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遊心六中記

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2018.08.05
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カテゴリ:探訪
​​​​​​​​  
油小路通を北に上っていきます。一条通を横切り、更に北に進むと元誓願寺通が最初に交差する十字路です。この交差点を横断したところから油小路通りを撮ったのが冒頭の景色です。左は北方向の景色。通りの東側には、京都市小川特別養護老人ホームの大きな建物があります。
 この建物が目印になるでしょう。
冒頭の右の画像は南方向を眺めた景色です。
 
             この交差点の南西角に駒札と石標が見えます。
  
この付近が「慶長天主堂跡」です。上京区頭町に位置します。




 
豊臣秀吉は、キリシタン禁止令を出し、キリシタン26人を長崎の西坂に送りそこで処刑するとともに、南蛮寺を取り壊しました。
その秀吉は、慶長3年(1598)8月に没します。秀吉の死後、宣教師らは再び布教の許可を得る努力を図ります。関ヶ原の戦を経て、徳川家康が天下を掌中におさめ、徳川幕府が確立すると、キリスト教布教が再び自由になったそうです。
この地に新しい天主堂が復興されたのです。そして、江戸時代にはここが「だいうす町」と呼ばれたのです。(駒札、資料1)

駒札には、「旧南蛮寺よりはるかに美しい建物といわれ、宣教師が常駐し、荘厳なミサが行われた。付近には学校も設けられた。」と記されています。

ところが、慶長17年(1612)、徳川幕府は方針を大転換し、3月にまず直轄領でのキリシタン禁止を発令し、翌18年には日本でのキリスト教を禁止します。布教は勿論、信仰自体を禁止し、改宗を強制します。大弾圧の始まりであり、この地の天主堂は焼き払われてしまったそうです。(駒札、資料2)

南蛮寺跡、妙満寺跡26聖人発祥之地、慶長天主堂跡、という形で、キリシタン信徒がかなり集住した地域がダイウス町と呼ばれていたことに触れてきました。他にもダイウス町と呼ばれたことのある地域があるのだろうか、という関心からネット検索してみると、ありますね。
 *上京区堅富田町、東堀川通一条上ルの辺り
   だいうすの辻子(ずし:富田辻子、大臼辻子、徒斯[でいす]辻子、大宇須辻子)
   と呼ばれた辻子があったという。古地図に地名としてあったという。
   現在、辻子は消滅しているもようとか。
 *下京区菊屋町辺り  高辻通と松原通の間
   新町通から一筋西の若宮通の両側に跨がる辺りになります。
   こちらは松原ダイウス町と呼ばれたとか。
だったそうです。(資料3、4)

京都に残るキリシタン関連史跡の一番最初に、京都における「元和の殉教」で、52人が六条河原(正面河原)で火あぶり刑に処せられたことに触れました。それとの関連になりますが、資料検索をしていて、「この時殉教した京都の代表的な信者、橋本太兵衛ジョアン、その妻テクラ、13才の長女カタリナ、12才の次男トマス、8 才の三男フランシスコ、6 才の四男ペドロ、3 才の次女ルイサはこの町に住む家族でした。」(資料5)という説明に出会いました。この町というのは、松原ダイウス町のことです。
このブログの著者の記載に、1614年のイエズス会の年報には「ミヤコでは信者は4000人ほど住んでいます」と記されているそうです。

キリスト教が禁止されて1年後に「大坂冬の陣」(1614年10月)が起こります。そして翌年の「大坂夏の陣」(1615年4月)で豊臣氏が滅亡します。「元和偃武」と称されています。
この様な社会状況、文脈の中で、京都での「元和の殉教」が生み出され、元和8年(1622)には長崎で55名の宣教師・信徒を処刑するという「元和の大殉教」が作り出されていきます。信仰の潜伏、所謂隠れキリシタンが生み出されていくことになります。
寛永年間に入ると、キリシタンの改宗を強制するの一方で、「寺請制度」を全国化していきます。徳川幕府のキリシタン禁止と抱き合わせた「寺請」は一般民衆全体を巧妙に支配する仕組みの確立となります。そして、この制度が日本の仏教の有り様に影響を与え、方向づけることにもなります。(資料2)

国語辞書は、「寺請」を簡潔に説明しています。「江戸幕府がキリシタン禁圧の一環として設けた一種の登録制度。一人一人の民衆を特定の寺院の檀家とし、寺院に自寺の檀家であることを証明させたもの。キリシタン根絶後は一般庶民に対する支配監察のための制度として機能した。寺壇制度。檀家制度」(『大辞林』三省堂)

キリシタン信仰の弾圧手段として、踏絵というおぞまし方法が寛永5年(1628)長崎で始まり、安政5年(1858)に廃止されるまで九州各地で制度的に実施されたそうです。初期はマリアの絵像など聖画像の絵踏をさせたそうですが、のちに板踏絵や真鍮踏絵という絵踏道具を使う様になっていきます。(資料6)
寛永14年(1637)10月の島原の乱(~1638)へと結びついていくことになります。

さて、京都のキリシタン関連史跡に引き戻します。

椿寺の所在地は現地を訪れてわかりましたが、前回記したとおり、キリシタン墓自体を拝見することができませんでした。ご紹介した第3作『聖地巡礼 リターンズ』には、そのキリシタン墓の写真が掲載されています。ご関心がある方は、本を開いてみてください。
その写真で私が思い出したのは、次のものです。
 
これは京都国立博物館の西の庭の一隅に保存されているキリシタン墓碑です。
  
正面に何か文字のようなものが線刻されている感じです。

 
こちらの墓碑の形が、椿寺に納められたキリシタン墓の写真で見たものと同型です。

 
これは、2016年11月に伏見の深草に所在する「石峰寺」を伊藤若冲の絡みで探訪した時、本堂の近くで偶然に見つけたお墓です。何時の時代のものかは定かではありません。しかしかなり歳月を経た墓だと思います。
 上部に十字の形が彫り込まれています。
やはりキリシタン関連の墓碑かなと想像します。花が供えてありますので、お墓として意識されているのでしょう。

 
これは、京都の岡﨑公園内の二条通に面する京都勧業会館(みやこめっせ)の建物の北西隅あたりで撮った織部灯籠です。(2013.12.15)
        
           この石灯籠の竿の部分をクローズアップしたものです。
昔、興味を覚えて撮ったことを思い出し、保管している画像ファイルを調べて、見つけました。
石峰寺で墓碑として存在するものと共通するところがあるように感じます。
場所が違え、どちらもそれぞれひっそりと佇んでいます。どこかでキリシタンというキーワードにリンクしていく気がしてなりません。

 
先日、京都国立近代美術館に会期終了間近い「横山大観展」を見に出かけました。帰路、遠回りしてみやこめっせの前を歩いてみることにしました。その時上掲の石灯籠の置かれた一隅で撮った織部灯籠です。裏側から撮った形になると思いますが、草が茂り竿の部分が隠れています。(2018.718)
 
               
通路を挟み西側に置かれいる織部灯籠がこちらです。こちらも草が茂り竿の部分が見づらくなっています。

このテーマでのご紹介をこれで終わります。今まで点的情報だったものが少し繋がりを持たせて見つめることができました。それに併せて課題も残りました。

ご一読、ありがとうございます。

参照資料
1) ​慶長天主堂跡​  :「京都市」
2) 『新選 日本史図表』 監修 坂本賞三・福田豊彦 第一学習社
3) ​だいうすの辻子・ダイウス町​ Google Map
4) ​だいうすの辻子・ダイウス町(京都市上京区)​ :「京都風光」
5) ​松原ダイウス町​  :「天上の青」
6)​踏絵​  :「コトバンク」

補遺
元和大殉教​   :「コトバンク」
元和の大殉教​  :ウィキペディア
踏み絵​  :ウィキペディア
5.キリシタン迫害の時代へ 鎖国とキリスト教禁令​ :「Paoline ラウダーテ」
【衝撃】 踏み絵【キリシタン狩り】​ :YouTube
『沈黙-サイレンス-』本編映像”踏み絵” ​ :YouTube
『沈黙-サイレンス-』日本版特別映像​  :YouTube
長崎県生月島 現在に生きる隠れキリシタンたち​  :YouTube
【短編ドキュメンタリー】 大籠探訪 キリシタン殉教の地​  :YouTube
信徒発見とキリシタンの歴史​   :YouTube

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

探訪 京都に残るキリシタン関連史跡 -1 元和キリシタン殉教の地、南蛮寺跡ほか へ
探訪 京都に残るキリシタン関連史跡 -2 二十六聖人発祥の地、フランシスカン・チャペル、西ノ京ダイウス町、椿寺 へ
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Last updated  2018.08.05 10:43:08
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Re:探訪 京都に残るキリシタン関連史跡 -3 慶長天主堂跡、ダイウス町、キリシタン墓(08/05)   Jobim さん
京都にこのようなキリシタン殉教の史跡があるとは、知りませんでした

実は最近、遠藤周作の 「沈黙」 と言う小説を読みました
長崎におけるキリシタン迫害についての話です
釋徹宗さんの講義を聴いたときに、宗教に対する理解を深める一助として、カトリックの信者の心のあり方の参考として示して下さった本でした
読んでみて、小説としての面白さにものめり込んでしまいましたが、カトリックの信心について、「自分と違うもんなんだな・・・」 と、とても参考になりました

そして、幕府の迫害と殉教について興味を持っていた所です

また、NHKの番組で五島列島の隠れキリシタン達が明治維新で信仰が自由になったときの様子、現代にも受け継がれる独特の信仰の様子を見ました

日本はかなり独特な宗教観を持った国民だとポルトガルの司祭が言った言葉が、納得できるように思います
(2018.08.08 21:37:47)

Re:探訪 京都に残るキリシタン史跡に関連して   茲愉有人 さん
Jobim さん

最近読んだいくつかの本で、かなり以前から京都に残る史跡として知っていたことと知らなかったことが結びつき、ちょっと自分なりにまとめてみたのです。

臨済宗妙心寺の塔頭・春光院には、どういう経緯かは知りませんが、「南蛮寺の鐘」が保存されているそうです。いくつかのネット情報で知っていたのですが、自分で現地探訪し、実物を拝見していません。そのため、書き忘れています。

多分、まだまだ知らないだけで、関連史跡や拝見可能な史料類があるのかもしれません。

ブログに触れていると思いますが、内田樹・釈徹宗共著『聖地巡礼 リターンズ』(第3作)をお薦めします。
現地巡礼を通じた対談集と講話のまとめです。
この書も、探訪を加えてまとめるトリガーになった一冊です。

幕府の迫害と殉教についての観点での対談内容や、長崎が遠藤周作著『沈黙』からどう抜け出るかという問題提起もあり、興味深いです。隠れキリシタン、浦上天主堂と平和公園のことなども触れられています。

日本人の宗教観を解明している本があれば、読みたいものです。 (2018.08.08 23:34:05)


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