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朝吹龍一朗の目・眼・芽

ばっちっこ

ばっちっこ その1
                        朝吹龍一朗

 ませたガキだったのよね。

 身長だけは160センチもあるが、しょせん小学校6年生だった夏、友人の父が館山に持つ別荘へ出かけた。塾など行かないけれど、二人とも学年で1番2番の成績だった。新宿には高層ビルが建ち始めていた。小学校の窓から少しずつ高くなっていく京王プラザホテルが見えた。クレーンが自分で登っていくのを目の当たりにして仰天したころだ。

 内房線の鈍行を降り、駅から歩いて5分もかからないが海辺からも50メートルと離れていない、しかし海水浴場の騒々しさからは隔離されているという絶好の場所にあるその別荘に向かう。名目上は友人の父親が経営する会社の保養施設ということになっているこの家でこれから1週間、思う存分夏を満喫するつもりだった。

 まずは近くの雑貨屋で今晩の花火を仕入れる。打ち上げ花火と爆竹を大量に買うのが秘訣だ。ついでに木綿糸を買う。ここで店のおじさんが不思議な顔をするのが、まるで去年と同じだ。もっとも去年は友人の家族、親戚も一緒で、俺はただ一人の他人だったが。
 帰りがけに買ったサンドイッチと牛乳を大急ぎでお腹に流し込むと、早速倉庫からゴムボートを引っぱり出す。沖の遊泳ゾーン限界を示すブイのあたりを目指してこぎ出すと、真っ青な空には白い雲、東京湾の出口であることをちょっとだけ恥ずかしいと思っているやや薄めの青をした海が待っていた。風はほとんどなく、内海のように波も静かだった。

 オレンジ色のブイが近づいてくる。岸に近づく流れがあるのだろうか、15分近くかかったような気がする。ブイのそばには子供の目にも化粧の濃い二人連れが見えた。二人で一つのタイヤ浮き輪につかまってのんびりとしていたらしい。

 俺たちは別にそんなおばちゃんたちのことなんかはなから眼中にない。伊豆の温泉地にあったゴルフ場で自分の打った球が白いOB杭2本を結んだ架空の線より外に出ているかどうかで一喜一憂したのと同じように、遊泳限界を示すオレンジのブイを結ぶラインの外に出ようと思って苦戦していた。

 何気なくオールのしぶきがかかった。らしい。
「なによ」
 とげのあるような、甘ったるいような声がした。ずっとあとで知った酒の味がこれに相当すると、今なら言えるが、その時はただびっくりして思わずにやにやしてしまった。

「やーねー、ませたガキだこと」金色に長い髪を染めた女が言った。
「あたしらに気があるんでしょ」髪は染めていないが左頬に大きなほくろがある女が続けた。

 俺と友人は一瞬で理解した。完全に誤解されている、が、そのままこの場を進行させると何が起こるのがに興味があった。何しろ6年生になってすぐの時から、新宿西口にあった3本立ての洋画を見に通っていた二人だ。あの切符売りのねーちゃん、明らかに未成年の俺たちの足元を見て必ず大人料金を取った。学生証を出せとは言わなかったし、言われても区立小学生にはそんなものないからどうしようもないし、あったところで18歳にはなっていないのだから話にならないのだが。ポルノ映画には子供料金もなかったし。

「どこの店よ」
 友人が塩辛い声を出した。俺たちはすでに15分もボート漕ぎをして来たのだ。声がしわがれるのも仕方ないことだ。

「あーら、店だってさ、この子」金色髪のほうが言うと、ほくろのほうが、
「歌舞伎町よ、知らないでしょうけど」と笑った。あざけりと子供扱いの見下しを
あからさまにした言い方だった。

「近いな、今度行くよ」俺が笑うと、二人そろって「なによお、どこに住んでんのよ」
と言った。
「新宿だよ、すぐ近く。歌舞伎町なら歩いて5分だ」
「5分は大げさだな、20分はかかるぞ」真面目さが売りの友人には5分の意味がわからなかったようだが、それを指摘しようとしたとき、ちょうど雲が太陽を遮って水面が陰った。と同時にすぐ近くで23匹の魚が跳ねた。俺はまじめな声で言った。
「サメがいる証拠だぜ」
「きゃあ、どうしようどうしよ」
「ほら、そこ」友人が調子を合せる。
「じたばたすると溺れてると思って食いついてくるから、あわてないでボートに
乗れよ」
 俺はほくろ、友人は金髪をボートに引き上げた。本来は3人乗りくらいの大きさだからこれは相当に無理だった。何しろ二人は意外なほど肉付きがよく、ただしちゃんと
引っ込むところは引っ込んでいて、出っ張っているあたりは上も下も覆っている布が邪魔なくらいにはちきれている。布は、今でいうプッチ柄で、金髪は青と白、ほくろはオレンジと白、模様の入り方はそっくりだから、たぶん二人で一緒に選んだのだろうと思った。

 そんな二人のために喫水が上がって、横波を受けるたびに海水が入ってくるようになった。4人が船内に座ったままではオールを扱うのはとても無理で、仕方ないので女二人には船底に横になってもらうことにした。俺は船尾に座って足を広げてオールをあやつる。ほくろの女がその両足の間から顔だけあげて俺を見ている。かき終ってオールが離水し、次に水面をキャッチするために前かがみになる俺の前には大きな胸の谷間がいやでも目に入る。見上げる女の目は心なしか潤んでいるようだ。俺の体に生じた若干の変化を女は目ざとく見つけると、小さな声で「おませ」と言った。

 女たちはパラソルも借りていた。時代を感じさせる古い籐製のピクニックバスケットには梅干し入りのおにぎりや卵焼きやタコ型に切った赤いウインナソーセージや鳥の空揚げやキュウリやトマトやその当時珍しかったグレープフルーツやらがぎっしり詰め込まれていた。

 そのパラソルの作る日陰で、お決まりの砂城作りだの砂かぶり埋め込みみたいな「親交を深める」遊びをしたのだが、俺も友人も大人の「女」をこんなに間近に見たことはなかったので、たとえば砂に女を埋める時には当たり前だが砂をかけることになる。胸のあたりにかけるそのあまりにもおずおずとした手つきに、ほくろの女は「あんたたち、本当はいくつなのよ」と聞いてきた。友人と俺は事前の口裏合わせもなく、二人とも「浪人中」と答えた。それが自然に聞こえたらしく、それ以来俺たちは18歳または19歳ということになった。

 横でわれわれのナイーブなしぐさを眺めていた金髪の女の方がつと立ちあがって、紙コップに入った生ビールを4つ買って来ると「おごりね、ホステスにおごってもらえるなんてこれっきりだと思いなさい」と言った。

「あんたたち、でも浪人中だったらこんなところで遊んでていいの?」ほくろの女が俺にたずねた。答えたのは友人の方で、
「二人で静かなところで集中して勉強するわけですよ」と言うと、
「うそばっかし、こんなして遊んでる」と金髪の女がからんできた。
「今日が初日でね、今晩から1週間、みっちり勉強ですよ」俺の言葉にほくろの女は感心したように、
「ふうん、頑張るんだねえ、それで志望校はどこら辺?」と言った。俺たちは少し困った。まだ、小学生だ。

「ま、こっちは東大、おれはどっかの医学部。おれんちは医者だから。そいつはおやじが官僚だから一応縛りはないもんな」友人がしばらく考えた末に言った。女二人は黙ってここまで聞き終えると、声をそろえて
「ぷろみっしんぐとうだい」と言った。
「期待がかかってるんだね、お二人さん。二人とも長男かな」金髪が言った。
 大学受験の勉強を始めてからやっとプロミッシングがPromisingで、前途有望などと言う意味であることがわかったのだが、このときはかろうじてそんな感じの言葉なんだろうと見当をつけるのが精いっぱいだった。間違っても東大志望、プロミッシング東大生がそんなベーシックな英単語の意味を聞いてはいけない。

 しかし俺たちは二人とも次男だった。友人は男、女、女と来て4人目の次男、俺のほうは「蔵が立つ」と呼ばれる、男3人兄弟の真ん中だった。

「なーんだ、あんたばっちっこかい、あたしとおなじじゃないの」ほくろが言うと、金髪の方が、
「彼はあたしだからね、きょうこ(響子という漢字であることはあとでわかった) ちゃんはそっちの彼でしょ」と言って友人の右手を自分の左手に絡ませてビールを飲んだ。きょうこと呼ばれたほくろの女は、俺には仕方なくと見えるしぐさで、同じように俺の右手にビールの紙コップを持たせ、自分は左手にコップを持って俺の右腕に絡ませると、二人で同時にビールをあおった。ぬるくなったビールが食道を駆け下りて胃の中に突入していった。
「しょうがない、今日はどこへ泊ってるの?」ばっちっこのほくろが言った。
「彼の別荘」
「すごいね、別荘なんて。それで、何時なら抜け出せる?」
「10時、かな」
「わかった、この辺にいるよ、いい?」
「うん」

                          ばっちっこ  続く



ばっちっこ:一番下の子供のこと。多分、末っ子、末子(ばっし)から来たと
      思われます。北関東から東北にかけての方言。



ばっちっこ  その2

 しょうがない、はひどいじゃないかと思いつつ、でも今晩ほくろの響子と俺との間に起きることが3本立てのポルノ映画館で演じられているのと同じような光景であり、たぶん爆発しそうな俺を安全に軟着陸……ちょうどソ連とアメリカが熾烈な宇宙開発競争を繰り広げていたころで、月面に初めて立つのはロシア人かアメリカ人かで俺たちはつまらない賭けをしていたものだ。その当時のキーワードが『軟着陸』だった……させてくれるのではないかという期待の方が、ちょっとした屈辱感を上回ったのは言うまでもない。

 コンビニなんて無い頃だったから、夕食は友人の母親の手配で館山市の料亭が毎晩準備することになっていて、初日のその日も何ら問題なく箱膳が届いた。昼間ビールを飲んでいたのでさすがに冷たい麦茶と料亭から送られてきた魔法瓶に入った熱いお茶を飲んで、ふと外を見ればまだ西の空には陽が残っている。凪で蒸し暑いが、クーラーなぞない時代だ。手持ち無沙汰の二人は本来この晩遊ぶはずだったロケット花火を取り出し、爆竹を1本ずつにばらすと、木綿糸を30センチくらいに切って並べた。ばらばらになった爆竹を2つか3つ、ロケット花火の本体に木綿糸でくくりつけ、導火線もより合わせて多弾頭ミサイルを作るのだ。このとき本体の導火線のどの辺りに爆竹の導火線を結ぶかで弾頭が分裂する高さやタイミングをずらすことができる。去年の夏、いろいろな組み合わせを確かめてあるので、今回はそのバリエーションを思い出しながら30本くらい作ったところでNHKの大河ドラマが始まった。「天と地と」だった。

「わかってると思うけど、ちょっと外出するから」
 友人が悪びれずに言った。
「いいよ、いいけど、カギ、二つあったよね」
 俺よりまだ5センチくらい背の大きい友人と視線を合わせることなく言い交わした。
「4つあるから。そんなに要らないけど」
 そう言い残すと、懐中電灯を片手に友人は出て行った。

 花火用に二人とも持って来ていたのは、懐中電灯だけではない。ろうそくとマッチも1週間分相当を確保してある。俺は余った爆竹とマッチとろうそくを半ズボンのポケットに入れて10時きっかりに別荘を出た。

 監視塔から左手つまり東京湾の外側に50メートルほど歩いたあたりに貸しボート屋がある。響子らしい人影が見えた。歩みが速くなるのが自覚できるので、ことさらゆっくりと近づいて行く。音を立てないように気をつけているのだが、ゴム草履がしゃらしゃらと砂を噛み、ぺたんぺたんと足の裏をたたく。海に向って涼しい風が吹いていて、ヨットパーカーの風防が耳元にまとわりつく。響子まであと5メートル。ズボンが窮屈になってくる。映画の場面を思い出す。

 遠雷が聞こえる。沖合いは殆ど真っ暗なのだが、さっきから雲が紫色に光っていたのがその証拠らしい。東京では街明かりで見ることのできないイルミネーションだ。立ち止まって考えた。手を伸ばせば肩に触れそうな所にいて、もう俺の存在に気づいているに違いないこの女、響子でなかったら俺は痴漢扱いになる。それは、まずいよな。人間ならまだいいけど、人魚だったり、いや、人魚ならまだ、まだいい。たとえばセイレーンだったりしたらそのまま海に引きずり込まれて一巻の終わり、とか。

 すっとズボンがゆるくなったのが自分で可笑しくなる。一つため息をついてから、咳払いをした。

 振り向いたのは響子だった。左にほくろがある。ああよかった。
 堤防の上にぽつぽつとある街燈が逆光になるので響子から俺の顔はしかと見えないはずなのだが、俺の顔に浮かんだ安堵の表情を見透かしたように響子が言った。
「遅かったじゃないの。もうビール飲んじゃったわよ」

 闇に目が慣れてくると、10メートル間隔くらいで砂浜に白っぽくて細長い塊が波打ち際から陸に向ってお行儀よく並んでいるのが見えてきた。しかもたいていは2つだ。なるほど、そういうことか。再びズボンがきつくなっては来たのだが、こんなところで『オトナになる』のも興ざめだと思った。

「きょうこ、だよね」
「そういえばあんたの名前、まだだったね。あたしらがいっつも相手にしてるのはどうせアメちゃんで名前聞いたってわかんないし、わかったってわかんないしね、おぼえらんないし、また来てくれないし。でもあんたは日本人だから、やっぱり名前で呼びたいな。え、と、日本人、だよね」
「同級生には大陸の人や半島の人がいるけど、俺自身はたぶん、日本人だと思う」
「そうだよね、お父さん、官僚だって、お友達が言ってたもんね」
「信じた?」
「オトナをだますもんじゃないのよ」
「大体ほんとだよ」
「大体って、じゃあ、どこが嘘なの」
「大体、嘘、ね」
「もうまったく! わかった、で、あんたの名前。それだけでいいからほんとのこと、教えてよ」
「高松伸彦」
「のぶくん、信じていいのね?」
「相棒は恒久」
「つねちゃん」
「お互いそうは呼びあわないけど」
「なんて呼ぶの?」
「ダーリン、ハニー」
「うっそー」
「うそだよ」
「もう、からかわないでよ、どっちが歳上かわかんなくなっちゃう」

 左のほくろを見なければ、けっこう美人だ。オレンジ色を主体とした柄物のTシャツがぴっちりしすぎていて、胸のしかるべきところにしかるべき山が二つ盛り上がり、その頂点に三角点と思しきしるしがはっきり見える。要するにブラジャーはしていないわけだ。たぶん、俺のてのひらにはおさまらないくらい大きいと思われる。でも下半身はふんわりとした白いドレープのスカートを身につけている。
 ドレープ? これは、そう、もっと大きくなってから身に付けた語彙だ。このころの俺の言葉でいえば、せいぜい『フランス人形のような、しかし短めのスカート』というところだろうか。その下に見え隠れするふくらはぎが妙に白いのが印象的だ。
 大根足という表現、揶揄は当たらない、いかにもぽっちゃりとした柔らかさを誇示しているように見える。大根なんて、そんな硬いもんじゃない。目を合わせるのを避けているようだが、俺のほうは遠慮がない。すでに化粧は落としていて肌にニキビのようなぽつぽつがあるほかは欠点が見えない顔立ちだ。やや大きめの口はちょっとだけマリリン・モンローを思わせうるように肉感的で、鼻稜はすんなりと高く、やや目じりがつり上がっている。かすかに二重瞼で、まつげは俺のように長い。何しろ俺のまつげは赤ん坊のころ母親がたわむれにマッチ棒を3本乗せても落ちなかったというくらい長くてきれいにカールしているのだが、響子のまつげもそれに劣らないくらい長い。

 それで思い出してポケットからマッチを取り出したついでに爆竹がこぼれた。
「たばこ、くれ」
「のぶくん、でいいよね、ねえ、なに、あんた、煙草も吸うの?」
 さっきから完全に主導権は俺が握っているように思える。響子の声にはトレモロが混ざっている。別に恐れることはない、たかが童貞の12歳だ、響子は知らないけど。

 父親の姿を一生懸命思い出しながら、差し出された『いこい』を左の唇にくわえて火をつけてもらうのを待つ。米軍由来とすぐにわかるジッポを左手で覆いながら響子が差し出す。右手で素早く火を盗むと、俺は爆竹を海に向って放り投げた。


                           ばっちっこ  続く


ばっちっこ  その3

 空中で乾いた音を立てた爆竹がいくつかの女の悲鳴と男の低くくぐもった怒声の前奏曲になってしまった。

 響子の細い腕には大きめの時計がはまっている。明らかに男ものだ。腕ごと乱暴に引き寄せて見てみると、すでに10時を回っていた。10時。ということは子供の遊びが終わった時分ということだ。響子からジッポを受け取ってくるくるひっくり返して見ていると、俺の左側にいたカップルが身を起し、一人が近づいてきた。男だ、言うまでもないが。

 響子の体に左手を回していた俺はその男のパンチをよけ損ねた。左目の下あたりにクリーンヒットしたのでディズニーの漫画通り、星が回った。体も一回転して貸しボート屋のガラクタの中に突っ込む格好になった。
「野郎、ハジキの代わりに爆竹っちゃあ上等じゃねえか、お返しはどうだった、目ん中で爆竹が鳴ってやしめえか」
 そう言いながら男は右手を振っている。俺の顔の骨も殴っているはずだから相当痛かったはずだ、俺も痛かったが、いや、今でも痛い最中だが。

 バタ足ボードや小さめの浮き輪が盗難防止のためにロープでつながれている。その中にいるので相手も俺も足場が悪い。男が接近してこないのを見ながら俺はゆっくりと立ち上がった。喧嘩は度胸七分に腕三分という。男の右こぶしが傷んでいるのではないかと夢想した時点で俺は精神的なゆとりを取り戻していた。背中の後ろにはあと2、3列分の大浮き輪とゴムボートが繋がれている。ここをうまく抜ければ堤防の登り口まではほんの20メートルもない。来る途中に交番があったことくらい覚えている。

 男は足元に散乱している浮板や浮き輪を気にして間合いを詰めてこない。俺の方から一歩踏み出した。相手の背骨が揺れるのが見える。うまい、これで先(せん)を取った。
「まだ星が回ってる」
「そうだろう、謝れ」
「謝るのはそっちだろうが」
 俺はわざとくぐもった声を出す。それに気を許した相手が寄ってくる。

 左のポケットに手を入れる。導火線の向きをそろえる。4本あった。右手に握ったままだったジッポを開け、火をつける。男を見据えたままその火に導火線をかざす。
 いち、に。
 放り投げても男は動かない。動けなかったのかもしれない。男の頭の周辺で4つ音がした後、俺は測ったとおりの道を走って逃げた。背中でごおお、ともううぇええ、ともつかない叫び声がするが、後を追う足音は聞こえないみたいだ。堤防の上まで駆け上ってからやっと振り向くと、男の頭が火に包まれていた。

 わけわかんない。何が起きたのかわからないまま逃亡体制に戻ろうとすると、響子がいつの間にか隣に立っていた。
「逃げよ、あいつ、ポマードに火がついちゃったみたい」
 響子が言ったとたんに男が海へ向かって走りだし、そのまま頭から飛び込んだ。どうやら俺の投げた爆竹の火が男の髪の毛に燃え移ったらしい。

「自首しよう」
「ばかねえ、ぷろみっしんぐ東大はそんなことで前科つける必要ないの。なんかあったらあたしが行くから大丈夫。先に殴ったのはあっちなんだから、のぶくんはあたしを守ろうとしたんだからいいの。さっさといらっしゃい、あたしの泊ってるホテルにかくまってあげるから」

 ホテルというからてっきりオークラやニューオータニを思い浮かべた俺は相当ボケだった。ホテル西風というその宿は、民宿に毛が1本だけ生えたようなもので、まだ10時過ぎだというのに砂だらけの玄関には誰もいなかった。履いてきたサンダルをはたいて砂を落とし、そのまま響子たちの部屋に向かう。板張りの廊下がところどころできしむたびに燃えている男の顔がちらつく。見たわけではないのに、その表情が俺を力いっぱい呪っているようにも思える。

 部屋の入り口はドアではなくて引き戸だった。カギはかかるようだがかかってはおらず、響子が何のためらいもなくガラガラと開けると、電気は消えたままで人の気配はなかった。どうやら恒久たちはまだ外でデートのようだ。

 響子は俺の顔を改めて覗き込んで、
「うん、あんまり腫れてないけど、ちょっと冷やそうか」
 と言いながら、冷蔵庫を開けて氷を取り出し、窓際に掛けてあった手ぬぐいにくるむと俺の左目に当ててくれた。その手を俺の左手がとらえ、そのまま二人はしばらく固まった。次に何をすればいいのか、俺にはさっぱりわからない。

 既に二人分の布団は敷いてある。薄い夏掛けが足許にきちんと揃えられているのが俺にはやけになまめかしく見える。響子は俺の手を振りほどくと言った。
「なに突っ立ってるのよ。いつまでも立ってていいのはあれだけよ、さっさと脱がして頂戴」
「そんな生なこと言っちゃいけない。恥ずかしながら俺は初めてだ」
 どうしてこんなにかすれた声が出るのだろう。何を緊張しているのだろう。小生意気なセリフを吐きながら俺の胸は肋骨を折り破って飛び出しそうなほどがんがんしている。口の中は粘っこいつばが舌に絡みついてきて、まともにしゃべれる気がしない。

「うそでしょ、のぶくん、ほんとに初めてなの?」
 俺は黙ってうなずいた。12歳であることがばれてしまう覚悟をした。
「そうかあ、やっぱりぷろみっしんぐは晩熟(おくて)なんだね、恋もしてる暇を惜しんで勉強してたんだね。そっかあ、あたし、ちょっとだけ安心したよ、あたし、中3の夏にはバージンじゃなかったからね、勉強する代わりに、ね、恋してたっけ、恋のまねごと、してたっけ」

 響子が勝手に過去に浸っている間、俺は立ったままだった。口を開こうにも唾液が膠(にかわ)のようになってしまっていて、君は口から生まれてきたんでしょう、といつも中年の意地悪な女性担任教師に言われている高松君の面目は全くない。どうした、高松。心の中で励ましても、いきり立つのはズボンの中だけだ。

「おビール、飲もうか。それからでもいいよね。弓子が帰ってきても大丈夫だから、あの子は邪魔しないからさ、気にしないで、ね、ビール、飲も」
 キリンの白い絵がところどころ擦り切れているコップを二つ並べ、部屋の隅の冷蔵庫から旭日旗のようなラベルのついたアサヒビールを取り出すと、栓抜きがないのよね、とぶつぶつ言いながらちゃぶ台の足の部分についている金具を上手に使って栓を抜いた。

 冷たい炭酸水を飲んだ感じがする。味がわからない。アルコールというものをよく理解できていない。俺は泡の部分と液体の部分を少しだけ口に含み、やっぱり苦いだけで味がわからないことを確かめた上で、残りを一気に口の中へ放り込んだ。

 炭酸が膠を洗い流してくれる。今までとは違う動悸が胃のあたりから腰と頭に向って伝搬していくのがわかる。左手に握っていたコップを力強く差し出すと、響子が
「はい、おビール」
 と言って注ぎ足してくれた。
「はい、たばこ。いこいしかなくって、安物だけど、お口に合うかしら」
 いくら不良もどきでも小学校6年生ではさすがにタバコは実は吸ったことがない。さっき砂浜では吸いつける前に騒動が起きたので結局煙の洗礼は受けないままだった。
 だからこれが正真正銘の初タバコだ。


                         ばっちっこ その3  続く


ばっちっこ  その4


 父親の吸い方を必死に思い出しながら、真似ごとをしてみせた。
 肺まで吸い込むとむせそうなので、頬を目一杯膨らませて先っぽを燃焼させる。火が灰の下から赤みを増していくのに、向けなくてもいい注意を殊更寄せているせいで寄り目になっているのが自分でもわかる。響子が笑いをこらえているのが寄った眼の先に見える。

 口の中には刻まれたたばこが残る。あまり気持ちのいいものではない。父親が吸っていたのはハイライトだったから吸い口があるのだが、いこいはいわゆる両切りだからまく銜(くわ)えないと巻きが緩んで次々と刻んだ葉がこぼれ、口の中に侵入してくる道理だ。

「のぶくん、たばこ、初めてでしょ、吸い込んだことないでしょ」
 半分くらいまで、それでも、既に燃やしたと思う。
「初めて、じゃないさ」
 辛うじてそれだけ言った。
「お立ちなさいよ、あとはあたしにお任せでいいから」
 響子に促されて次に何が起きるのか全く予想できないまま俺は立ちあがった。膝立ちしたままバミューダパンツのボタンに手をかけてくるのを見下ろしながら、気を紛らわそうと思って胸いっぱいにタバコを吸いこんだ。

 咳を3つした。いわゆる、むせた状態だ。ジッパーを降ろす手を止めて灰皿を取ってくれる。火を消したとたんに手と足の指先からじーんと何かが駆け上ってくる気配がした。秒速20センチくらいでどんどん心臓に近づく。頭に近づく。響子の肩に両手をついて片足ずつ上げながらズボンを脱がせてもらっている間についにわけのわからないものの第一波が頭に到達した。くらくらした。よろけた。

 響子が素早く立ち上がって支えてくれなかったら、そのままどったんと倒れていただろう。タバコは、強烈な麻薬だ。絶対中毒になるし、恒久のお兄さんが大学受験のころしきりにタバコ1本単語10、タバコを1本吸うとせっかく覚えた英単語を10個も忘れてしまう、と言って弊害と止めにくさを自嘲していたのを思い出す。

 ついでにたった2杯しか飲んでいないビールの酔いまで襲ってきた。抱きとめてくれた響子の身長が150センチくらいだということが初めてわかった。両手に余るほどの胸の出っ張りがちょうど俺の胸骨の下あたりに押し付けられている。バミューダは右だけ足首に引っかかったままだ。立っていられない。俺は響子の上に倒れこむ形になった。目を閉じて布団の上に、いや、布団の上にいる響子の上に、いやいや、布団の上にいる響子の持っている見事な二つのクッションの上に、俺はゆっくりと倒れていった。

 目をつぶったまま、口の中に残ったたばこの葉の切れ端を舌で掻き出して唇の端まで持っては来たものの、畳の上に吐き飛ばす訳にも行かず、掌に舌の先から移した後、あまり糊の効いていないシーツの裏側にこすりつけた。いい加減目を開けると、響子の額がちょうど俺の口の位置だった。切れ長の目が無意識にか大きく見開かれていて、これから起きることを響子だけは理解しているようだった。

「両切りだから、葉っぱが残っ、ちゃうのよねそれを、うまく口の、中に残らない、ようにべろで、たばこの方に戻せる、ように訓練すると、ゼツギも上達するん、だけどね」

 胸をつぶされたままとぎれとぎれに息継ぎをしながら響子が言った。フランス人形が身につけているような白いドレープのスカートの間からはっきりわかる二本の足間に俺自身が割って入っている。新宿西口のポルノ洋画館で毎週見ている外人がはいているような縞のトランクスとのコントラストがきっと絵になるに違いないと思った。今回の旅行のために母親が伊勢丹の下着売り場でとびきり高いやつを購ってきたものだ。

 俺はゼツギが『舌技』の意味であることに気づくのに10年かかった。響子も、その後付き合った女たちも誰もそんなボキャブラリーを表だって使わなかったからだ。俺がこのいささか下卑た語彙を知ったのは大学でポルノ小説を堂々と読み始めてのことだ。

 窮屈なので腕立て伏せの要領で少し体を浮かせ、左に体を大きくひねって浮かせた右手で下半身で唯一居心地の悪い部分をまっすぐに直した。そのまま姿勢を元の通り響子の体の上に密着すると、直した部分がぴったり響子の両足の付け根に当たる塩梅になった。響子にもはっきりそれが感じられたようで、眉間に3本の縦皺が寄った。

 目を閉じると頭の中がぐるぐる回る。のぶくん、だいじょうぶうう。誰かが頬をさすりながら何か言っている。ニコチンとアルコールのダブルパンチを浴びて小学校6年生がいよいよ沈没する気配だ。そう思った途端、俺の意識は俺の支配を脱し、あらぬ彼方に飛んで行った。


 ゆるゆると意識が戻ってくる。行燈型の丸い蛍光灯にくっついている豆電球の明かりだけがついている。窓際に障子が閉められていて、畳を二畳縦につないだくらいの広さしかない広縁のような場所だけ、明かりがついている。障子紙はところどころ破れ目があって、にじんだスポットライトにように何もない畳の上を空しく照らしている。

「砂が入っちゃってさあ、もうあたしのほうはハマグリそのものよ。こすれるし、でかいし」
 響子ではない声が聞こえる。
「官僚くんは沈没してるの?」
 答えはなんだかぼそぼそしていて聞き取れない。しばらくその音量で女二人の会話が続く。理性は、そんなものがもともとあったらの話だが、まだ戻る気配はない。頭ががんがんする。英語の単語どころか、日本語すら忘れているのではないか。論理的な頭の働きは一向に戻らないのでもしかするとしゃべれないのではないかと不安に襲われる。

「あんたたちでしょう、火事騒ぎを仕出かしたの。舎弟みたいなのが必死に探してたわよ。あれはやくざもんらしくって、たぶん警察沙汰にはならないんじゃないかな」
「そう踏んだからさっさと連れ戻ったのよ。だけど童貞クンなんだって」
「そりゃうちとこも一緒よ、だから砂もろとも侵入だったわけでさ、ご本尊も
結構痛かったんじゃないかと思うんだけど。あとできれいにしてあげたら口の中までじゃりじゃりになったし」
「こっちはたばこに当たっちゃったみたいでね、もうばったんきゅうでさ、わが軍は無傷。なあんちゃって、でもこの感じだとそのうち妙な時間に起きるんじゃないかな」
「でも今晩中はここに置いてあげないと危ないかもね。ところでどんなふうだった?」
「なにが?」
「あれよ。つねちゃんは、のぶひこのはとてつもなく立派、って言ってたけど」
「見てみれば」
「用もないのに? 一応響子ちゃんのでしょ、あのバナナは」
「別にいいの。でも素直でやさしい子よね」
「目が覚めたら二輪車してあげようか」

 まだ二人の会話はぼそぼそと続きそうだったが、俺はようやく手足の自由を確認して、手を下半身に伸ばした。ボートネックのTシャツも縞のトランクスも身につけていないのを確認し、丁寧に掛けられていた夏掛け布団を音のしないように跳ね上げると、畳に足を下ろさずに、つまり音を立てずに障子を開けた。そしてそのまま『二輪車』に乗せてもらうことにした。


ばっちっこ  その5
                              朝吹龍一朗

 翌朝、館山漁港に沿海漁業の小舟が戻ってくる時刻、5時少し前、に、ホテル西風を出た。既にかなり明るい上、意外なほど人通りが多い。みな市場のほうに歩いて行くらしいのだが、間の悪いことに恒久の別荘の方向とは逆で、もろに顔をさらすことになった。よそ者だから尚更目立つ。すがすがしい天気の中をほんの5分(あとから時計を見ると本当に近かった)歩いただけなのにじっとりと汗をかいてしまった。
 引き戸の鍵を開けてそっと閉めると恒久が起きてきた。俺の無事な顔を見て、あとは何も言わずに廊下を戻って行く。一番奥の部屋だけ、当時は珍しかったクーラーがついているのだが、俺たちはそこで12時過ぎまで眠った。

 紅梅飯店という中華料理屋からチャーハンとギョーザを取って、二人でもそもそと朝飯兼昼飯を食べた。歩いて5分もかからないくらいなのだが、さすがに俺は外に出る気がしなかったためだ。こんな田舎にしてはしっかりした味で、俺たちの地元にある山珍居という有名な台湾料理屋といい勝負だった。いまなら『隠れた名店』とでも銘打ってテレビのグルメ番組に出たりインターネットで囃されたりするのだろうが、その当時はどちらかというとうらぶれた感じの外見で、地元の漁師御用達一本槍という店だった。

 キリンの大瓶を二人で一本空けるともうやることがない。響子たちは昼前の電車で帰った筈で、今晩から店に出るのだと言っていたから、今頃訪ねてもいい思いはできっこない。平凡パンチを買ってくる勇気もないし、買ってきたところでその使い方は二人ともまだ知らなかった。

 お膳を片づけて食器だけ玄関の外に出し、雲が少なくとも頭上には一つもないことを確認し、でもそれなりの気温で海に行けばそれなりに面白そうだと思いながら戻ってきて、石でできた流しでコップに水を汲んだ。

 ゴキブリ、それも新宿で見るようなやわなやつではなく、クワガタムシのつのが取れたくらいの、堂々とした、ぴかぴか光る背中の、5センチくらいはありそうなやつがいた。残念ながらゴキブリが苦手な俺がううう、と唸っていると恒久が立ち上がって寄ってきた。と思うと右手の掌にひょいと囲い込んで、そばにあったコカコーラの空き瓶の中に落とし込んだ。器用に左手でふたをすると、ゆうべの仕出し弁当についていたサランラップをゴミ入れから取り出してさっさと封をした。瓶の底では巨大な黒い塊がしきりに飛び跳ねている。
「俺らみたいだね」
 と恒久が言った。言い方に暗さは残っていなかったので、俺は軽く
「ごめんな」
 と言った。

 それを潮に、恒久は麦わら帽子をかぶって出掛けて行った。
「偵察偵察」
 とおどけてはいたが、ゴム草履ではなく、逃走用にちゃんとその頃の中学生に流行していたバッシュー(バスケットシューズ)を履いていた。

 南側に開け放った硝子戸の外には軒(のき)に向って朝顔の蔓が這いのぼっていて、今朝はきれいに咲いていたであろういくつかはすっかりしぼんでしまっている。内側にすぼまったように閉じている形が、ゆうべの響子の体の一部を思い出させ、だれも見ていないにもかかわらず俺は一人で顔を火照らせた。

 することもなく、いや、何かをする気にならず、ぼんやりしていると2時を過ぎたころ恒久が戻ってきた。昨日一日だけでしっかり日焼けしているから青ざめた表情は読み取れないが、目がつり上がって口角が横に延びているので緊張しているかこわいものを見たかのどちらかであることは間違いない。やがて、
「まだうろちょろしてる」
 という報告を聞くまでもなく、うかつに外を歩かない方がいいことはわかった。

 であれば、恒久には申し訳ないが必要な物の買い出しだけはやってもらうしかない。その代り家の掃除や洗い物を俺がすればいいのだ。そして外に出られない暇つぶしは、雨でも降った時のためにと持ってきた本を読めばいい。俺が持って来ていたのは、おやじの本箱から適当に見繕ってきた文庫本、水滸伝全9巻その他だった。
「お前、古いな」
 と恒久からは力いっぱい馬鹿にされたが、そういう恒久が取りだしたのはサガンの『ブラームスはお好き』だった。
「なるほど、年上趣味か」
 俺がからかうと黙って下を向いてしまった。既に恒久も一度読んでいるはずだ。その本は彼の兄の蔵書から見つけたもので、俺が最初に読ませてもらったものだからだ。
「照れることもないだろ、夕べの記憶は俺も一緒だし。ちょっと危ないのがあったけど」
「俺の方はハマグリだった。塩じゃなくて砂を吹いた。男も初めての時は血が出るのかと思うくらい痛かったし、だいぶ細かい傷がついた」
「出すもんは出したのか」
「出た。出したというより、出た。ノブはどうした?」
「似たようなもん。なんだかわかんないうちに終わった。また勉強しないとだめだと思ったからちゃんと住所も店も聞いておいた」
「俺も。聞いたら成子坂下だった」
「近いよな、今度行く中学のそばじゃないか」
「そう、三平ストアの裏だって。毎日自転車だな」
「毎日、かよ」
「そうか、勉強も少しは、な。本も読みたいし、またプラネタリウムも行きたいしな」
 俺たちは月に一度、第4日曜日に渋谷の東急文化会館の8階にあるプラネタリウムの早朝教室に通っていた。来週の日曜日がその日だ。そういえば、アポロはどうなっただろう。

 ふと思い出してテレビをつけると、なんだか大騒ぎである。
 西山千さんの同時通訳の音声が入っている。アームストロング船長の声に西山さんの細い枯れた声がかぶる。相当興奮しているのがわかる。
「One small step for a man, one giant leap for mankind.」
 西山さんは、
「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」
 とは訳さなかったように覚えている。
 俺たちは既に恒久の下のお姉さんのところに来るイギリス人の先生から英語の手ほどきを受けているので、One small step for a man までは聞こえたが、そのあとの leap がウィープに聞こえて、何をweep、泣いているのだろうと思ったのと、man と mankindの意味の違いがわからなかった。ただ、西山さんの同時通訳で月面は粉状だとか、これから降りる、だとかに続いて、さっきの名セリフが出てきたので、leapが跳躍のことだとやっとわかった。ハミルトンのSF小説に、1000万光速で宇宙を駆け巡る戦争ものがあるのだが、そのあまりの嘘っぽさに、そう書くならせめてワープとか、leapとか書いてほしいなあ、と感じたことが思い出される。

「おい、着陸だってよ、俺たちの、できちゃってたりして」
 恒久が俺の顔を丸い眼で見つめながら言った。真剣に考えているようにも見えた。
「だってさ、月のものだろ、丸い卵子だろ、あの着陸船だろ、それが着陸しちゃったんだぜ」
 それと俺たちの『初体験』と、何の関係があるのかね。とは言わなかった。唐突に、来週のプラネタリウムのネタはこれで決まりだなと思った。


注『ブラームスはお好き』のアウトライン:
  39歳の独身女性ポールが主人公。同じ独身の中年男性ロジェ、若くて心のやさしい25歳の青年シモンとのあいだで揺れる女心が描かれる。


ばっちっこ  その6

 その晩偵察に出た恒久は、今度はにこにこと帰ってきた。やつらはすべて姿を消したようである。知らん顔して交番のおまわりさんに聞くと、『罰あたり連中は皆帰った』とのこと。
「俺たちの方がよっぽど罰あたりなんだけどさ、おまわりさんはどう見ても地の人で、いわゆる正義派さ。館山は子供のころから毎年夏になると来てるけど、警察が頼もしく見えたのは初めてだな」

 まだ12歳なのに『子供の頃は』もなかろうにと思ったが、俺も恒久もすでにゆうべから主観的には正真正銘の『大人』の仲間入りをした気分でいるので、まあ、許そう。俺たちはしかしながらそれから5日間、到底大人とは思えない遊びをしながら小学生最後の夏を過ごした。たとえば、前の日に捕まえてコーラ瓶に幽閉しておいたゴキブリについて言えば、こいつには帰る前の日の晩まで俺たちの食事のお相伴をさせた。なに、食べ残しを瓶に放り込んだだけだが。そして帰る日の早朝、砂浜に瓶ごと持ち出され、3本の爆竹とともに文字通り木っ端微塵に消し飛んで一生を終えた。

 その朝は残った爆竹の処分を兼ねて、砂浜に最期の姿をさらしているさまざまな『もの』の残念(文字通り、残った『念』という意味で俺たちは使っていた)の成仏を願って爆破する行(ぎょう)に励んだ。

 たとえばキューピー人形。片腕がもげ、右足は後ろと前が逆になっていて、背中には大きくばってんがついている。顔は砂だらけだ。こんなのを見つけると、恒久と俺は腕のついていた跡の穴に爆竹を仕掛けて、南無阿弥陀仏と唱えながら点火する。人形は大きく跳ね上がって首と手足が離れ、胴体には亀裂ができる。砂浜に落下した残骸は丁寧に拾い集めて、かかとで掘ったくぼみに安置し上から砂をかぶせる。今度は南無妙法蓮華経。

 たとえば戦艦大和。差し渡し30センチもある立派なプラモデルで、駆動用の
マブチモーターと単三電池が入っているが、塩をかぶったせいかスイッチを入れても反応しない。イカれてしまっている。砲塔を外してできた穴に3本ずつ爆竹を埋め込み、爆竹束をばらすときに出てきた導火線を結びつけると点火から爆発までの時間を稼げる。こうしておいて膝まで浸かる深さのところで火をつけ手を離す。どうしたはずみか、死んでいたはずの動力……モーター……が復活し、勢いよく波を切って進みだす。
 5秒後、潮騒に負けないくらいの大音響とともに1メートルくらい船体が飛び上がり、甲板部分と胴体部分に大きく分離した戦艦大和は、実戦もかくやと思われる姿で波間に没する。
「この爆竹、中国製なんだよな。大和を沈めたのはアメ公だったけどな」
 恒久はどういうわけか昔からアメリカ嫌いで、この後起こる70年安保では実際にデモに参加したりしている。俺は
「次に大和を作る時には、中国が撃沈するかもよ」
と答えた。

 昼過ぎの電車で新宿に戻って恒久と別れると、母親がぽつんとひとり家に残っていた。弟が帰りを待っていたのだが、待ちきれずに『緑陰子ども会』に出かけたという。
「伸彦さんも行きますか。まだ間に合うと思うけど」
 母親は息子に対しても敬語を使う。俺の返事はこうだ。
「今更子どももないもんだ。俺は行かない。スイカ食いたい」
「はいはい、伸彦さんはパパさんに似ていちげんこじだからね。スイカ、ちゃんと冷やしてありますよ」
『いちげんこじ』が一言居士であることにこのときは気が付いていない。むしろ、3兄弟の中で俺だけが背も高く、その上ハッキリ言って鼻が高くて二重まぶたでいわゆるハンサムボーイで、5つ離れた兄とも二つ下の弟とも、そして母親とも似ていないことをちょっぴり気にしていただけに、いちげんこじの『こじ』の部分が耳に響いた。そうか、俺はやっぱり孤児だったんだ、やさしい母親に拾ってもらったに違いない。
 父親は5時に役所が終わって6時には戻ってくるのだが、銭湯に行かない日はそのままビールを1本飲んだかと思うと真っ赤な顔をしてお茶漬けを掻きこんですぐに寝てしまう。銭湯に行っても、俺たちの体を思いっきりごしごし削る……本人は優しく洗っているつもりらしいが……と、やはり戻ってきて目刺かアジの干物を肴にビールを1本、それに母親が漬ける白菜かナスをおかずにゆっくりと御飯を食べ、そのまま腕枕で寝てしまう。しばらくしていびきが聞こえてくるころ、夕食を終わった俺たちはちゃぶ台の上を片づけ、それぞれの勉強に取りかかるという寸法だ。

 父親は3人の息子に一切分けへだてはなかったが、一番勉強せず、しかし成績の良かった俺に対しては、自分の成績と引き比べて、時々おずおずと誉めてくれるのが異例といれば言えないことはなかった。

 スイカを食べてぐずぐずしていると、父親と前後して弟も兄も帰ってきた。兄は予備校の夏期講習である。新宿高校2年だが、普段の授業は新宿御苑で受けている(要するにさぼっているのだ)と豪語するだけのことはあって成績は散々で、駿台予備校の模擬試験では東京の国立大学はどこも難しいという判定だった。仕方ないので母親が新しくできた京王デパートの地下食品売り場でアルバイトをして夏期講習から駿台に通うことになったのだ。このまま9月からはお茶の水で高校生向けの受験対策授業を受けることになっている。

 俺も入れて家族5人でちゃぶ台を囲むのは1週間ぶりだから、結構会話は弾む。館山で遊んでいた中身も、肝心の一夜の出来事を除いて面白おかしく身振り手振りで語る。特にゴキブリの最期や、戦艦大和沈没シーンでは、母親は目を顰(ひそ)めたが、男ども4人はしゃべっている俺も含めて笑い転げた。

 翌朝は、今度はラジオ体操だ。もう俺は大人だから本来は子供の体力増強のためのこんな行事に参加する必要はないのだが、弟のために大人の付き添いとして出てもいいかと思いなおして近くの公園に出かけた。

 恒久も来ていて、二人とも既に大人なのにこんな行事に出なければならない身の不運を嘆きあったのだが、終わって児童会のおじさんからハンコをもらって解散する時、なんだか言いたいことがあるようなので俺は弟を一人で帰らせて恒久の後をついて行った。

 浅田医院というのが恒久の父親が開いているクリニックで、内科も外科も範疇に入っている。町医者で外科もやれるのは住宅街では珍しいが、これは十二社がもともと花街でそれなりに傷を手当する需要があるということでもある。結構物騒な町でもあった。

 その裏手のはす向かいに建築資材置き場があった。置き場であると同時に、廃材や廃棄物の不法投棄場所にもなっていて、夏休み前には大量の注射針が捨ててあったこともある。近所の子供が(もちろん、その当時は俺も恒久も『子供』のカテゴリーだから、このうちに含まれる)建築廃材の合板や発泡スチロールの切れっ端にそれらを山嵐のように刺したものを振り回して遊んでいたところ、恒久の父親が血相を変えて出てきてカンセンショウになるからすぐにやめろ、と怒鳴った。俺は『感染症』という語彙をその時初めて知った。

 その置き場、要は俺たちの隠れた遊び場である。周りに人がいないのを確かめるように恒久がぐるりと見回した。まだ出勤前だ。こんなところに人がいるわけがない。

「あのな、俺、中学受験しろって言われた」
 俺は黙っていた。別にそれはそれ、恒久の進路であって、恒久が自分で決めればいいことだし、早めに打ち明けてくれるのは悪いことではなくむしろうれしいことではあるのだが、これはこれからはうかうかと遊んではいられないよという意思表示でもあるわけで、必ずしも俺にとって朗報であるわけではなかった。


ばっちっこ その7から


                              
                           



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