あたふたあなくろクロニクル

2009/12/11(金)10:51

Pain is the healing.

ヨガ(12)

9月xx日の日記。そうです、9月の日記なんだから、別におととい(というのは12月8日だ。ジョン~!…太平洋戦争開戦日というべきでしたかごめんなさい)、辛いことがあったから PAINなんて持ち出したわけではないのです。とはいえ、積み重なる下書きの中からこれを取り出したということには、 もしかしたらどこか無意識に通じるものがあったのか…ともあれ、この9月というのは春と並んでヨガのイベントが多い時期らしく、 外国からもヨガの先生が大挙して出稼ぎ…じゃない、とにかく押し寄せていらっしゃるらしい。  で、そういった顔ぶれを見ると、やたら行ってみたくなったりするわけですが身はひとつ。 時間(とカネ)の問題もあり。従ってすべて行くってことは不可能だ。そういう来日中の先生のひとりにマーク・ウィットウェルさんという方がいて、 ちょっと興味を惹かれたのだが、横浜ヨガ・フェスタのクラスも出られず。 まあ仕方ないなと思ってたら、 これが近場で急遽ワークショップ開催となったのでした。 これは僥倖なりと行ってみたのでした。市の公民館だがなかなかいいところで、昔ながらの民家風。 庭に面して縁側なんぞもついた広間が会場で、 かなりの数が集まって待っているところへ 廊下側のガラス戸をがらがらと開け、マーク師がゆっくりと顔を覗かせた。さすがオージー(あれ、ニュージーランドだったかな?違ってたらすみません)、でかい。 眼光鋭く、銀の髪は背中に垂れ、いるだけで威圧感あり。しかしすべての動きがゆっくりゆったりというか、そう、威圧感ではなく存在感なんだなこれは。通訳でサントーシマ香さんが同行してらした。この方も、顔とお名前は存じておりましたが、実際に目の前で見るのは初めてである。おお。いきなりミーハーが入り込む。ベタに言ってしまえばきれいな方、だが、きりりとした、品のある美しさ。 やはりその瞳が印象的である。そういう眼ヂカラ・コンビによるクラスでありました。染みいる活力(念のため言っておくと、これは引用です。確か爆風スランプ…ごめんね古くていつもっ)。先生は会場の奥に作られたステージのうえに乗っかり、その端に腰をおろして、脚をぶらぶらさせながらお話をはじめた。目は鋭いが話しぶりはやさしい。Obssesiveになるな、と先生はおっしゃるのであった。ヨガを義務にしないこと。がんばりすぎないこと。ヨガは誰でもできるもの。ヨガは間違った形で伝わってしまっている(という先生はとっても多い。そういう気持ちは、素人の私にも非常によくわかる気がする。素人でももどかしく思うことがしばしばなのだから、先生たちはさぞやと思う)。会場いっぱい参加者だったが、男性は3人。 なぜヨガをやる男性は少ないのか、という先生の常々の疑問から始まり、サーファーさんヨギーの男性の「日本の男は好奇心がないのではないか」という答えを受けつつ、 「ヨガはいまだに美容と結びついているからではないか」という女性の方の意見を得つつ お話が進み、やがて出てきたのが、このPain is the healing.であった。痛いところがあると、当然「やだな」「つらいな」と思い、それをかばおうとするものだけれど、 実は痛みというのは何かを気付かせてくれるのです。 痛む場所があるから慎重にもなる。痛みの原因を考えて、この先こういうことがないようにと学習もできる――例によって感想記憶なので、どこかで私の個人的意見が混じってるかもしれませんということを一応付け加えておく。けど、たぶん海のかなたの先生と通訳のサントーシマさんに迷惑が及ぶってことはあるまい。こういうとき影響力が小さいことはありがたくもある――そう、そこで休めってことかもしれないし。休めで思い出したが、トシ先生(も、サーファーだよねえ。サーフィンとヨガは通じ合うのね、ほんと)も、よくそれに似たことをおっしゃる。 トシ先生はこないだ風邪ひいて高熱を出したが、まじめなのでそれさえ自分の反省材料にしていた。。。 で、「原因と結果」に思いを致し、 「結果を想定しながらも原因のもとである行動を考える」ことができなかった、と バガヴァッド・ギーターのお勉強までしていた。結果も想定せず原因となる行動も考えず自爆するワタシとしては、 その前に反省材料がありすぎ・・・だが衝突大破を繰り返すおかげで「気づき」だけはいろいろ得られました。 それが身になっているかどうかはともかくね・・・(あ、やっぱり12月8日を引きずってるかも・・・)話を戻す。PAINというのは肉体的苦痛だけではないわけで、心の痛み、精神的苦痛というのはあとを引く。 たとえば親によって傷つけられたってこともありますね。 親があの時ああ言ったから、いま自分はこうなってしまった・・・これについてはずいぶん前に、子供が鬱病になってしまった知人のことで書いた記憶があるのだが… 専門家ではないからそんなに詳しくはないけれど、カウンセリング療法として過去をたどるというもの、あれは必ずしも効果を生むとは限らないのではないか。 たいてい、とくに母と娘の場合に顕著な気がするけれど、娘の現在からさかのぼって掘り下げていくと、母の影響にたどりつく、と。母の呪縛、云々。それで母と娘が納得し、了解し、先に進められるならいい。 が、果たして、すべからくそうなるんだろうか。これは個人的見解ですけれども、 逆パターンに、少なくとも一時的には(そこを乗り越えられたらそれはそれでいいわけだが)、なるほうが多い気がする。そこから恨みが生まれて、親のほうには罪悪感が生まれて。一時期ほどこういう「親のせい」風潮はない気がするが、そこから派生した影響は漂っている気がする。。。べつに親がすべての責任を負うことはないんじゃないか。再び話を戻す。先生は、「許さなくては始まらない」とおっしゃった(正確な表現じゃないかもよ、しつこいですが)。そう、そうですよね・・・ !親のせい、親がこうしろと言ったから、と、ずっとそれを抱えていると、 そこから何も進まない。もちろん親に限ったことじゃなく、誰かが自分にこうした、とか、自分はあいつのせいでこうなった、とか、そういうことばかり考えてても、何も生まれない。そうだよね。これも随分前に書いた記憶があるが、あの「Mama~Do you remember~」うたった人(すいません、”ジョーなんとか"だったことしかいま思い出せないの~あ、ジョー山中だ! よかった、まだ固有名詞が出る)が、人に騙されてお金なくなっちゃって、でも恨んでないという話、 それにこないだ何かで読んだ吉川浩司の話…やっぱり辛い目に遭ったらしい。 でも、そうやって金がなくなっちゃったとき、スーッと周りから人が消えていったときに、 「こいつは俺のこと嫌いだろう」と思ってた人が助けてくれた、と。どんな状況でもありがたい「気づき」はある・・・そうやって乗り越えた人たちは(実際、すごいよね…)、いつまでも恨みにこだわってはいないわけだ。 恨みというものは完全に消えるもんじゃない、と、こないだ車谷長吉さん(この人も、そうとうタフな人生送ってきたみたいですが…)が人生相談コーナー(笑)で書いていたが、 だが完全には消えなくても、薄らぐもんです。緩和はできるんです、と。何事も、こだわっちゃいけない。話が時間空間ともあっちこっち飛びましたが、とにかくいい日でありました。そう、先生の著書がようやく日本語訳発行の運びとなった、とのことであった… すみません、いま改めて思い出しました。買おうと思ってたんでした。恨みは忘れるべきだが、忘れていけないこともあるね。      

続きを読む

総合記事ランキング

もっと見る