鎌倉日記(極上生活のすすめ)

2006/10/07(土)00:35

■極私的大学改革論■

きょうも、大学の授業を受けていた。 一度、社会に出てみると、大学の講義というのが、すらすらと頭に入ってくる。 学生の時は、裏づけのない、浮いた言葉としての学問だったのが、今は、その言葉の隠れた裏の意味までもわかるようになっている。 今年から、会社法が大きく変更されている。 いままでの商法から、会社に関することは、会社法に移行し、有限会社というのは、もう、存在しなくなる。 それにともない、会計制度というのも、大きな変更が行われている。 決算書の書き方も、この五月決算の会社から、変ってしまった。 これらは、日本がこれから向っていく、 グローバルスタンダードの流れの中のひとつといえる。 私の受けている講義は、こういうことに関わることなので、 新しく、 いま、出版されている本には、どれも、まだ、ちゃんと記されてはいない。 きょう、私語の多い学生が、教室から、外に出るように叱られていた。 たぶん、こういう有益な授業を受けても、 法律や、金融、決算書などに関わったことのない学生は、 ただ単位取得のための、学問の言葉として理解していくのだろうなあ ・・と、ぼんやり思っていた。 はたして、 大学のシステムは、このままでいいのだろうか。 大学は、入学のありかたを含めて、変革したほうがいいものが多々ある。 まず、大学というのは、一度、社会に出てから、入りなおすシステムのほうがいいと思った。 とくに、法学部、経済学部は、社会経験をして、30歳ぐらいで、はじめて入学を許可するのがいい。 法律の本法、附則、省令などの解釈、金融、為替、決算書の読み取りなど、ひととおり経験をして、 狡さ、厳しさ、激しさなど、 世の中の大人の闘いというものが、どういうものか、知ったあと、 大学で学ぶほうが、ずっと頭の中に入るし、実践に即した生きた学問になってくるはずだ。 では、文学部は、どうか。 20歳ぐらいで、入学するよりは、 ここは、もっと、感受性の鋭い、十代のほうがいいかもしれない。 へたに偏差値で順位をつけて大学に入ってくるのではなく、全員いれてしまったほうがいい。 そして、 まず、中途半端な評論家みたいなサラリーマン教授は、去っていっていただいて、 毎回、一回かぎりに、現役の作家や詩人に、順番に講義をしてもらうのはどうか。 一年に一回なら可能ではないか。 私は、いままでの人生で、何人かの作家と直接、話をしたことがあるが、 そのあと、彼らの作品の読み方が、劇的に変化している。 中上健二に会ったときは、そのオーラの強さに、圧倒されたことがあった。 中上の持つ、痛みみたいなものまで、感じられた。 詩人には、 自作の詩を、自分の声で朗読してもらう。 これも、経験したあと、詩の鑑賞が劇的に変った。 たとえば、谷川俊太郎の詩を読むときは、 谷川俊太郎の声が頭の中に聴こえてくるのだ。 そうすれば、文学も、人生に直結したものになる。 本屋で、手にする本は、顔見知りの書いた人の本になる。 外国語学部は、まずは、教室で学ぶのをやめたほうがいい。 英語、フランス語、ロシア語、アラビア語、中国語、タイ語 ・・など、その国の砂漠や辺境の地あたりに、ひとりでほっぽりだしてしまう。 2年でも、3年でも。 そして、 わずかな金を持たせてスタンプラリーをやらせるのがいい。 中国語なら、ラサ宮殿でスタンプ、大連でスタンプ、香港でスタンプ、というようにするのだ。 頼る人もなく、 安宿に泊まり、列車に乗りつぎ、いかがわしい商売人たちと接するうちに、 語学は武器であり、道具だということに気づいてくる。 私の経験からも、この方法が、いちばん、語学が身につくと思う。 外国語学習は、これに勝る方法はない。 では、工学部は・・・。 ・・・・・というような大学改革案を、 授業を終え、キャンパスの学生食堂で食事をとりながら、ひとりで、つぎつぎと夢想していたのだった。

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