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日々の出来事

日々の出来事

病歴と病気の経過を記していきます。

発病したのは平成7年の暮れです。

始めは足を引きずるように歩くことを、周りの方から指摘され、仕事に追われて本人は余り気にしていなかったようですが、仕事が一段落したら、体がだるくてナメクジのようだ。と言っていました。

平成8年は無理に歩くので腰や、頚、背中などが痛くなってきてしまい、整形外科にしばらく通って、頚椎症ではないかと診断されました。
合い間に東京まで自分で車を運転してカイロプラテイックにも毎週通っていました。 この間仕事をしながらですが。

平成9年に私の兄が当時武蔵野日赤に勤務していまして、そちらに行って診てもらいました。兄は最初単なるうつ病じゃないか、と言う判断で、うつ病の薬を出してくれました。

ところがそれを飲むとますます体が動かなくなり仕事も現場で立ち往生する状態になってしまいました。大量の家具の取り付け仕事でお弟子さん2人にさらに息子2人にも手伝わせ、やっとの思いで仕事はどうにか終わらせました。

動けない体で又東京まで行き、兄から紹介された九段坂病院の神経内科に行き、そこで始めてパーキンソン症ではないか、との診断がなされました。

それ以降は地元の病院の方が良いということで信大付属病院を紹介され、そちらに通うようになりました。始めてパーキンソン病の薬を出してもらって最初は治ったかと思うほど良く効きました。

しかし又しばらくすると体が動きにくくなり又違う薬を処方していただきました。平成10年に淡蒼球内節の破壊手術を受けました。少し体の動きは良くなりましたが、お薬と併用でどうにか仕事も続けていられました。

この間主人の要望で体をどうにか動かして仕事を続けたいと言う事で医者の方も薬をどんどん試験という名目の元、増やして行きました。

最終的には6~7種類の薬を飲んでいました。お食事の前にお腹が一杯になってしまうのではないと思うほどか沢山の薬で体は薬漬け状態になっていました。

メネシット、アーテン、カバサール、エフピー、パーロデル、アモバン、ペルマックスというぐあいでした。

平成15年、その結果でしょうかだんだん言うことがおかしくなってきました。平成16年3月、幻覚、妄想、幻聴(本人はあったのか良くわかりませんが)でかなり私は振り回されました。

本人も不安でたまらなかったのでしょう。名古屋の実家に行きたいと言い出し、まだ元気でいたお父さんに会ったり、お姉さん達と会ったりして、自分の好きだった琵琶湖のそばにある永源寺というお寺に行きたいと言う事で、お姉さんと一緒にそこへ行きました。

永源寺の境内を歩いている時次男から電話が入り「無事に卒業できたよ、両親にありがとう」と言う電話でした。主人はその電話の後おいおいと泣き出しました。

最期の駄目押しで、主人の実家の名古屋から帰る途中雪が降ってきたので伊那の辺りで高速を降ろされ、田舎道を運転していて居眠り(薬のせいで)になってしまったらしく、対向車線を越えて反対側の畑に突っ込みりんごの木に車をぶつけて車のバンパーはつぶれ、始めてエアーバックを経験しました。

車屋さんに連絡して、代行車を持ってきていただきどうにか家に帰る事が出来ました。

三月の雪降りの日で車がゆっくり走っている状態だったので救われたとは思います。対向車線も幸い車がまだ遠くにいる時だったので大事故にならず、自分の車だけで済みました。運転変わろうかと何度も言ったのですが頑として譲らずこの結果でした。

その夜、家に帰って又おかしくなってしまい、部屋に石油をまいて鍵を閉めてしまい、火をつけるぞなどといい始めたので、私は警察に連絡しました。消防署の方も来てくれて、本人を説得して部屋から出てきてもらって事なく済みました。

その後その時は信大ではなく地元の長野病院に変わっていたのでそちらに入院させてもらう事にしました。もう深夜12時に近い時間でした。

その後は約1ヶ月と少し病院に私も寝泊りして、着替えを取りに家には時々帰りましたが、毎日病院で付き添いベッドで過ごしました。この間最初は薬は一切止めましたが後半はメネシットのみ入れて様子を見るということで、退院しました。

しかし薬が入っている限りか、まだ体に以前の薬が残っていることもあり、言っている事はやはりおかしなことを口走っていました。だんだん咽るようになり普通の食事はできなくなってきました。

平成16年夏に佐久総合病院に入院し違う先生の検査を受けました。この時佐久病院の先生からはパーキンソン病+レヴィー小体病だと診断されました。

私はその意味が解からずというか認めたくないと言う気持ちとで少し落ち込みましたが、とりあえず長野病院に戻り秋に先生のほうから、嚥下障害がひどくなってきたので、胃ロウにしましょう。という事で胃ロウの増設手術を受けました。

その後はメネシットも減らす方向で食事は胃ロウからという生活が続きました。結果的に平成17年は寝てばかりいる状態が長くなってきて、この間リハビリ入院と言う事で地元の鹿教湯病院に入院しました。

この間無呼吸症候群も出てきていましたので呼吸器をお借りして退院して家でも使うようにしておりましたが、かえって息がしにくく、トイレに起きるたびに外す、といったわずらわしさもあり、使わなくなっていました。

年に一回は3ヶ月ほどこの鹿教湯病院に入院しました。
平成18年になって名古屋大私立病院でDBSの手術を受けることになり、私は名古屋の実家に泊めてもらいながら、こちらと名古屋を何度か往復しました。

当時まだ仕事をしていたのでそれもあり行ったり来たりになりました。術後こちらにいる時に携帯に主人から電話が入りました。今度何時来るの?という電話でした。自分で携帯に電話をしてくることなど今までなかったことなので私はうれしくなりました。

退院して家に帰って来てからは手術前とは違って、起きる日も増え、以前行った烏帽子登山にとまでは無理でしたが、湯の丸高原に行って、湿原を歩きに行きました。

その後も黒部渓谷へ行こうなどと言い出したりして私の運転で出かけました。というのも胃ロウの増設手術の頃主人は免許の切り替え時期だったのですが行かれず、今は免許がないのです。

今でも時々又免許取りに自動車学校へ行く、などという事もありますが、私は無理だと言うのです。だって昼間寝ているのですから深夜には学校はやっていませんからね。

その後は寝たり起きたりの繰り返しで、好い時間とダメな時間が一日の中で繰り返されたり、寝ている日と起きる日が交互に来たりと不定期な日々が続いております。

今回は電池交換のために入院しましたが、先生はスイッチを切っても入れても余り変化はない、また試験的にメネシットも入れてみているがその効果も特にない、と言われて又少しショックを受けています。

その上嚥下障害が強く痰が詰まったり、舌が沈んでしまうので窒息する危険性が高く、危険なので喉の切開をしてチューブを設置する事をお勧めします。と言われました。そうするともうしゃべれないし、飲んだり食べたりも出来なくなってしまうのです。寝たままの状態にもなるのでしょうし。

本人に伝えるとそれはしたくない、という返事でした。私もせっかく意識状態はしっかりする日もあり、話も出来る楽しみもあるし、プリンや、ヨーグルト、おさしみのたたきを食べたり、喉が渇くと牛乳も飲みたいと言う事もあり、温かくなれば又散歩にも行きたいし、それらの楽しみが完全に奪われてしまうのはかわいそうだと思うので、やって欲しくない。と先生に伝えました。

しかし先生は窒息死する危険性は常にある、という事は覚悟していてください。と言われました。この病院でもパーキンソン病の方が先日窒息死されました、との事。

確かに病院は看護師さん達も忙しくて常に病人の傍に居る訳ではなく本人が呼ばない限り頻繁に来てくれる事は無理と言う事でした。確かに見ていると沢山の患者さんの様子を何人の看護師さんがどういう体制で見ているのかやはり厳しい感じはします。

それでも好い日はしっかりしていますのでリハビリも受けた方が好いと思い一週間入院を延ばす事にしたのです。この間危険性も伴うことはあるかもしれませんが無い事を祈るしかありません。



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