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鎌倉日記(極上生活のすすめ)

国境の町

列車を乗り継いで、下関へ行き、そこから、韓国の釜山に渡ったことがある。
下関の港にある下釜フェリーの待合室で船を待っていると、隣に座っている韓国人から、話かけられた。
「この腕時計を持っていってくれないか。」
こちららは、リックをしょった見るからに金のないバックパッカーだ。
彼も船に乗る。降りる時、腕時計を戻してくれればいい。
「お礼に、釜山とソウルの列車の切符をあげるよ。」

船の待合室で待っていると、韓国のおばちゃんたちは夏なのに、何枚も大量の服を着込んでいた。手荷物は電化製品をいっぱいもっていた。
下関の港には、バナナが箱で売られていた。韓国に戻る時、彼らは、皆、そのバナナを箱ごと買っていた。持ち帰ったバナナを韓国で売ると、往復の船賃が出ると、いうことだった。
だぶん、今はそんなことはないだろう。韓国はまたたくまに経済成長した。
もう、二十年以上まえの話だ。

マニラの空港の待合室では、なぜか商売人が自由に出入りでき、旅行者を見つけては、免税店でジョニ黒を買ってきてくれと頼んでいた。
買ってきてやれば、すぐに、小遣い程度の金稼ぎができた。
黙認なのか。免税店には、ジョニ黒ばかりが並んでいた。
ここもすでに国境の町だった。

国境を越えると、新しい風景とともに、体臭と食い物の入り混じった匂いと聴きなれない音楽がとびこんでくる。
体を少しずつ、馴染ませる。
両替をする。しかし、その紙の価値がまだ、わからない。
どの国でも共通しているのは、親しげに、近づいてくる者には、ろくな奴はいない。

陸路で越えるときは、明らかに国境が見える。
空路、海路で国境を越えるとき、港や飛行場が、ふいに国境の町の顔をのぞかせる。

        *     *      *

 20代の頃、タイとカンボジアの国境の町、アランヤプラテートという町へいった。
ポルポト政権下で大量虐殺がおこり、大量の難民が国境を越えてなだれこんでいた。
この町では、さまざまなことを経験した。
ビリージョエルの「ストレンジャー」が、はやっていた。
あの曲が流れてくると、あの頃のことが、よみがえってくる。
流行歌というのは、不思議なもので、すっかりと忘れていたような過去のことを、ふいに呼び覚ます作用がある。

「戦場では、戦況を語らなければいけない。戦争を語ってはいけない。戦争は政治だからだ。」
先日、イラクで射殺されたジャーナリスト橋田さんの言葉だった。

この意味の深さは、その頃は、よく解らなかった。

      *     *       *
 
 タイとカンボジアの国境の町アランヤプラテート
の周辺には、いくつかの難民キャンプができていた。彼らのほとんどはカンボジアの国境を歩いて越えてきた連中だった。
国境周辺には、そんな彼らを狙う盗賊も多く、全財産を持って逃げてきた難民たちから、あらゆるものを奪っていった。
 国家が破綻もしくは崩壊すると、金のある連中はまず空路で脱出し、海沿いの村なら、船を使っての脱出になる。シャム湾には海賊も多く発生していた。
海賊といっても、普段は漁をしている漁民であることも多く、判別は難しいかった。

難民キャンプは、膨らみ続け、いくつもの難民キャンプが生まれ、政治家やマスコミの訪問用のものなど、難民キャンプの種類も微妙な別れかたがはじまった。
マスコミに報道されると、支援物資で膨らんだ。
周辺のタイ東北部の町の住民のほうがよっぽど、貧しいなんてことが平気でおこりはじめていた。彼らは、国連の豊富な物資を横目で、うらやましく見ていた。
支援物資は、その国の役人的な思惑でいいように使えわれるという現実も見た。
あらゆることに、経済が介入しはじめてもいた。

私たちは、マスコミを通じて、世界を知った気になる。
しかし、報道される事実は、常に現実の一部だった。
二十代の私は、ただ混乱するだけだった。



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