理解について
自分自身の根本的な理解は、知識や経験の積み重ねから出てくるものではありません。それらは単に記憶を養成しているようなものなのです。自分自身の理解は、知識や経験に関することではなく、現在のこの一瞬一瞬に関わることなのです。もし私たちが自己に関する知識をただ蓄積していれば、その知識そのものが私たちのより深い理解を妨げることになるのです。なぜなら、理解しようとするとき、蓄積された知識や経験がその中心になって、それを通して思考の焦点が合わせられたり、思考そのものが具体化されてくるからなのです。以上、引用: 自我の終焉 J.クリシュナムーティ著 根木宏・山口圭三郎訳P.47 自己認識知識・経験から、一瞬一瞬を理解しようと試みるとき、(自己があっての理解は通常、この状態であろう)それは、一瞬一瞬を、自己の既成概念に当てはめる作業をしている。これは、新しい経験を古い経験に置き換えていることだ。今、ここには、新しい経験しかないのだが、知識・経験からなる自己の見方では、新しい経験は理解できない。自己の知識・経験を持ち出さず、そのものになりきることによって、頭でない理解が起こる。それが新しい経験である。そして、頭でない理解は、記憶として蓄積されることはない。