4470653 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

遊心六中記

遊心六中記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

茲愉有人

茲愉有人

Calendar

Category

Comments

Archives

Favorite Blog

Jobim3のブログ Jobim3さん
2016.05.30
XML
カテゴリ:探訪

IMG_9622 (400x300).JPG  IMG_9625 (400x300).JPG

京都・東山に浄土宗総本山知恩院があります。正式呼称は「華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざんちおんきょういんおおたにてら)」です。しかし今は「知恩院」の方が一般的であり、道路標識も地図も、知恩院と表記されています。正面の三門には、「華頂山」の扁額が掲げられています。(資料1)

冒頭の写真は、「知恩院の大鐘楼」です。久しぶりに知恩院の境内に入ると、御影堂は現在修理中です。境内の南東隅にこの大鐘楼があります。今回はここを起点にした探訪を、事後整理を兼ねてご紹介します。

学生時代に一度この大鐘楼の柱のすぐ傍で、除夜の鐘が撞かれる姿と鳴り響く鐘の音を見聞したことが懐かしい思い出としてあります。その後は除夜の鐘としてこの大梵鐘が鳴る音は、行く年来る年の放映で眺めるだけですが・・・。

今回の直接の目的は、「法垂窟」を訪ねてみたいということでした。

IMG_9626 (400x300).JPG  IMG_9628 (153x300).JPG

起点とするこの大鐘楼の写真を撮っていて、初めて気づいたのは鐘楼の傍に「殉難忠士之墓」と刻された墓碑が建立されていることです。この墓碑が一隅にひっそりとあるだけです。裏側に回ってみると、末尾に「大僧正學天誌」と刻され、「頃年有抗 朝命者」という一行目から始まり「樹立墓碣以慰忠魂」で終わる漢文で記されています。

この大鐘楼のすぐ東、山側が知恩院の境内境界です。フェンスで囲われていて、扉があります。夕刻までは開かれているようで、私がここを通ったのは、3月下旬の午後4時少し前くらいでした。

IMG_9631 (400x300).JPG   IMG_9630 (400x300).JPG

門扉から山道に入ると、北側に左の写真「高台寺山国有林散策マップ」という案内掲示板があります。そして、近いところに「ほーたるのいわや 一丁」という道標が山道の右側に立っています。

IMG_9631_map.JPG

掲示の地図を拡大してみました。
大鐘楼の東側の境界門扉地点からの山道が、将軍塚、東山山頂公園への国有林歩道の一つ「知恩院口」になります。
IMG_9632 (400x300).JPG
山道を登って行きますと、約100mほどで、石造垣根で囲われた場所と東屋が山道の北側に見え始めます。石造垣根(以下、境内と称します)の南西角、つまり上ってきた山道に近いところに入口があります。

IMG_9666 (400x300).JPG   IMG_9665 (400x300).JPG

山道に沿った石造垣根の東端に「法垂窟」の大きな石碑が立っています。
山道の西側には幅は狭いですが少し深い溝、小川があるというべきでしょうか。その西側にかかる小橋があり、その先の敷地に廃屋風の建物があります。青蓮院境内地という表示板が橋のところに立てられていました。このあたり、青蓮院の飛地になっているようです。

IMG_9667 (400x300).JPG

参道から北に「法垂窟」全体を眺めた景色
それでは境内の探訪を始めましょう。


IMG_9656 (400x300).JPG

東屋の方に少し戻ります。境内地の南西部に入口があります。

IMG_9660 (400x300).JPG  IMG_9634 (400x300).JPG

西端に石灯籠が並び、参道が鍵型に右折します。右の写真の左の歌碑が参道の突き当たりにあるもの。左折すると境内は2段になっています。隣に句碑が建てられているようです。それぞれ達筆すぎて、私には判読できません。

IMG_9636 (400x300).JPG さらに、この歌碑も・・・

IMG_9637 (400x300).JPG IMG_9637_mon.JPG

IMG_9639 (400x300).JPG 

法垂窟の前面にも石造垣根が設けられていて、一種の結界となっています。上の写真の石灯籠の左に「法然上人 親鸞聖人 御旧蹟」と刻された石碑が建てられています。

この石造垣根の入口の柱に紋が刻されていますが、これはどこの紋なのでしょうか?藤葉の内側に抱杏葉がデザインされた紋に見えます。浄土宗の宗紋でも、真宗系(東西両本願寺)の宗紋でもありません。知恩院が使われている紋にも該当しません。少し調べた範囲では不詳です。

IMG_9641 (400x300).JPG

法垂窟の左手前にこの歌碑が建てられています。

IMG_9643 (400x300).JPG

法垂窟の上部に嵌め込まれた石板のレリーフの左には「善導大師」。雲に乗る大師の足許を瑞鳥が飛び回り、大師の頭部の右側背後には3体の雲に乗る仏が浮彫にされています。菩薩像でしょうか・・・・。少し低い位置には「圓光大師」つまり、法然上人が立たれています。 そして、右端に「善導大師 圓光大師 真葛ケ原御対面之図」と刻されています。

これは『法然上人絵伝』(国宝・知恩院蔵)四十八巻のうち巻七にある第五段の挿絵に相当する図をレリーフにしているもののようです。
手許の図録には、「第五段 法然、夢中に善導大師に逢う」とキャプションがついています。絵伝の絵では、善導大師と法然との間に大河(もしくは大海)があります。それは中国と日本、あるいは彼岸と此岸の象徴なのかもしれません。(資料2)

手許の『法然上人絵伝』の第五段の本文を読んでみました。この夢のことが直接に記載されているわけではありません。あるとき月輪殿での山僧との会話に次の引用文が記されています。(資料3)

 ”山僧と参会の事侍(はべり)りしに、「かの僧浄土宗を立給なるは、いづれの文によりて立給ぞや」とたずぬるとき、「善導の観経疏(かんぎょうのしょ)の附属の文なり」と答給に、重(かさねて)いはく、「宗義をたつる程のことになんぞただ一文によるべきや」と。上人微咲(みしょう)して物もの給はざりけり。”

一方、法然が弟子の源智に語ったものと思われる内容が、『醍醐本』「一期(いちご)物語」に語られているそうです。孫引きですが引用します。(資料4)

 ”但し、自身の出離においてすでに思ひ定め畢(おわ)んぬ。他人のためにこれを弘めんと欲すと雖(いえど)も、時機叶ひ難きが故に、煩ひて眠る夢の中に、紫雲大いに聳(そび)えて日本国に覆へり。雲中より無量の光を出す。光の中より百宝の色の鳥飛び散りて充満せり。時に高山に昇りて忽ちに生身の善導に値(あ)ひ奉る。越より下は金色なり。腰より上は常の人の如し。高僧の云はく、汝不肖(ふしょう)の身たりと雖も、専修念仏を年々に繁昌して流布せざる境なきなり。”

IMG_9648 (400x300).JPG

窟の中に石仏が祀られています。窟には清水が溜まっているようです。

IMG_9644 (400x300).JPG

IMG_9645 (400x300).JPG IMG_9647 (400x300).JPG

IMG_9646 (400x300).JPG

中央はそのお姿から推測して阿弥陀仏坐像、その両脇に二つの石像が安置されています。その二体はその頭部からみて阿弥陀仏の脇侍である観音菩薩像とは思えません。地蔵菩薩坐像か阿羅漢坐像と思われます。左側手前にもう一体安置されているのは地蔵菩薩立像と思える石仏像です。

阿弥陀仏の化身として善導大師をとらえてみと、小祠に善導大師、法然上人、親鸞聖人を重ねたイメージで三像が祀られているとみることもできます。

『法然上人絵伝』の第六段には、「上人、一向専修の身となり給にしかば、つゐに四明の巌洞を出でて、西山の広谷といふところに居をしめ給き。いくほどなくて東山吉水のほとりに、しづかなる地ありけるに、かの広谷のいほりをわたしてうつりすみ給。」と記されています。

四明の巌洞は比叡山であり、西山の広谷は洛西粟生光明寺の山の後方のことです。「東山吉水」というのは、知恩院付近の旧名です。東山吉水の庵が具体的にどこにあったのか、絵伝のこの記述だけでは確定できませんが、この地がその最初の場所だと言われると納得できる場所でもあります。

念仏行に専修する法然の許に「たずねいたるものあれば、浄土の法をのべ念仏の行をすゝらる。化導日にしたがひて、さかりに念仏に帰するもの雲霞のごとし」と本文は続きます。(資料3)
最初はささやかな庵だったものが、念仏信仰者が増えるに従い、東山吉水の地でその場所が多少移動しているかも知れません。

吉水の地に法然が草庵を結び、専修念仏を初めて布教したのは承安5年(1175)43歳のときだったとされています。
一方、親鸞が六角堂参籠での夢告を得て、法然の吉水の草庵を訪ねたのが、建仁元年(1201)4月と言います。このとき法然69歳、親鸞29歳だったことになります。

上記『法然上人絵伝』(国宝)巻六、第三段の絵「法然、吉水の草庵で、人々に専修念仏の教えを説く」とキャプションの付されたものに描かれた建物の絵をみる限りは、それなりに整ったお堂が建てられていたようです。二間四方の角部屋に法然が座り、背後と左側の二面は襖障子であり、手前は庭に面し外縁が巡らされている建物が描かれています。わびた草庵というイメージは浮かびません。勿論、絵の状況は専修念仏がかなり人々の間に布教された段階での話になることです。少なくとも絵師はそう解釈して建物を描いているように思います。(資料2)

東山吉水の草庵はこの法垂窟より少し南西に下ったところにある安養寺のあたりともいいます。
現在の安養寺の門前にある石標には「慈円山安養寺」という寺名表記の右側に「法然親鸞両上人御旧跡 吉水草庵」と刻されています。(資料5)
また、『都名所図会』では、「華頂山大谷寺知恩教院」の項において、「吉水の禅房とはこれなり」「初めは東の山腹、今の勢至堂の地にして」と記述しています。この前の項が「円山安養寺」ですが、この説明の中で「吉水草庵」や「吉水の禅房」についての記載はありません。(資料6)
総本山知恩院の「法然上人と知恩院」というページには、「法然上人はこの専修念仏をかたく信じて比叡山を下り、吉水(よしみず)の禅房、現在の知恩院御影堂(みえいどう)の近くに移り住みました。そして、訪れる人を誰でも迎え入れ、念仏の教えを説くという生活を送りました。」と記されています。(資料7)
これらの記述の場所は、法垂窟の南北いずれかに少し離れた地でしかありませんので、大きくこのあたりとイメージすればそれで良いことかもしれません。

IMG_9649 (400x300).JPG

法垂窟の南東方向、境内の東端に巨大で太い文字を刻した「法垂窟」の石碑が立っています。

その傍に散文詩風の文が刻された碑があります。傍の碑はそれほど古いものでは無さそうです。私には全文の判読は難しい・・・・。こんな章句「・・・ながきやみ路・・・めぐみも深き南無阿弥陀仏・・・・あなたも祖師と同行よ 親鸞さまのみあとをば 慕うて浄土にまいるべし われらハ称へん南無阿弥陀仏・・・」に読める部分があります。一度この境内にある様々な石碑に刻された内容を判読してみてください。
その内容を如何に読み解くかを教えていただけると有難いです。

IMG_9653 (278x300).JPG

「法垂窟」碑の北隣には「吉水」と正面に刻された井筒らしきものがあります。
ここもまた、吉水の井でしょうか・・・・。

IMG_9654 (400x300).JPG

「吉水」の傍にも、石仏が祀られています。螺髪のある頭部ですので阿弥陀仏坐像でしょう。

一通りこの境内を拝見し、一端知恩院口に戻ったところ、フェンスの門扉は施錠されていました。午後4時半を過ぎた頃だったかなと思います。

IMG_9663 (400x300).JPG

将軍塚まで登って下るしかないか・・・と覚悟して再び登り始めたら、偶然に出会った人に円山公園側に下る道を教えていただけました。

法垂窟の石造垣根の傍をさらにしばらく登りなさい。すると、分岐点の目印として、石積みの上にお地蔵様が置かれたところに出ます。そこから右折して下って行くと安養寺さんの横に出られますよと。
IMG_9668 (400x300).JPG
これがその目印となる石積の上のお地蔵様

ご教示通りに歩み下ることができました。そのお陰で、思わぬプラスアルファーの探訪
ができた次第です。

つづく

参照資料
1) 総本山 知恩院 縁起  :「浄土宗」
2) 『法然 生涯と美術』 法然上人八百年回忌・特別展覧会 京都国立博物館 図録

3) 『法然上人絵伝(上)』 大橋俊雄校注  岩波文庫 
4) 『法然の哀しみ 上』 梅原 猛著 小学館文庫 
5) 吉水草庵安養寺 ホームページ
6) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p277-283

7) 法然上人と知恩院  :「知恩院」

補遺
浄土宗宗紋の問題点(1) :「普仙寺」
本願寺の紋は下がり藤? :「天真寺」
東本願寺の寺紋と家紋  :「お散歩道草」
大谷家 :ウィキペディア
特集 神紋・寺紋の推定 :「時の散歩/仙台寺社巡り」
安養寺(吉水草庵) :「京都観光Navi」

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

探訪 東山山麓を歩く -2 円山聖天堂と吉水弁財天堂 へ

 






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2016.05.31 10:44:54
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.
X