売れた本を読む《普仏戦争 籠城のパリ132日》
売れた本を読みました。
普仏戦争 籠城のパリ132日[本/雑誌] (横浜市立大学新叢書) (単行本・ムック) / 松井道昭/著
専門書的な感じの本です。
この頃の歴史が好きな夫が読んでいました。
フリマアプリでの取引はほとんど残っておらず、相場がわからないので半額ほどに設定。
売れたのはありがたいのですが、売れた翌日はちょうど私が珍しく忙しい日…
娘の布団、マットレスの設置や片付けもあるのでバタバタしました。
更に基本知識がないため、読んでまとめるのに時間がかかりそう、と思いながら手にとりました。
序《普仏戦争とはなにか》
普仏戦争(1870-1871)
プロイセン・南ドイツ4か国の連合軍 vs フランス
1870.07.19 宣戦布告
1871.01.28 休戦協定の成立
ドイツ→国家統一 フランス→パリ=コミューンの内乱
1871.05.10 フランクフルト講和条約、戦争終結
アルザス、ロレーヌをドイツに割譲、賠償金50億フラン
遠因…ウィーン条約後のヨーロッパの平和に対する独仏双方の不満
↑1792 対仏干渉戦争からナポレオン戦争までの24年間、
長期の戦争を終結させた講和条約
・プロイセン、オーストリア等ドイツ諸国はフランスへの怨念を抱く
民族としての一体性のなさを自覚→統一国家形成への機運
プロイセン、オーストリア間で統一運動の主導権争い
・フランスはウィーン条約によって奪われた軍事的、外交的主権の奪回を目指す
(旧版図はほとんど無傷ながら、外交の立役者タレーランは酷評される)
二度の革命騒動(七月革命、二月革命)で挙国一致の態勢がとれない
→ウィーン体制は百年続く
第一次世界大戦まで、ヨーロッパでは例外的に戦争が少ない
クリミア戦争、普仏戦争の他は小規模
イギリスの外交戦略も関係
1 紛争の拡大傾向→条約加盟国が《火消し》を図る約束
2 イギリスはアジア、アフリカ、新大陸に進出、ヨーロッパに関わらない
クリミア戦争のみ参戦、他は紛争拡大防止に奔走
ヨーロッパの平和にひび割れ…ドイツ統一問題
1864 デンマーク戦争、1866普墺戦争に勝利し、統一国家の完成をめざすプロイセンと、それを妨害しようとするフランスとの戦い
13c~550年の独仏対立抗争史上初、ドイツが開戦の主導権
ちゃくちゃくと準備したプロイセン、ほとんど準備のないフランス
プロイセン宰相ビスマルクの挑発(エムス電報事件)で戦争に突入
フランスは大敗、プロイセンは国家統一→ドイツ第二帝国
1856-1871
新生ドイツ、新生イタリア登場
ロシア、フランス一時的に退潮
イギリスとオーストリアを含む列強六ヵ国体制が平和維持に責任
ウィーン体制と異なり、国際政治の主役がフランス→ドイツ
紛争の震源地がバルカン半島
フランスは1890年代~ロシア、イギリスと同盟
ドイツはオーストリア、トルコと同盟
二分されたヨーロッパは第一次世界大戦へ
普仏戦争→局部的、時期的に限定的な戦い
現代戦争と旧来型の王朝戦争との中間に位置する
二度の世界大戦の原因は独仏の確執、普仏戦争は双方に怨念を残す
第一次世界大戦→四年も続くと予想されなかった
ドイツは物資枯渇による戦争継続困難
一方的な戦争責任、天文学的戦争賠償金、国土の縮小、戦力の制限
→ドイツ側に怨念が残り、第二次世界大戦へ
死傷者…第一次2300万、第二次5000万
日本は第一次大戦で大きな犠牲をはらっていない
→二次大戦に比べ研究が著しく少ない
考究不足の代償=二次大戦の犠牲
普仏戦争の頃、日本は明治維新の直後
大村益二郎→フランス式に統一しようとするが襲撃され死去
山県有朋、西郷従道→プロイセン式軍制を推進
フランス式に慣れた者が多く、ドイツ語を話せる者が少ないため
ゆくゆくドイツ式に改める方針
1885 陸軍大学校長にクレメンス・メッケルを招聘
→応用力に欠けており、ドイツ軍の欠点がそのまま継承される
日露戦争で攻撃優位の原則に固執→甚大な被害
普仏戦争の考究で「攻撃必ずしも優位ならず」を学べたはず
原因
《エムス電報事件》
1870 フランスに政変、皇帝(ナポレオン三世)の権力弱体化
→腹心の首相ルエルを更迭、野党のエミール・オリヴィエを重用
→国民投票で政治基盤強化、積極的外交
スペイン継承問題が浮上
1868 議会でイザベラ女王の追放決議→パリに亡命
1870 退位に同意、スペイン王座は空位に
→女王の息子の即位を実質的支配者プリム将軍が認めず
→プリム将軍はレオポルト大公を選ぶ
↑プロイセン王族の傍系
→強大な国家に挟まれるためフランスは強硬に反対
07.12 プロイセン王に促され、レオポルト大公は辞退
→フランス皇后ユジェニーは将来も一族を就けないよう要求
07.13 フランスのベルリン大使がエムスでプロイセン王と会見、要求通る
→プロイセン王は宰相ビスマルクに会見内容を伝える
→ビスマルクが改竄して電報を公表
→フランスの傲慢さに開戦を求める
フランス…07.15宣戦布告、07.19プロイセンに通告
→プロイセンが宣戦布告を返す 開戦は08.04
フランス…楽観的、兵力・物資不足、杜撰な作戦計画
過去の栄光に酔いしれ、輸送や武器の発達に対応していない
海軍はプロイセンを海上封鎖、物資獲得を防ぐ
皇帝の参戦で混乱を招く
ドイツ…兵力・練度は潤沢、綿密な輸送計画
フランスより1日遅く動員、1日早く配置に着く
速やかなパリの包囲が目標
あちこちでの戦いでほぼドイツが勝利
→皇帝から直接降伏の親書、停戦
→降伏の条件について交渉
皇帝が退位後の新政府は今結ぶ条約を無視し、革命派との対立が予見
→武器の即時放棄、全軍の捕虜を求める
→皇帝が交渉に望むも事態は変わらず、条約締結
捕虜84,000名、大砲600門譲渡 フランスの死傷者20,000名
皇帝の廃位→皇后はイギリスへ亡命→暴力をほとんど伴わない革命の達成
共和制の宣言、国防政府の樹立→組織も意思も脆弱
降伏文書の調印の日、ドイツはパリへ進撃
09.19 戦闘開始→フランス撤退、パリは外界から遮断
ドイツの究極目標
→フランスにドイツの統一国家建設への干渉を断念させる
→中途半端な形で戦争を終わらせられない
と中途半端にまとめましたが、発送期限が迫っているのであとはざっくりと。
フランスはなんとか賠償金をつくる。
アルザス=ロレーヌ地方を奪われた恨みは大きい。
プロイセンの王と宰相がドイツ第二帝国の皇帝、宰相
ドイツは二正面の国に備えなければならない
フランス的には王朝戦争、ドイツ的には国民戦争
パリでの籠城戦がドラマティックに書かれているかと思いきや全然そんなことはありませんでした。
予備知識がないので、人名なのか地名なのか、フランス側かプロイセン側かもわからず読むのに難儀しました。
開戦までの経緯を見ると、戦争したくなくてもしないといけなくなることもあって恐ろしくなります。
民衆に乗せられた感もあるのに、いざ負けるとまた民衆に責められるという…。
戦争が戦争を呼ぶというのもわかります。
こてんぱんにやられたからこそ今の日本があるのかも…。