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遊心六中記

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2018.01.07
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カテゴリ:探訪 [再録]
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堤防歩きの途上なので地名と景観をあまり記憶していませんが、下鳥羽から横大路へ入る辺りです。
淀川、桂川、木津川が三川合流する地点からの距離標識を見ました



今回は、羽束師橋付近から納所まで、空色で囲ったあたりをご紹介します(資料1)

横大路に入ると、街道をそれて、「飛鳥田神社」に立ち寄りました。
 

『日本紀略』の弘任7月乙丑(21)条に、飛鳥田神を官社例に預かると記されているくらいに古い神社のようですが、本殿建物屋根に一部ブルーシートをかけるほどに、寂れていました。現在の本殿は17世紀中頃の建立のもののようで、寂れて朽ちた形の故に、建物の構造などの見やすさがありました。しかし、絵にはならず侘びしいかぎりでした。(記録写真は何枚か撮りましたが・・・・)


横大路にもいくつか見るべき場所があります。「魚市場遺跡碑」(羽束師橋畔)田中神社、鎌倉時代の作といわれる「五輪卒塔婆」(ただし、民家の裏庭)などです。(資料2)しかし、今回は通過点になってしまいました。
横大路から納所(のうそ)という地域に入って行きます。

街道を歩いて行くと、納所外島のあたりが戊辰役の激戦地になったのでしょうか、街道の傍に「東軍戦死者埋骨慰霊碑」がぽつんと寂しく立っていました。この近辺は、納所外島の「愛宕茶屋」といわれたあたりのようです。

現在の三川合流は八幡の近くですが、もともとの三川合流は淀だったとのこと
その合流点に形成された三角州の場所が水の「よどむ」ところであり、「淀」になったとか。室町時代からここに港が栄えたといいます。
レジュメによると、中世には「淀魚市」が著名となり、また年貢や諸物資の保管倉庫が設置された場所が、「納所」と呼ばれたようで、それが地名になったのでしょう。(資料1)
また、「納所の船人の先祖が『神功皇后の舟子』であったという伝承をもっており、神功皇后とともに三韓から帰ってきたとき、その御幡をこの村であずかっていたので、御幡を”納めた所”という意味から納所の地名が生まれたともいう」(資料3)伝えもあるようです。

淀の地において、いくつもの歌や句が詠まれているようです。孫引きになりますが、名前をよく知っている人々の詠んだものをいくつかご紹介します。(資料2)

  真菰刈る淀の沢水雨降ればつねより殊に勝さるわが恋  紀 貫之 (古今集)
  雨降れば物思ふことも増さりけり淀の渡りの水ならねども  
              和泉式部(続和泉式部集)
  涼みとる淀の里人河沿ひの柳に落つる月を見るかな  上田秋成 (藤簍冊子)
  短夜や伏見の扉(とぼそ)淀の窓  与謝蕪村  

大阪に行く時などに、京阪電車から淀城の石垣を何度も見ていましたので、てっきりそこに茶々が住んでいたと思い込んでいました。実は、そうではないというのを、この講座で初めて知りました。「古淀城」というのがあったのです。
室町後期には、「京近き名城」といわれた淀藤岡城の存在が確認されているようです。そこに、「永正元年(1504)、摂津国守護代薬師寺元一が管領細川政元に謀叛を起こし籠もった」といいます。
その後、元亀の頃には岩成友通(三好三人衆)の居城だったようですが、足利義昭と呼応し織田信長に対抗した結果、落城の憂き目をみます。『信長公記』巻6、元亀4年(1573)の7月下旬に、「岩成討ち果たされ候事」の記述があります。「さる程に、公方様より仰せ付けられ、淀の城に、岩成主税頭(=友通のこと)・・・・両三人楯籠り候。」そして、「岩成主税頭・・・・切てまわり候を、・・・・下津権内と申す者、組討ちに頸を取り、高島へ持参候て・・・」と記されています。「淀城」という語が出ています。
天正10年(1582)、本能寺の変直後に防御地点として明智光秀が修理し、天正17年(1589)に豊臣秀吉の弟・秀長が修築し、秀吉側室・茶々(淀殿)の居城となったのです。このお城で秀吉の子の鶴松を産みます。

古淀城は、上記地図のピンク色の辺りに位置していました。
私が京阪電車の車窓から見ていた淀城址は黄色で囲った場所あたりです。こちらは、元和9年(1623)、伏見城の廃城の後、京都守護のために松平定綱により造営されたものだったのです。

茶々が大坂城に移った後、文禄元年(1592)に木村重茲(常陸介)が城主となります。
しかし、文禄四年(1595)に木村重茲が豊臣秀次の事件に連座して自害し、この城は廃城となり、建物等が伏見城に移築されてしまったのです。


ピンク色で囲った円内の上側の黒点が、「妙教寺」(法華宗真門流)の所在地です。
寛永3年(1626)、藩主松平定綱から寺地を賜り創建されたと言います。
 
 
 

この寺の境内に、史跡淀城址の石碑が立っています。

そして、この境内にも「戊辰之役東軍戦死者之碑」が建立されていました。

                      戦乱犠牲者の供養碑も建立されています。
 
境内の庭の一部の意匠にちょっと惹かれました。

      歌碑も建てられています。

地図を見ますと、納所には北城堀、南城堀という地名が残っています。これが古淀城の名残のようです。地図(Mapion)はこちらからご覧ください。

 

妙教寺の直ぐ南にこの川があります。これが南城堀の一部だったのでしょう。


妙教寺を出て、街道に戻ります。現在は3つの道路が交叉する大きな納所の交差点に向かいます。交差点までの傾斜の緩い坂道の途中に、「唐人雁木旧趾」の石碑があります。元の石碑は現在の淀城址に残されています。

ここが、江戸時代、朝鮮通信使一行が上陸した船着き場だったことを示すものです。当時は、このあたりが京の表玄関の役割を持っていたのです。
一書には「唐人をはじめ外国人専用の船着場。その桟橋階段が空を飛ぶ雁の群れの形に似ていたことから名付けられたもので、港がどのあたりにあったかを物語る貴重な遺跡である。」と述べています。(資料4)

現在の淀城趾に、旧の石碑がありました。その傍に説明板があり、そこには、一行の上陸地点に「雁木」と呼ばれた特設の桟橋が設けられ、「その長さは36間(64.8m)、幅7間(12.6m)と『山城淀下津町記録』にある」と記していました。また、朝鮮通信使一行は、1607(慶長12)年~1764(宝暦14)年に11回、この唐人雁木を利用したとのことです。

交叉点の南側から鳥羽街道を見たところです。
緩やかな坂になっているのが、なんとなくおわかりいただけるでしょう。
この交叉点を通る東西の道路付近が、実は旧宇治川そのものだったのです。

 
唐人雁木跡の石碑のある鳥羽街道側から納所交叉点を見るとこんな感じです。
 
信号機の表示に「千本通り」という表記が出ています。京都市内からの千本通りがここまで続いているのです。


ネット検索していて、この地図が掲載されているのを見つけました。(「伏水物語」)
引用します。(資料5) 明治時代の淀川改修工事がわかる図です。
現在の三川(宇治川、木津川、桂川)の様子と明治の淀川改修工事前の三川、巨椋池の様子が示されています。


「平安遷都以降豊公伏見築城までの巨椋池およびその沿岸図」から、部分図を伐りだして、納所地域を黄色くマーキングしました。
改修工事図とこの地図を重ね合わせてご覧いただくと、イメージとして1層わかりやすくなるのではないでしょうか。

ネット検索していて、​「朝鮮聘礼使淀城着来図」を見つけました。こちらをご覧ください​(資料6)
赤字枠を拡大した図はこちらです。
こういう図が残されているので、当時の状況がビジュアルに理解できるのですね。

余談ですが、もう一つの主要交通路が、この納所から伏見に通じている淀堤、豊臣秀吉が築いたというものです。
文久元年(1861)に出版された『澱川両岸一覧』(暁晴翁 著述 ; 松川半山 画図)に、「淀堤 俗に千両松といふ」図が載っています。(資料7)
京・伏見に上る船を引く姿が描かれています。江戸時代はこんな感じだったのですねえ。
 

つづく

参照資料
1) 龍谷大学REC「京都の歴史散策23~下鳥羽・淀を歩く~」(2012.5.10)
   (龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏 作成レジュメ)
2)『昭和名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p160-161,p163-164
3)『新版 京・伏見 歴史の旅』 山本眞嗣著 山川出版社   p183
4)『京の古道を歩く』 増田潔著 光村推古書院  p246
5) ​明治時代の淀川改修工事​ (「伏水物語」)
   ​三川合流物語ー
     平安遷都以降豊公伏見築城までの巨椋池およびその沿岸図
6) ​朝鮮聘礼使淀城着来図 ​:ウィキペディア 
7)​『澱川両岸一覧』​:早稲田大学図書館 古典籍総合データベース

補遺
淀古城址・戊辰戦争砲弾跡​ :京都市
淀古城​ :ウィキペディア
古淀城薬師堂趾​  :京都市
納所とは​ :「weblio辞書」
淀納所​ :「地名シリーズ」(うしさんのおもしろ伏見の歴史)

  ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

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Last updated  2018.01.08 23:12:00
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