に20フランです、と日本語で答えてくる。後ろにいたスウェーデン人の夫婦をやり過ごしてから、「どうして日本人だとわかりましたか」と聞くと、日本人の英語をしゃべるからだと言う。そんなもんだろうかと思いながらさして広くもない場内を見て回る。と、銅板を加工してレリーフにした骸骨像が遠くから目についた。近づいてみると、その像と並べて王女様と思しき着飾った女性の生身の姿を写したレリーフがある。輪郭は同じである。

 メメント・モリ(死を思え)だな、とすぐにわかったが、よりによってここは食堂の隣のくつろぎのためと思われる部屋である。こんなところに置くものかなあと思いながら南東に開けた窓の外を見ると、谷を挟んだ向かい側に比較にならないほど大きくて立派な城が見えた。帰りがけに、受付でさっきは日本語で問いかけてきた男にこちらも日本語で聞いてみると、プライベートレジデンスで今も人が住んでいて、当然ながら一般の観光客には公開されていないとのことだった。麓には集落が見える。あの城の使用人の住まいのようにも思える。

 外に出ると、はるか地平線の上30度くらいのところに太陽があった。あと2時間は陽がある計算だ。城までは片道30分と踏んだので、意を決して訪問することにした。西半分の空はきれいに晴れ渡っていて、日差しはむしろ暖かいほどだ。風もないので着ていたコートを脱いでリュックにしばりつけた。

 途中の村の家々の煙突からはうっすらと煙がたなびいている。どの家も裏庭に薪が積んであるのが見える。まだ現役で煮炊き用に木材が使われているのだ。4時に近い。母親たちはいまごろから夕食の準備を始めているのに違いない。

 予想通り、30分ほど林と畑の境に刻まれている農道を歩き、峠のような高まりに着くとちょうど5叉路になっていて、粗末な十字架とキリスト像が道しるべ代わりに大きな木の下に安置されている。5つの道の1本だけが余計な角度に付いていて、もちろんそれが城への道である。ほんの五百メートルほど先に立派な門と門番所が見える。

 周りは一面の牧草地である。今はきれいに刈られて黒々としたいかにも肥えた台地がひろがっていて、プリンターで打ったように点々と青い苗が植わっている。うねった大地だ。日本の農村を支配する『水平』とは全く違う。どちらも改変された自然なのだが、ただでさえ高い空とうまく調和してゆったりとした景色を形造っている。

 風が止み、落ち葉が道に積もる音さえ聞こえそうなくらいの静寂が満ちている。森之宮の靴音が少し湿った空気の中をゆっくりと伝わっていく。地面と林に吸い取られるせいか、反響音はほとんど聞こえない。

 立派な鉄の門があり、向って右に小さな門番小屋があり、若い門番がいた。

 いぶかしげに森之宮の顔を覗き込んでくる。2メートル近い大男だが頬骨のあたり一面に茶色いそばかすが散らかっている。色白で気の弱そうな坊やだ。「この城には白昼から幽霊が出ると聞いて訪ねてきました」森之宮はさすがに英語は通じないと踏んでフランス語で語りかけた。

 明らかに何かを知っていて、しかもそれを恐れているのがありありとわかる顔になった。俄然面白くなった。かすれた声で、それがどうしたのか、幽霊がいては不都合か、という答えが返ってきた。断然ノリノリだ。

「幽霊はベルギー人ではないそうですね」
とカマをかけてみる。よく知っているではないか、そうだ、お前のような東洋人の姿をしている、やや口がこわばって母音の発音がくぐもっている。思いっきり口を横に開いて森之宮が追いかけた。
「見たことはないでしょう」
 白かった顔がさっきからどんどん青く変色してきたのだが、いよいよその青さを増して来たように思える。若い門番はこっくりとうなずいた。

「私が幽霊です(Je suis le fantome)」
と言った途端、顔色同様、目まで白くなってその場に倒れてしまったので、こりゃやり過ぎだと思いながら門番小屋の中にあった電話の受話器を取った。すぐに大声が聞こえてきた。何を言っているのか一瞬森之宮にはわからなかったので、
「門番が倒れている」
と告げた。

 門の向こうに更に200メートル行ったあたりが玄関のような作りで、その手前、100メートルくらいのところが突然開いて3つほど黒いものがすごい勢いで飛び出してきた。カール・ルイスより早いのではないかなどと思う間もなく森之宮の目には肩から下げられたマシンガンが衣装よりも黒く光って見えた。

 3人が扇形に展開して腰をかがめ、マシンガンを構えて森之宮を狙う。無言である。突然膀胱が締めあげられるほどの恐怖を感じた。何もいわれないうちから両手をゆっくりあげた。MITに留学しているときに強盗に出会った松下先輩のアドバイスを思い出した。そうだ、こういうときは相手の目を見てはいけないんだった、ちょっと上を見つつ、しかし相手の挙動は眼の隅にちゃんと留めておく、これが極意だ。

 ふと気がついて後ろを向いた。万一撃たれても、日本の解剖医はきっと優秀だからどの方向から撃たれたかは判別してくれるだろう、そうすれば卑怯にも背後から撃ったことがわかってしまうから、この連中は撃たないのではないか、これは後ろを向いていた方がいいかもしれないと思ったからだ。完全に論理が破綻しているのだが、このとき森之宮は全く気がついていない。

 黒い連中に背を向けると、彼らも安心したのだろう、気を失っている若い門衛のほほをたたいたりして正気に戻そうとしていた。ジャン、ジャン、と呼びかけていたので、この若い男はきっとジャンという名前なのだろう。しかしまだ森之宮には一言もかけてこない。後ろに目はないが、3人のうち少なくとも一人はほんの数メートルの至近距離からマシンガンで自分に狙いをつけているに違いない。そう思うとますます膀胱が縮こまってくる。漏れるかもしれない。

 主観的にはものすごく長い時間が過ぎたあと、先ほどの5叉路を左手から一団の騎馬群が現れた。500メートル先からの笑い声が届く。若いジャンはまだ気を失ったまま倒れている。振り向いて、隊長と思しき男が40過ぎくらいで立派なひげを生やしていることに気がつくくらい、森之宮自身も緊張がほどけてきた。

 その騎馬隊のなかにはアンジェが混じっていた。

森之宮にとっても、アンジェにとっても思いがけない邂逅だった。しかしアンジェは森之宮と目を合わせても降りてきてくれない。騎馬のまま、森之宮をそれ以上見ようともしない。どちらかというと硬い表情に変わってしまっっている。全部で6騎のうちで、先頭にいたこの城の令嬢と思しききれいな金髪の娘が馬から降りて兵士たちに騒ぎの顛末をあらかた聞くと、森之宮の方を向き直って、ではお行きなさい、と言った。簡単なものだった。こっくりと首を振った。

 横を通り過ぎる時、「アンジェ」と小声て呼びかけてみた。アンジェはあえて横を向いた。明らかに森之宮であることを認識はしている。ちょっと腹が立った。

 でも、恋しい。
 そうだ、恋しい、恋しいんだ。こんな気持ちになったのは、駒場で過ごした教養時代の同級生、科学雑誌の創刊号を飾った彼女に対して感じて以来のことではないか。はるか昔のような、懐かしい気がしてしまうような感情を、たった昨日の晩に出会った女性に対して持っている自分。そんな、恐怖感は去ったが自分をコントロールできていない状況にイライラしながら、森之宮は来た道をV**城の方へ戻った。

 昼食の代わりにに恐怖と落胆を味わったので、さすがにN**駅に着いた時には空腹を感じた。しかしファーストフードは敬遠して、その代りホテルまでのタクシー代は節約して、町の中心街からやや外れたところにあるステーキハウスに向かった。ゲントでの国際会議のときにN**市ならこの店、と教えてもらったうちの一軒である。目の前で焼いてくれるシステムなので一人で食べるには都合がいい。味は紹介どおり上等だった。値段もホテルのレストランの半額以下、ワインもほぼ半額で妥当な味の一本を提供してもらえた。しかしジビエ(野生動物の肉)はまだ出していなかったので、これだけは持ち越しになった。

 酔いざまし腹ごなしを兼ねて20分ほどゆっくりと城塞を登ってホテルに戻ると、森之宮はすぐにアンジェの姿を探した。週末は休みだとは聞いたような気がしたが、格好悪いこと甚だしいと思いつつ、何度も部屋とレストランを往復してしまった。

 しかしそんな努力も報われず結局アンジェに会うことはできなかった。D**市の郊外の城での出来事も考え合わせれば、これっきりでもしかたないのかなあ、と思った。

                               (続く)


人気blogランキング投票よろしく 今日はどのへん?。


© Rakuten Group, Inc.