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朝吹龍一朗の目・眼・芽

朝吹龍一朗の目・眼・芽

ばっちっこ その22から

ばっちっこ その22(上)

「森田さんが、っていっても誰のことかわかんないでしょうけど、『J』のオーナーの一人なんだけど、普段は福岡にいてときどきパツラ、って、ラッパ、ああ、トランペットのことだけど、吹いたりするんだけど、高松くんがボロボロになりながら一階へあがる階段まであとずさってきて、西原のほうも、あの、あんたの相手したひとよ、だいぶ疲れちゃったみたいで、あたしは別にどうってことなくて、こんなの3回目か4回目だから、西原はもうしょっちゅうだしね、でもけっこうくたびれたなあ、こいつなかなかたおれないなあって、あとで言ってたけど、レジも通り過ぎて、レジは階段の前だったかなあ、それで高松くんが階段に一歩後ろ向きに足をかけたくらいの時に森田さんがもういいっしょ、って声かけてくれたの」

新宿2丁目の『押倉』というそば屋で盛りを2枚食べ、途中から地下街を抜けて西口に出ると、何とはなしに『成績落ちるが丘(聖蹟桜ヶ丘)』に引っ越して今は学年で1番とか2番とかを取っているという噂の、元同級生で俺に厚かましくも付け文をしてきた榊原恵美子を思い出した。この話を聞いて他の女子の同級生は、きっとそんな田舎の中学はレベルが低いに違いない、高松くんが行ったらきっと超超超超いちばんに違いない、だとかテストの問題が簡単だから差がつかないからやっぱり高松君でもただの一番にしかなれないだとかひとしきりざわついたものだった。聖蹟桜ヶ丘だから京王線である。切符売り場の表示には『下北沢』とあるので安心してコインを入れた。すぐ気がついたが、俺の投げやりな気分はそのまま改札口を通ることを選択させ、明大前で井の頭線に乗り換えるルートを選ぶことになった。

そんなせいでアパートに着いたのは2時をすっかり回っていたのだが、モモヨはまだ酔いが抜けていない調子で、ドアを大きく開け放ち、俺を迎え入れるといきなりしゃべり始めた。

「でね、おお、こりゃなんか芸が出るかなって、あたし、期待しちゃったわけ。だ、け、ど、森田さんまじめでさ、ひょうきんな声すら出さないのよね、あの人、右目がめっかちなんだけど、だから黒い眼帯してるんだけど、それ、外してさ、きょうは、このくらいで、また、気がすまなければまた、別の機会にしてはいかがでしょうか、って。まだ30まえよ、けっこういい度胸でさ、それ聞いて西原ったら、疲れたって、ひとことでね。階段に倒れそうになってる高松くんを押しのけて、そう、ぶんなぐらないで、ね、でもって階段上がって帰っちゃったの。そしたら森田さんがあんたに向かって、お前さんも出ていけって、そりゃもうやさしいいい、声でね、覚えてないだろうなあ」

思い出した。森田という男は、たしかに猫をあやすような声で、出ていけ、と言いながら、俺に殴りかかったのだった。右の、本人はストレートを放ったつもりらしいのだが、ぐるうんとゆっくり回ってくるフックのような振りの拳を、俺は難なく左腕でガードした。森田氏は、ここまで来てまだ立っとっとな、さすが一晩6回だな。と比較的明瞭な日本語でつぶやいた後、中国語とも朝鮮語ともつかない奇妙な言語でわめきたてながら俺とモモヨを交互に指差し、厨房に隠れるように引っこんでいたウェイターに向かって同じような意味不明な命令を下した。森田氏と同じか、もう少し若いくらいのそのウェイターが氷と濡れタオルを持って飛ぶように出てきたところで俺の記憶は再び途切れている。

「結局森田さんが介抱してくれようとしたんだけど、あんたは振り切って逃げてっちゃったってわけ。あたしと森田さんとでもう一度飲み直しよね、そうなっちゃ。今朝まで、ずっと。ね、プロミッシング東大だってこととか、さ、15歳だってこともばらしちゃったし、でもそれにしてもクレオパトラだとかシーザーの次はアントニウスだとか、西原もよく知ってるよねっていう話にもなった。高松くんは知ってるよね、だって受験生だもんね。あたしが知ってるのは、そりゃ高校で習ったからね、なんちゃって本当は森田さんやよしたけさんや、なんだよしたけさんも知らないのか。『J』からだと遠いけど新宿2丁目の新宿通りを渡った北のほうにあるジャズクラブののマスターよ。みんなしてかわいがってくれるわけ。ああら、高松くんがあたしのことかわいがってくれるのとはちょっとちがうけどねえ」

相当に怪我をしているに違いない知り合いを前に、これだけぺらぺらとしゃべり続けるのは尋常ではない。いわゆる躁状態だと思った。あるいは、思い出した、響子がシャブがどうしたこうしたと言っていた。シャブ。麻薬、か。

                      ばっちっこ  続く


ばっちっこ その22(下)

でも大体の登場人物はわかった。モモヨのヒモか亭主か知らないが、ともかく俺の恋敵は西原。『J』で決定的な借りを作ってしまったのが森田。そしてどうやら響子の言うとおり、モモヨがやっているらしい麻薬が彼らを天井から操る糸。俺の見立てだ。

モモヨのしゃべりはずっと続いた。躁状態とは、こんなに長く続くものだと初めて知った。俺はにこにこしながら聞いていた。近くの小学校から夕焼け小焼けの放送が流れて来た。5時だ。モモヨは3時間、独演会を続けたことになる。その間、ビールどころか水やお茶一杯飲まずにである。それだけ集中して一人芝居を演じていたにもかかわらず、帰宅を促すメロディに一瞬耳を取られた俺の表情をとらえて、
「あらあら、プロミッシング東大さん、退屈させちゃったかな、あたしごときの話じゃ、底が浅かったかな。あんたが欲しいのはあたしのなんだっけ、そう、音なの、顔なの、身体なの、だったね、やっぱしね、若いもんね、からだ、だったのかなあ」
モモヨがネグリジェの一番上のボタンを外しにかかったので、俺はすぐに答えた。
「ま、今日はこれにてしつれいつかまつる」
「つかまりに行くの? だめよ、西原、今度は本気で来るわよ、夕べはあんたが酔ってたから、手加減したって言ってたもん。ぜったいあんた負けるからね、だから」
「だから失礼つかまつるって。今日のところはこれで引き揚げるよ」
俺はモモヨの言葉を初めて遮った。モモヨは息を詰めて聴いている。
「どこへ、引き揚げるの」
ふと頭に浮かんだことを言った。
「ちょっと、ね、警察へでもいってこようかな、と」
「ケーサツ!?」
「知り合い、多いし。学校の近く、だしね」
言葉を選びながら言うと、とんがった口調でモモヨがつっかかってきた。
「のぶひこさまには珍しくぼそぼそ発言ね」
「そりゃ、ね、夕べはけっこう授業料、払ったし、今日は今日で、モモヨのラリパッパにつきあったし。嫌じゃないけど」
「ケーサツにつかまりに行くのね、じゃあ止めない。あたしのことはばらしていいけど、西原はやめといたほうがいいわよ、どうせ、つかまんないから」
「だろうね、もともとその気はないから。俺、その西原って人とけっこう仲良くやれるような気もするし」
「ありえない。西原はあたしを取られたことで怒り狂ってる。普段だったら素人筋のあんたになんか殺されても手は出さないのに。夕べは本当に狂ってるみたいだった。絶対だめだからね」
「なんだ、俺が死んだら困るのか」
ほんの1秒にも満たない沈黙があった。
「あの、ね、ああ、そう、そうなのよね、悪かったわ、あたし、あんたのこと、のぶひこさまだっけね、のぶひこさま、あんたのこと、もし、かしたら、すき、かも」
ここは引く手だ。ネグリジェの二つ目のボタンを外し、そのまましなだれかかろうとするモモヨに触れることなく俺は立ち上がって座布団を裏返し、かるく、じゃ、またな、とつぶやいただけで靴をはいた。モモヨは追ってこなかった。表情は、見損ねた。泣いてはいなかったと思う。

その足で新宿警察署へ寄った。警察剣道場ではなく、医務官の留さんのもとを訪ねた。少し離れた武道場からは元気のいい掛け声が聞こえてくるが、留さんの居室には枯葉の匂いがした。

留さんは在席だった。一緒にその枯葉のもとを確かめるような足取りで、ほこりが東京に降る初雪のように薄く広く積もった薬棚を、散歩するように案内してもらった。覚せい剤の標本みたいなものがずらりと並んでいる。緑の瓶ならヒロポン、茶色い瓶にはたいてい純度の高い薬。常習者の部屋には必ず注射器がある。ガラスの上であぶって溶かしてから注射器に取り、左腕の静脈に打つと回りが早い。などなど、留さん御大の講釈を聞くとはなしに聞いていた。モモヨの部屋にあったのは、錠剤のヒロポンだということがわかった。久しぶりに勉強した気分になった。そう、そろそろ高校受験の準備も本格化してきていた。

                      ばっちっこ  続く


ばっちっこ その23(上)

11月末の駿台模試では20番に下がってしまった。1番からだから相当低下した気分だが、点数自身はほとんど横ばいで、ほかの連中が追いついて来ただけだと楽観していた。予備校が用意してくれた小学生じゃない奨学生として四谷の校舎での授業は、月火木金とまじめに受け続けた。復習や予習もそちらに合わせたので、代わりに中学の授業が睡眠時間に回されることになった。

響子のアパートとモモヨのところには週に2日ずつ均等に通った。駿台の授業が終わり、どちらかの家に着けばすでに8時だ。それから12時までが俺たちの蜜月だった。合計すると俺にとっては二日ずつの女、残りの三日の受験勉強という釣り合いだ。そのころのモモヨとのキスは、例えてみれば中国や伊万里の磁器のような味がした。響子は楽茶碗のような味だ。そして受験用に最後の仕上げに選んだ英数国理社5教科の『最高水準問題集』は、意外なことに一問解くたび、この頃王貞治や宝田明がテレビの宣伝に出ていたリポビタンDのような味がした。栄養ドリンクといえば、モモヨは、平然と抱かれ平然と寝入ったのだが、対照的に響子は、邪魔だったら来ないでいいのよ、お勉強の邪魔にだけはなりたくないから、と言いつつ、結局一晩に3度は必ずねだったので、新宿御苑のアパートに行くときは、近くの薬局で必ず2本仕入れて行った。二本目は翌朝の分だ、念のため。

12月に入ると、モモヨの部屋の合鍵を渡された。
「西原から。しばらく休戦、だってさ」
「俺が高校受験だってばらしたのか」
「まさか。そんなこと言ったって信用しないわ。ただ、進学のための勉強、とだけは言ったの」
「それで?」
「それならしばらくはあたしを自由にしていいよってこと。あんた殴りあってる間に西原に何かしゃべったの? あの人、あんたのこと、あの日も、あれからも、怒り狂ってはいたけど、今にも取ってぎたぎたにしたいみたいではあったけど、なぜか、けっこう、買ってるみたい」
「やくざもんに買われてもしょうがない。うれしくない」
「あらそうかしら、森田さんもあんたのこと、気に入ってたみたいよ」
「助けてくれた人か」
「そう。コメディアンになるんですって。30になるまでには決心するって言ってた」
「なるほど、いつかどこかで借りを返さなくちゃいけないかもな」
「森田さんとまったく関係なく、あんたが偉くなることね、借りは。それが、返したことになるって、森田さんが言ってた」
「そんなこと言われたくないね。借りを作ったのが一生の不覚かもしれないし」
そう言いながら西原氏がくれたという鍵を眺めていた。指で回すところにマジックインキで『桃代』と書いてあるのが読める。しかつめらしい、しかし端正な字で、とてもやくざ者の手とは思えない筆跡だ。これが西原氏の本性かもしれないと思った。同時に、そうだ、モモヨは桃代なんだと気がついた。
「桃代」
「なに?」
「いや、呼んだだけ」
ここで、やあねえ、とか、なによ、とか、桃代から話の接ぎ穂が来ると思ったのだが、桃代は珍しく顔を真っ赤にして俺に背を向けると部屋の隅の姫鏡台に向かった。化粧するともなく座ったままうつむいている。俺は、モモヨが桃代であることに満足し、もう一度桃代、と呼びかけてから襲いかかった。鏡の下に相変わらず緑色の薬瓶が鎮座しているのが目に入った。ヒロポンの瓶には日本語で「除倦覚醒剤」とあり、英語で左下から右上へPhiloponとイタリックで印刷されている。いかにもギリシャ語だ。Philoはフィロソフィーのフィロだろうから、何かを愛する薬なのだろうと見当をつけた。なあに、俺が桃代を愛するのにこんなクスリの助けは要らない。が、目にしただけでPhiloすなわち愛の力は存分に発揮されたようだ。この日は黙って2度のバトルを交わし、桃代を組み敷いたまま、俺はゆっくりと眠りについた。


                      ばっちっこ  続く


ばっちっこ その23(下)


そのまま目が覚めたら元旦だった、というわけではないが、1972年の暮れは瞬く間に過ぎて行った。師走の言葉通り、デキの悪い我が同級生を何とか高校に押し込むため、教諭たちは時間割を変更して午前なり午後なりに授業を固め、連続した空き時間を私立高校めぐりに費やしていた。午前の授業が終わるとき、午後の授業が始まるとき、必ず教諭たちは俺に言った、お前のことだけは埒外だからな、と。もちろん、俺は言い返した。
「先生(せんせーい、と、二つ目の『せ』にアクセントを置き、わざと間延びして発音した)にはご迷惑(これも、ごめーいわく、と、『め』にアクセントをつけて発音する)はお掛けしませんから。どうそどうそ、ドゥユアベスト」

今から思えばそんなやりとりさえ一種の息抜きだったのだが、桃代と響子(と、勉強机)を相手にしている間に年の瀬を迎えた。帰って来ることを誰も期待していない父親は想定通り帰って来ず、母親と3兄弟は黙って白黒テレビで紅白歌合戦を見ていた。珍しく父親以外の家族4人がそろった、団らんめいた大みそかだった。テレビには茶色くなったレースが飾られている。ボタンを押してしばらくすると、大きめの蚊が耳元を飛んでいるようなぶううんという音とともにゆっくりと画面が明るくなっていく。
四隅が丸く縁取りされていた。ブラウン管だって一種の真空管だから応力集中を避けるためにそのような設計になっているなんて、今だからわかること。当時はなんとやぼったいデザインかと思っていた。だからしばらくしてソニーから角型のブラウン管(と言わずにトリニトロン管と自称していたような気がする)が出て来た時には正直賞賛した。

桃代の部屋の20インチのカラーテレビと心の中で比べていた。最初見たとき、大きくて四角いブラウン管にちょっとびっくりしたのを思い出すともなく心に浮かんできた。響子のところは16インチのカラーだった。オリンピックの時に買い替えたとのことでまだけっこう新しかったが、我が家と同じで少し日焼けしたレースがカーテンのようにきれいに掛けられていて、スイッチを入れながらレースを左右に開け、一目で手作りとわかる留金に引っ掛けるのがいつもの手順だった。

父親は、高松雲は、ゆく年くる年の時間になっても、もちろん、姿を見せなかった。
 
明けて迎えたのは、雑煮のない、当然お節料理もない正月だった。どこかへ行くあてもないので、近所の熊野神社とちょっと離れた明治神宮へ初詣に行った。こういうのを『はしご』というのだと兄から聞いた。宴席で一次会がはねた後、二次会三次会と続けて行くことが原義のようだが、俺たちのように神社を次々とめぐるのも同じ事だろうという見立てだった。このときの俺にはその語感が新鮮だった。

2日3日はおとなしくしていた。炬燵しかない暖房を囲んで、普通の家ならミカンでも置いてあるであろう卓の上にはなぜか塩豆と小粒のチョコレートが山盛りになっていた。年末に響子の店から袋ごと持ち出したのだが、かぼそい家族の絆を辛うじて繋ぎ止めるのに少しは役立ったようだ。

1月4日、炬燵で白い飯に梅干しと沢庵だけという朝食を掻き込んでいると、成城学園中学で学業でなくドラムに励んでいる岡田邦彦が遊びに来た。凧揚げをするから来いという。そういう両手は手ぶらである。どこで揚げるのだろうといぶかしがりながらあとをついていくと、十二社(じゅうにそう)の高台で唯一の高層建築、辺りを見下ろす小西六アパートの屋上に連れて行かれた。日本史の教科書に出てきそうな井上馨というお転婆な女生徒が待っていた。もう一人、色白でかわいらしい顔をしていて、めったにしゃべらないけれど下唇が厚くどことなく好色な感じのする園田晴子がいた。
花の中三、男2人、女2人で新春凧揚げ大会だ。

ひとしきり馬鹿話と凧と、どっちが上がったかわからない時間を過ごしたあと、初めて気がついたように岡田が言った。
「あれ、お前、あした、受験じゃねーの?」
「そうだけど」
「いいのかよ、俺らとつるんで遊んでて。勉強しないで」
「今更間に合わないじゃん。リラックスさせてくれてると思えばいいだろ」
「じゃあ、あ、リラックスさせてあげる」
園田晴子がこの日初めて口を開いた。
「1階の部屋が共用になっててね、今月はうちが当番だから鍵もあるの。ミカンとかおせんべとか、ああ、お酒とかも、あるからそっち行こうか」
井上馨が示し合わせたようなフォローをする。行くところまで行くのだろうと一人で合点した。狭い家だが暮れはそれでも大掃除の真似事をするために29日以来桃代とも響子ともご無沙汰だったので、井上が馨でなく準之助なら金解禁なのにと、ある意味で期待してしまう部分があったことを隠さないでおこう。『準之助』では男名前なのだが。



                        ばっちっこ  続く


ばっちっこ その24(上)

共用室では期待通りのことが行われた。仕組んだのは園田晴子のようだった。リラックスしてね、と震える声で呟きながら俺のベルトにかけて来た手をピシリと叩いて、炬燵の上に座らせた。その方が視点が高くなるし、何よりも座ったままですべてが見通せる。

スカートをたくしあげ、さっきはき替えたばかりということが分かる白い無地の布切れを引き下ろす時、そろえた足で顎を強打した。晴子はびっくりして上半身を起こしたが、隣で声を殺しながら粛々とするべきことを進めている馨と岡田を見て、次に俺の落ち着いた表情を見て、ゆっくりと、腹筋をするような動作で元の姿勢に戻った。

そもそもなぜ俺とする気になったのか、聞いてみてもよくわからない。あとを引く痛みに耐えながらめそめそしている晴子から切れ切れに聞き取れたのは、単に俺のことが好きだという抽象的な告白と、漠然とした俺への期待感だけだった。炬燵に足を入れながら、晴子の手入れされていない下半身に舌を這わせていたとき、『しょんべんくさい』というポルノ小説によく出てくる表現を実感したのが、俺にとっての一つの収穫と言えばいえないことはなかった。そのまま帰宅してひと寝入りすると、翌日は入学試験だった。

学芸大学附属高校は世田谷のけっこう不便なところにある。渋谷から鈍い銀色のボディに濁った赤で線が入ったバスで20分ほどで着く。定員は400人とさして狭き門ではないのだが、3つある付属中学から相当数取るので、純然たる外部からは毎年50人前後しか入学を許されない。そこへ2500人が殺到する。すなわち50倍の確率である。受験シーズンが始まってすぐの1月4日であることもあり、いわゆる腕試しとして東京中から有象無象が集まるわけだ。俺の中学からも7人がトライした。見込みのありそうなやつに声をかけたせいもある。教員たちは中学始まって以来の受験数に狂喜したが、終わってみれば1次試験に通ったのは俺だけだった。6日の発表を見に行く朝、まだ松の内なのに大変ね、と言って母親が送り出してくれた。腕試しなんだから落胆しないでまっすぐ帰ってらっしゃい、と、まるで期待していない口調だったが、パートを休んで家で待っていてくれた。

筆記の2次試験の前に身体検査がある。250人くらいが来ていたので、1割が1次試験を通ったことになる。逆からみればまだ5倍残っている勘定だ。翌日が筆記で、これは成人の日だった。当時は今と違って1月15日に固定だったが、この日持たせてくれた弁当には20センチくらいあるエビのフライが2匹、アルマイトの通称ドカ弁に鎮座していた。多分母親は昼食抜きにしたのだろう。

発表は27日で、土曜日だったことを覚えている。それまでの間は、学校に行ってももっぱら睡眠に徹していたので気がつかなかったが、あとで聞くとクラスメートたちはみな俺を気遣ってピリピリしていたそうだ。 

桃代も実は気にしてくれていたようで、
「あんた、勉強もしないであたしとこんなことしてていいの? いつまでしてていいの?」
と聞かれた。珍しくヒロポンから醒めているようだった。そんなたわ言は聞こえないふりをして、給与明細か地方税の徴収通知票みたいなスリットをわざと落とした。1月7日に遊びで受けて来た駿台の公開模擬テストの結果だった。このときは本当にまぐれで、学芸大学付属の発表を見に行った帰りに新宿の紀伊国屋で立ち読みをした問題集でたまたまめくったページにあった問題によく似た解き方の問題が数学で1問、理科では習ったばかりの火山岩の覚え方、『硫安源と貸せハンコ』がそっくりそのまま使える問題が出たこともあり、再び一番に返り咲いていた。
「すっごーい、あんた、高松くん、のぶひこさま、勉強してんだ」
「してないさ、俺、桃代とドッキングしてるほうがいい」
まだ十分摩擦係数が下がっていない場所へ無理やり入っていくと、痛そうな、不快そうな顔はほんのしばらくで、すぐに目をつぶって万年床の薄い布団のヘリを握りしめる。

結果は、予期せぬ合格だった。なんだか一生の運の半分くらいを使い果たした気がしたが、まだ本命の国立の男子校が残っていた。

こちらは学芸大学付属の発表がある前、1月22日が受験票提出日で、生徒会の副会長をしてくれた山田と一緒に中学を抜け出して渋谷から井の頭線で2つ目の駅まで出かけて行った。山田にとってはこちらが本命だ。中学受験ではねられたので、リターンマッチなのだと本人は言っていた。9時過ぎには着いてしまったのだが、それでもそこそこの行列である。あくびをしながら前庭にある池の氷に反射する光が冬の太陽とは思えないくらい元気な輝きを撒き散らしているのを見ていると、俺の前に並んでいた山田が先に行けという。何も考えずにそのまま進むと、俺の受け取った受験番号は44番だった。
なるほど。山田はすなおにごめんといった。

                        ばっちっこ  続く

ばっちっこ その25(上)
本命の国立男子校は2月5日に一次試験があり、続いて12日に発表、15日は身体検査を兼ねた面接だった。ちなみにこの日は東京じゅうの私立高校の一斉試験日なので、重なるなという配慮があったのだろう。さらに、3月9日の都立高校入試の日が合格者集合日だった。入学してあとで聞けば、やっぱり公立高校の邪魔をしないようにという配慮だそうだ。

祝合格という書留に入った10万円が届いているのを母親から手渡された。一瞬、休戦は解けたのだろうかと勘違いした。。裏返して差出人を見ると、期待したというより恐れていた西原からではなく、意外にも森田からだった。桃代が本当のことを言っているとすれば、西原には進学と告げてあり、森田には何か言ったのか不明だったのだが、この調子だと高校受験であることはばれているのかもしれないと思った。

ところで、都立高校の授業料は8百円だったが、国立は少し高くて9百円だった。むろん月額ある、念のため。母親は共学の学芸大学付属と駒場にある男子校の2枚の受験票を持ってうろうろした。授業料は笑って許してくれたがどっちも行けと真顔で言う。
親孝行したと思った。
共学に興味も惹かれたが、桃代のアパートに近いことから、結局駒場にある男子高を選んだ。

その高校の教頭は見事な禿頭だった。中学もそうだったから、またしても、というのが俺の感じだった。担当は数学ではなく生物だったが、この教頭から、ゴールデンウィークが明けた頃呼び止められた。
以前、校則に『制服着用』と書いてあるにも拘らず在校生の誰一人詰襟の類を着ていないどころかGパンにTシャツみたいなカッコウをしているので、あれはいったい何だと聞いたことがある。その時の答えは『制服即ちユニフォームである、その個人がこれだ、と決めた格好をして来ればいい、それが証拠に、校則にはかくかくしかじかを制服とする、とはどこにも書いていない筈だ』と言う。
今度もそんな話かと思ったら、取り敢えず研究室に呼び込まれた。当時も今も、彼らは『教官』と呼ばれ、教諭の『諭す』部分は俺たちのミッションにはアサインされていないからな、そのつもりで付き合え、とうそぶく変人ばかりであり、その居城がそれぞれの研究科(要するに教科のことだ)の持つ『研究室』と称する狭苦しい部屋だった。確かに国立大学の附属だから身分は官僚と同じだそうで、逆に民間人が教『官』を名乗るのは僭越だと言って、その頃テレビで流行っていた航空会社の客室乗務員養成所を舞台としたドラマ(注1)のなかで堀ちえみという女優が日々涙を浮かべて『教官!』と叫ぶのがお気に召さないようだった。

彼の城に入ると、出来すぎの気もしたが誰もいない。勧められた粗末な回転椅子に座るとさっそく教頭が内申書のことだが、と切り出した。君の内申書には『破壊分子』と書かれていた、と言う。どんなやつかと思ったが、ごく常識的な男なのでひとまずは安心しているとのことだった。そういえば、俺の内申書は担任が自分で持って行くと言って、俺には手渡されなかったのを思い出した。山田は持っていて、願書提出日、例の順番を入れ替えた日には自分で提出していたので、さすが鈍感な俺でもどこかおかしいとは気づいていた。教頭は、多分開封されるのが怖かったのだろうと慰めるでもなくごく自然体で俺の人となりを理解したつもりになっていたようだ。

そもそもこの学校にはバリバリの代々木系を自任する教官もいて、生徒のほうには民青すなわち民主『青年』同盟ならぬ、民主幼年同盟なるものがあるそうで、入学式のすぐあとのオリエンテーションでもそんなアジ(注2)があったと思うのだが、俺には一向勧誘は来なかった。



注1:スチュワーデス物語。、1983年10月18日から1984年3月27日までTBS系列で放送された、日本航空の客室乗務員(当時は「スチュワーデス」と呼ばれていた)訓練生を描いたテレビドラマ。(WIKIPEDIAより)あまりに大根役者だったので、朝吹はDVDで初回を見ただけでそのあとは知らない。
注2:アジテーション。「一定の政治目的をもって大衆に対して情緒的に訴えかけ、あおりたて興奮させることによって、大衆の思想と行動を自己の思いどおりの方向へと操作すること(Yahoo百科事典)


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ばっちっこ その25(下)


勧誘など来ないのが当たり前で、のちに共産党の大物に出世した同級生に聞くと、当時の俺にはどう見ても左翼の影はなく、むしろ血の匂いのする正真正銘の『渡世系』の雰囲気を漂わせていたのだと言われた。
なるほどそうだったかも知れない。なにしろ毎晩のように桃代のライブに付き合って用心棒の真似事をしたり、新宿警察から皇宮警察にご栄転になった金沢さんの招きで済寧館(さいねいかん)という皇居脇の道場にも出入りしたりしていた。佐藤さんというおじいさんがいつも稽古をつけてくれるのだが、おそらく70をとっくに越えていると思われるにもかかわらず、十代半ばの俺と20分も立ち会って息が乱れない人だった。余談だが、この人には「大名剣道」という表現を教えてもらった。俺のは雑兵剣道だと言って笑われたのを覚えている。ちょこまかした立ち回りをせず、大名の殿様のように全身全霊を込めた一撃を心得ろ、という趣旨だったと思うが、俺にはとうとう理解できずに終わった。無頼のように見えて、やはり死に対する恐怖は年齢相応にあったことが原因だと思う。それでも高校卒業直前に3段は拝承したので、佐藤先生のご指導にも少しは応えられたのかもしれない。

友人にも、授業の水準にも、教官たちにも、まったく不満はなかった。俺のような、別の意味での落ちこぼれにはもったいないような仲間であり、レッスンであり、教育者たちだった。今、もし時間を遡れるなら、躊躇なくこの時代を選ぶだろう。同級生たちの中には、すぐ後ろに控えていた大学受験の重圧や、男ばかりの汗臭さをネガティブに取り上げる輩もいるだろうが、俺にはその両方とも悩みではなかった。母親の苦労を見ていれば大学なんて行けると思っていなかったし、俺自身の幼稚な女性観を不問とすれば少なくとも女には不自由していなかった。

たとえば学習指導要領をまるでわざとのように無視して進められる授業も面白かったし、実験と称して東大から数学の教授を招いて5年先に導入される予定とかいう新しい科目を手書きのプリントを使って進めてくれるのも面白かった。一生かかって高松の定理を見つけられればすごいことじゃないか、と、数学の教科主任におだてられ、すんでのことでその気になるところだったが、名を残したり、難問を解決したり、ましてや何者かになることが人生の目標であるはずがないと目を覚まして思い留まった。

たとえば白神(しらが)さんの弟が同級生にいた。お兄さんと違ってこっちは完全なブルジョア育ちだった。3年付き合ううちに父親が高名な建築家と知れた。本人もデザイナー、クリエイターとして半端でない才能の持ち主だった。兄上の話をすると、鼻で笑って落ちこぼれと罵った。文系では優秀な順に官僚と法曹、大企業に職を求め、コンプレックスの塊がマスコミに行くのだという。あいつは端(はな)からマスコミだよ、はしぼうだね。そう吐き捨てるように言った。

高校のクラブ活動は一切欠礼し、放課後はもっぱら桃代の押しかけマネジャーか響子の赤坂のクラブのボーイ、もしくは剣道の練習だった。

そう、「練習はしないの?」と桃代に聞いたことがある。いつ行ってもベースはケースに入ったままで、およそ練習している形跡がない。下北沢がいくら盛り場だと言っても、考えてみればこのあたりはそれなりに住宅街であり、こんなところでベースの爆音が響けばさしも温厚な住民でも苦情くらい来るかもしれない。
「あんたばかね、何にも知らないんでしょ、譜面なんて、これっきゃないのよ」というのが桃代の答えだった。取りだされた何枚かの楽譜の中に有名な『クール・ストラッティン』があったが、5分以上の曲なのにたった1枚の五線紙に収まってしまうほどしかオタマジャクシがない。これが原譜で、あとはアドリブで埋めるのだという。
「いうほどジャズに詳しいわけじゃないのね、のぶひこくんはあたしを演奏するのはうまいけど、楽器はやったことないんだったっけね」

このときまるで子供扱いされてしまったのを機に、高校の音楽室にあった、当時の価格で4百万円を超えると教官が自慢していたピアノを放課後思う存分『バイエル』を弾くのに使い始めた。教本は、響子のパトロンの詳細が分かった日に嫉妬の腹いせに犯してしまった大泉弘子を呼び出して持ち出させたものだ。相変わらず聡明で、ぜい肉もなく、同時に胸のふくらみも乏しいまま、160センチにまで伸びた背丈に肩甲骨の下まで届くまっすぐな髪を垂らしていた。もう会ってくれないでしょうからと悟ったような口振りで記念の品物をねだられたので、ちょうど持っていたパーカー45を差し出した。響子が入学祝いに買ってくれたものだが、さしたる思い入れもなく渡してしまった。カートリッジでなくスポイトでインク壺から吸い上げる方式だったので、新宿の紀伊國屋まで一緒に行ってブルーブラックのインクを買って与えた。欧米では正式の書類や署名には必ずこの色を使うのだ、と知ったかぶりをした。
「高松先輩に、これで、サインしてもらいたかった」
ぽつんとそれだけ言うと、新宿駅に向かって小走りに去っていった。それが『婚姻届』であろうことに気付いたのはずいぶん経ってからのことだった。


                       ばっちっこ  続く


ばっちっこ その26(上)
しかし身体のなりと一部の知識だけは大人びていていも本質は16歳のませガキだった俺に、サインして欲しい用紙が婚姻届なのか領収書なのかなぞわかるはずがない。大泉弘子とはずいぶん経ってから思わぬところで再会することになるが、このあとずっと、陳腐な表現でいえば「心の棘」として俺の気分を折に触れて傷つけ続けた。
もらった「赤いバイエル」にはすべての譜面に幼い字で書き込みがあり、すべてのページに赤い花丸がつけてあった。そして、「黄色いバイエル」の最終ページには、
「次はブルクミュラーだと思います。私は12番が辛いですが、いつか23番を夢見ています。高松先輩の、いえ、高松さんの、信彦さんの、8番な気持ちがいつもうれしかったです。信彦さんの16番のしぐさが、私にはとっても18番でした。でも、お会いするたびに見せてくださる6番が、私の1番に響きました。こうして私が使った教科書を受取っていただけるのが、せめてもの13番です。どうか受験勉強だけでなくピアノも練習なさって、いつか私に4番で21番を聞かせていただけることを19番しています」
と緑色のインクで、端正な字で、記してあった。

ちょうど稲刈りの頃にバイエルを卒業して「ブルクミュラーの25の練習曲」という教本に入った。判じ物のような番号に弘子が託したメッセージは他愛のないものだったが、だからこそそんな弘子の放った純朴ともいえる想念が俺の内面に黒いシミとしてずいぶん後まで残ったのかもしれない。

「稲刈り」と言ったが、実は通っていた男子校は形の上では農学部の附属高校だったので、「農学」という奇妙な必修授業があった。その一環で「稲刈り」があるのだ。もちろんそこに至るまでに田植えがあり、雑草よりイネのほうを抜いてきてしまう夏の草取りがあり、豊作を祈るちょっとした儀式もあった。なぜか代掻きと苗代作りはなかった。ほんの1反ばかりの田んぼだが、担当の教官は皇居の次に都心に近い田んぼだと言って胸を張った。
その稲刈りの話を伝えると、響子がこれこれと頬かむり用の手ぬぐいを取り出してきた。前橋の田舎では田植えのときにも使うのだが、俺が田植えの話をしなかったので渡しそびれたという。今度こそして行けという。ただでさえ色が黒いのが、日焼けして真っ黒になっちゃうから身体に悪いという。黒いのはあそこだけでいいのかというと、真っ赤になって下を向いた。
同級生には予想通り爆笑された。しかし俺は傲然と、
「いいだろう、これが本場だ」
と、胸を張って言い切った。響子には皆に感心されたと嘘をついたが。

放課後の音楽室を殆ど俺だけのために開放してくれたのは、当時知っている人なら誰でも知っているというかなり有名な中年過ぎのリコーダー奏者T教官だった。あの、中学でお世話になるたて笛である。バロック音楽専門の楽団員でもあり、ときたまはにかんだように演奏会のリーフレットを生徒に配る姿が、受験科目にない教科の担当であるが故の気楽さと、それと表裏一体の淋しさをにじませていた。実際の授業ではベートーベンの交響曲第一番やモーツアルトの交響曲四十番のスコアが渡され、毎回生徒をパート別に割り振ったリコーダーと教官のピアノで演奏する。ついでに和音進行とオーケストラ表現のテクニックやモーツアルトによく出てくるドミナント連鎖を現物のスコアと生徒がいっしょうけんめい吹くリコーダーの音で検証するという凝ったものだった。当然一緒に和声も講義してくれたので、桃代の譜面の記号や意味も段々わかるようになってきた。蛇足だが、2年になるとこの教官は別の高校に去り、代わりに芸大を出たばかりのテノール歌手が赴任してきた。この教官はリコーダーの代わりに1年間グレゴリオ聖歌を歌わせ続けた。おかげでこの年は対位法を一から勉強させられることになった。いずれも金輪際大学入試にはお出ましにならない概念である。同級生が居眠りする間、しかし俺は夢中になってその知識を吸収した。


「赤いバイエル」が上巻、「黄色いバイエル」が下巻。
ブルクミュラー 25の練習曲 につけられた曲名;
1番:すなおな心
4番:小さなつどい
6番:進歩
8番:優しく美しく
12番:別れ
13番:なぐさめ
16番:ちょっとした悲しみ
18番:気がかり
19番:アベ・マリア
21番:天使の合唱
23番:再会

                       ばっちっこ  続く

            

ばっちっこ その26(下)

T教官は、暇があると放課後練習している俺の横でバイエルに「曲想」をつけることを指導してくれた。伝えたいものは何かを楽譜から読み取り、解釈し、伝え方を考え抜き、テクニックを工夫するのが演奏家の仕事、付加価値なのだという。桃代に見せてもらったジャズの譜面のどうしようもない未完成さ、よくいえば解釈の余地の大きさといってもいいかもしれない、とクラシック音楽との差に感心するやらあきれるやらの日々だった。なにしろ俺にとって音楽は聴いて消費するものではあったが、参加して創り上げるものになったのはこのときが最初なのだ。

そうした音楽生活を暮らしの糧にしていた桃代たちには、ちゃんと仕切る人と組織があった。そんな人たちともよく付き合ったし、場合によってはあまりの強行軍に対してまるで桃代のマネージャーでもあるかのように抗議をし、ギャラを吹っかけ、机をひっくり返したりした。
俺がそんなことをするのを止めもせず賛成もせず、桃代は自分のスケジュール管理はしっかりやっていた。部屋には酒屋の屋号が下半分近くを占める大きなカレンダーがあって、ラリっているとは思えない几帳面な字でその日のセッションの場所と時間が書いてある。俺はそれを生徒手帳に暗号めいた記号で写し取った。たとえば、立川のオックスで8時からなら、
『T20/O~C』
というような他愛もないものだ。最後の『~C』は、バンド仲間が車で送ってくれるという意味である。

その立川でのセッションの時、ドラムを叩いていたのがジャックだった。2メートル近い黒人の大男が中年のゴマ塩アフロヘアから汗をシャワーのように飛び散らせながら、太鼓の皮を破ろうとするかのように、シンバルの真鍮をかち割ろうとするかのように叩きまくる演奏は迫力満点で、桃代のベースともぴったり息が合っていた。軽い嫉妬を覚えないわけにはいかなかった。

ジャック・ラモー。昼間はアメリカ空軍立川基地でまじめに軍務についている。はずだ。どういうからくりかわからないが、月に3度か4度、立川市内のライブハウスに出演する。アメリカ人は英語以外話さないと思っていたのだが、ジャックはその英語がいかにもあまりうまくない。ときどき語尾の子音が消えたりする。たとえばセントルイに暮らしたことがある、などというのだ。アメリカ中部のセントルイスのことだろうと、それはリンドバーグが大西洋横断飛行に使って飛行機の名前、スピリット・オブ・セントルイス号のセントルイスかと聞きなおすと、そうだ、そういったじゃないか、と却って俺の英語耳の悪さを馬鹿にし始める。これはもしかしたらフランス系かと思って、3回目に共演した(もちろん桃代が、である)晩の休憩時間に思い切ってたどたどしいフランス語で話しかけると、いきなり目を見開いて抱きついてきた。ステージや客席はがんがんに冷房が効いているけれど、バンドの控室はいかにもそのおこぼれが流れ込んでくる程度で、まあ外の熱帯夜に比べればましという温度のところへ、俺より大きい男が殆どぶつかるようにして飛んできた二重の暑さ、といえば想像がつくだろう。

お前はフランス語がしゃべれるのか、いつどこで覚えたのか、ド・ゴールとニクソンはどうして仲が悪いんだ、日本は暑いと聞いてきたが、なにサンルイ(セントルイスのフランス語読みだ)に比べればどうってことない、イーストサンルイ(注1)じゃ夜は出歩けないぞ、あと3年は立川暮らしだ、いつでも遊びに来てくれ、フランス語の先生をしてやる、お前のフランス語の発音はずいぶんきれいだ、どこで教わったんだ。

ひとしきり、まるでブレス(注2)なしにしゃべりまくったうちから、なんとか聞き取れたフレーズだ。酒保から持ち出して来たというワイルドターキー(注3)をロックグラスに注いで一気に飲み干したところでようやく気がすんだらしい。ゆっくり身の上話を聞き出すと、ジャックの3代前に曾祖父母がアルジェリアからフランスへ移住し、父母の代にアメリカへ移住してきたというアフロフレンチ系移民2世だった。両親は家庭ではフランス語で会話していたので、彼もフランス語のほうが得意だという。フランス語の先生をしてやるというのも、実はフランス語が聞きたいだけだから気にするなと言った。

だから二人だけの時の会話はフランス語と英語と日本語の文字通りちゃんぽんだった。

ある日、お前は喧嘩が強そうだが素手じゃあ勝負にならないと言ってジャックが取り出したのは刃渡りが30センチ近くある、日本でいえばすでに匕首(あいくち)に相当するくらい長いナイフだった。刃の高さは3センチくらいだったから、長さの割にはやや細身と言えるのかもしれない。いかにも切れそうだった。俺は包丁を持つように、すなわち刃を下にして握りしめた。
「ノウノウ、さまなぶれ」


注1:当時東セントルイス市の治安は全米最悪と言われていた。
注2:音楽用語の『息継ぎ』。
注3:バーボンウイスキーの銘柄の一つ。割と高級なほうに属する。この当時、
東京の普通の酒屋にはなかった。

                      ばっちっこ  続く




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