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部屋とYシャツとわらG

部屋とYシャツとわらG

大人の話

 どちらかというと「楽しかった、のほほん系」の思い出は「6」までで終わりで、ここからは「現実の大変さ」や「職場環境へのグチ」や「校長との戦い」の話が増えそうである(だから匿名にしたのだが)。

 自分にとって良かったような悪かったような出来事がその年の6月頃にあった。学年の他のクラスの先生が短期入院することになり、私はそこに応援に入った。重度重複学級だったので、2人の先生で3人を見ていたのだが、その一人の子はそれまで見るかぎりでも相当大変そうであった。スクールバスを降りた時に2日に1回はすでにうんちのおみやげ付き…、自分でトイレに行ける時もあるが思い通りにならないとわざとその場で大小便(わざべん)、パニックの時の自傷、さらにパニック時の他害(ツメで思いっきりひっかく)、担任の年配男性の顔や首の傷がその大変さを物語っていた…。

 それまではあまり彼との関わりがなかったのだが、日常接するようになって、彼のがんばる面やおだやかに甘えている時の笑顔などいろいろないい所が見えてきた。そうした中に身を置いていられる時は「ゆるゆるの空気」でお互いにとても居心地いいのだが、「突然の不機嫌」によって自傷や他害のパニックが始まってしまうのである…。どうしても理由が見つからない時が多いので、多分1時間前くらいのことを思い出して怒りがわいてくるのか、あるいはもっと昔の記憶がよみがえるフラッシュバック的なものなのか、いずれにしても「突然の悪夢」なのである。

 彼のパニックは、床や壁にとにかく激しく頭をぶつける。ヘッドギアはつけていない。本人の安全のためにもこちらは必死で止める。しかし、同時に彼はまわりの人を無差別にひっかく(ツメで横に切り裂く)という状況になるのだ。だから彼のパニックを止める時、大人が2名必要になる。1名が頭の下にももを入れて頭を持ち、もう1名が上から手足を押さえる。ところが1名しかいない時、または手が離せない時もある…それが担任の傷の理由だったのである。

 そしてその日、ついに彼と私が1対1の時にパニックが起こったのである。ちょうど床も固い教室の時。

 …ちなみに私は、いばって言うことではないのだが「自分を犠牲にしてまで誰かを助けるような人間ではない」のである。それまでも、中学校で3年生の担任の時に、最後までグレっぱなしの子があれば、指導は仕事として最後までやるけれど、「どうしてもバイクをやめないヤツ」とかには「もう死んでよし」と本当に怒りながらもあきらめているのである。で、まわりの先生とかにも本当にそう言ってしまうのだが、当の本人には卒業式とかでなぜか勘違いされて、「先生が最後まであきらめずに俺のことを心配してくれた」とか言われ、つい「うむ」とか言ってしまう男なのである。なので自分のせこい所というか、あくどい所は、自分では重々承知なのだ…。

 しかし、その時、私は自分としては驚くべき行動に出た。彼の頭を必死で守り、激しい攻撃を受けながらも頭を上から抱きかかえ、大声で「誰か手伝ってー」と必死で呼んでいたのだ。そうは言っても無防備ではなく、ツメを必死でよけたり、自分の頭をぐりぐり押しつけたり…とかいろいろな攻撃はしてしまう(笑)のだが、全体的に「何としても彼の頭を打ちつけさせない」という必死の姿だったのだ。数分後に他の先生が来てくれた頃にはもうほとんどおさまっていた。

 なぜこの事件が私にとってよかったかというと「俺って結構いいヤツだ」ということを知ったからである(笑)。いざというときにそういう行動がとれたということは、今後の教員生活において、「まあまあ自分に安心できるな…」と思ったのである。(でもこれは普通は「最低限」のような気もするが)

 ではなぜこの事件が私にとって悪かったかというと、年をとると傷の治りが悪くなる。目の下とかちょっと「ハク」がつくような場所の傷あとはもう治ったのだが、鼻の下の、一見、鼻毛とまちがわれそうな位置にある一本の傷あとは2年たった今でもうっすらと残っているのである。
 これ鼻毛じゃないって!

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 今回は養護学校のシステムというか構造上の問題点(大げさすぎ!)についてのまじめな話。そうはいっても、たまたま私の行った所は…ということなので、他の養護学校の方からの「そんなことはない」という声には一切耳を傾けませんのでご了承を!でも、もしかしたらあい通ずる部分があるかも…。

 先生達一人ひとりの資質…ということについては、基本的に「いい人」が多い。やはりこの世界を最初から目標にした人は志が高いし、普通学級から来る人も生徒の優しさにいやされて?新たながんばりをしていたり、他の校種で受けたのにここに来たという若手も鍛えられながらがんばる…と精神的な面ではなんとなく「優しい空気」があると思う。で、一人ひとりの優しさがあるからそれでいいかというと、逆に「暴走する人を止められない」という感があったのだ。

 学校も組織である以上は、ある程度それぞれの意志をいかしながらも、みんなで同じ方向を見ていないと「学校」として機能しなくなる。たとえば荒れた中学校とかの教員(私はその生活が一番長いのだが)達は、せっぱつまった極限状態ではそれぞれの思惑を超えてよく団結するのだ。それは「みんなの安全を守る」とか「授業の成立だけは絶対ゆずらない」とか「給食のデザートだけは盗ませない(笑)」とか、何か同じ目標に向かってそれぞれのやり方で取り組んでいることがお互いにわかるからである。で、その時のリーダーは、学年主任とか生活指導主任とか立場のある人の時もあれば、そうでない人でも「緊急時に強い人」とか「粘り強い人」とかいろいろな人が活躍する。

 養護学校で暴走する人というのは、別に悪いと決めつけられるわけでなく、それが正しいのかどうかまわりにもよくわからないのである…。私の不勉強というだけでなく、1年間最後まで誰のやり方が正しいのか、はっきりとはわからなかった。というのも、中学校だったら本人や保護者から直接フィードバックされるような評価の声が、養護学校では、他のクラスの担任には聞こえてこないのである。はっきりとした苦情とかは、直接管理職とかにいったり、問題にされるけど、「これがうまくいっている例です」というのがとてもわかりにくかった。(もちろんわからないなりに「あの人のやり方いいなあ」とかくらいはありますよ!)

 で、さっきの話でいうと、暴走している人というのは「自分のやり方だけが正しい」と思っている人なので自分の方法をみんなにやらせるようにがんばってしまう。私が思うには、いろいろな方法論があって、その中から「目の前の子にあった有効なやり方を探しながらやれればいい」と思うのだが、どうもそうはいかないらしい。「同じ方向を見すえて、それぞれのやり方で取り組む」先ほどの荒れた中学校の団結の話とは逆に、「同じやり方でやろう(やらせよう)としてそれぞれが違う方向に行ってしまっている」気がしたのだ。

 あっ、ちなみに私のいた所で一番暴走していたのは学校長なんですが…。

 で、そういう時にみなさん「いい人」だから結構それを受け入れてしまう…文句は聞こえてくるんだけどなかなか向こうには伝えてないらしい。私は駈け出しで、自分の考えが合っているどうかもわからないし、新参者が言っても説得力もないので言わないのだが、「立場の強い人」「はっきりものを言う人」の意見が支配的になっていて…変な方向(正しいのかもしれないけど?)に行っていたのだ。

 必要なのは、普通の?先生達での「話し合い」だと思うのだが、その時間・タイミングが実にない。休み時間に職員室で顔を合わせる…ということがないので、生徒がいる8時~3時半はまずゆっくり話せない。その後も正式な会議(指令伝達)とかがあったり、書類書き(提出書類ばかりどんどん増える)にみんなが追われていて話せない…。で、私のような家が遠い人はとっとと帰ってしまう(すみません)ので、大事なことで意思の疎通を図る場面がなかなかなかったなあと思うのである。

 そんな中、それぞれが工夫してよくがんばっているなあ…と思う。だからこそ、東京都?の話のような、「議員?が介入してきて、歴史ある性教育にいちゃもんをつけて教具も教員も処分した」とかいう話を聞くと、そういう圧力に押された時、どれだけの学校が踏ん張れるのかなあ…と不安に思うのである。

 じゃあ、どういうシステムにすればいいか…すみません、わかりません。少なくとも、「主任」みたいな人はみんなで投票とかすると少しは違うかもしれない。最近は管理職が決める…というのが普通になってきているようだ。すると、「あの人は…」という人が偉くなって困っている学校は多いに違いないのだ。

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 今までの文章の流れからや、フリーページを見て気づいた方もいるかと思うのだが、実は私は養護学校の教諭を「1年」でやめている! その後の暮らしは、講師として教育界に残りながら、障碍児教育にもまた違う関わり方をする(この辺の話はまたいずれ)…ことで成り立っているので、収入減のこと以外はまったくもって後悔はない。でも他の人からは、「このご時世に公務員を辞めるか普通…」と言われるので、やめる(というか転職する)と決意するに至った理由(たくさんあって複合している)を少しずつ整理しようと思うのである。というか、だんだん自分でも忘れそうなので、もともとこのことを「今のうちに書かなければ」と思って始めたブログなのである。

1、家でも職場でも似たタイプの子(ほとんどの子が自閉症)にばかり接していて、煮詰まってしまった。一日中、コミュニケーションとろうとがんばってもなかなかうまくいかないことで、家でわが子に接するパワーがもう残らない。またどのことが自分の子のことだったかわからなくなってしまった。(○○ができた…と思ったらあれは○君だったとの勘違い…。)そのことで自分の方が混乱していたのだ(4月からずっと)。これは、同じ子達とさらに関わって慣れていくか、違うタイプのクラスに変わることでも解決するのだが、学年を持ち上がらせてもらえず、翌年も新入生の「主に自閉症の子を集めた学級」を担当するように内示(これは3月)が出てしまった。

2、とにかく通勤の片道2時間25分がつらかった。朝は5時おき。もうそれだけで、家に帰った時にはぼろぼろ…。それなのに仕事そのものは大してやれていない悔しさや後ろめたさがあった(4月からずっと)。せめて1時間近い養護学校に変わりたいと思ったが、異動そのものが校長にも教育委員会にも聞き入れられなかった(12月)。通勤時間に本でも読めば…と言う人もいるが、乗り換えもあり、座れない時が多く、まさに「痛勤」だった。酔ってもないのに、ボーッとして乗り換え忘れるようなこともしばしば…だったので自分でもやばいと思い始めた。

3、自分の特性として、広く浅く(これは本当は深いほうがいいのだが)全体を見渡したり、しゃべってなんぼで口達者だったり、初対面の人にめっぽう強かったり、ツッパリ系の人と波長があったり、いざとなればドスをきかした方言でハッタリが効いたり、持ち味を生かすにはやっぱり中学校の普通学級だったんだ…という思いが強くなってしまった。もちろん、目の前の養護学校の生徒はかわいいし、そのことで手を抜いたことはないつもりだが、「ここにいる自分が自分らしくない」事に気がつくと、「将来的には絶対に中学校にもどろう」と思い始めた(5月)。ところが、教科まで同じ状況の先生で、3年たってからもどろうとしたのに、ダメだった人が出た。いい仕事をすれば必要だから出してもらいにくくなるし、校長と仲が悪くても嫌がらせで出してもらえないし、「こういう風にすれば、いついつにこういう結果が出る」というのがわからない、そんな中で我慢をするのがいやになった(3月)。

4、1年後に子どもの就学を控えており、フルタイムで共働きの妻と、「いずれは祖父母に送り迎えも頼れなくなるから、どっちかが身動きとりやすくするようだね」という会話があった。その時は「車の免許のある俺が…」となった(もちろん「この時すぐ…」という話ではなかったはずだけれども)。

5、敷地内禁煙が翌年からおこなわれることになった。中学校勤務の頃から、「たばこも校内で吸えなくなったらその時は仕事やめる」と公言していた。「生徒は吸ってるのにずるい!」と…。これも引き金のひとつ。でも今年4月からは、本人が禁煙にほぼ成功しています。

 そんなこともあり(まだ後日追加しそうですが)、「とにかく1年は意地でもがんばる」と指折り数えながらがんばったのだ!

 人から見ると「たった1年で投げ出した」と思うかもしれないが、自分の中では「遠い目標までがんばることができた」のである。

 そして多くの人は「なんだか養護学校に行って変な校長のせいで仕事やめちゃって…」と同情?したり、「よく考えずにすぐに行動してしまうからそうなる、悪い癖だ」とあきれたり怒ったり?するのだが、本人は「養護学校に行っててよかったー。正解だったー。」と思っているのだ。

 「行ってよかったー」ということについては次回以降に。

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 「行って良かったー」の話を後日回しにして、先に一番のもめ事…校長の事を暴露。今回は特に長いです。

 彼はすごい人だった。切れ者で悪人。よく「あいつが死ねば…」なんて人は本心でなく言うが、当時の私は久々に「ヤツが死んだら俺は本気で喜ぶだろうなあ」と思える敵に出会ったのだ。先輩教師曰く、「今あの人が夜道で殺されたりしたら、『みんな動機がある』ってことで捜査は難航するだろうなあ」 そういう人だった。外部に対しては、やり手で温かい校長を演じているのだが、内部では教師にも生徒にも愛情がないのだ。ある日、うちのクラスの跳びはねる男の子が廊下でニコニコしながらちょっとぶつかってしまったのだが、笑ったり優しく注意するどころか、汚いものでも見るかのような顔でにらみ、背広を手で払っていた。この一事で彼のすべてを見切って、そして対立の日々が始まった。

 とはいえ、日頃は接することはない。校長室にこもりっきりなのである。若い女性のお客さんとかが来ると積極的に学校案内とかするのだが(これは気持ちはわかる)、そうでもないとまず会わない。だから直接の戦いは「面接」の時だけなのである。

 5月…普通は「もう慣れたかい」「はい、がんばっていますがまだまだ」とかそういう面接の時期なのだが、すでにこの頃、私は先の「1年間だけがんばる」という気になってしまっていた。100人超の学校で面接の時間も少ないし、丸めこまれては大変…と自分の気持ちを書類にまとめて前もって出しておいた。どうもこういうのがお嫌いらしい(笑)。いきなり「あなたは何を考えているんだ」と叱られ、お説教。「やる気がないとかそう決めつけないでくれ、私はこの1年間限定だけど本気にやるんだ」とていねいに気持ちを伝えようと試みたが、まったくお話にならなかった。

 10月…遠距離通勤を理由にした転勤を希望するむねを調査票に書いておいた。いきなり中学校にもどる…という無茶はあきらめて、とにかく近い所に…と教育委員会の基準にのっとって他の養護学校を希望した。「あなたはわがまま」「とんだ期待はずれ」「人としておかしい」「あなたみたいな人はどこいってもいい仕事なんかできない」などと言われながらも、ていねいな敬語で文句を言い返した。10分の持ち時間を20分くらいオーバーして、最後には「はいはい、わかりました。教育委員会には異動希望の書類を出します。その代わり、校長の意見を『この人はわがままな人です』とつけます」

 12月…朝から呼ばれて校長室へ。なんだかうれしそう。「教育委員会から審査会の返事が来ました。あなたの希望は認められませんでした。3年いないのはわがままってことでしょう。やっぱり私の言うとおり」とご機嫌で伝えてくれた。まあ、ここで「すまないねえ、力になれなくて…」というような普通の人ならがんばろうという気にもなったかもしれないが、ある意味、私が感謝しているのは「こんな対応」だったからこそ「さあ、私立の講師を探そう!」とふんぎりがついたのである。
「早めに教えていただいてありがとうございます。これで気持ちの切り替えやいろいろな準備ができます」という私のことばを完全に都合よく解釈して、「そうそう自分の仕事に気持ち切り替えてはげみなさい」みたいなことを言っていた。

 3月…来年度のことを話し合う面接で、教頭に「3月末でやめます」と伝えると、意外にもあの教頭が慰留しようとしてくれていた。そして、翌日、朝から校長室に呼ばれた。開口一番、「遅い。一ヶ月前に言うのが普通だ。社会人の常識がない」といきなり真っ赤になって怒っている。怒ったら気持ちが変わるとでも思っているのだろうか…。

 さんざん言わせた後でやっと逆襲の時間。「人が人生の一大事の結論を出したことへの第一声が『遅い』ですか? まずは『どうしてなんだ』とかいうべきことがあるんじゃないんですか。あなたは『障害児と障害児の保護者のことを第一に考えています』と宣伝するけど、一度でも障碍児の親である私のプライベートのことの訴えを本気で聞きましたか?職員だと同じ親でも違う存在になるんですか?」とはじまり、すべてていねいな敬語でののしった(笑)。

 そのうち向こうがカッとしてけんか腰になるのを待ち、汚いことばを言わせた後で、私はドスをきかせて 「そういう言い方やめようや、ケンカになるよ」と低くひとこと。ついに主導権を握った。

 「私もニホンジヘイショウキョウカイの一員です」が効いたのか、自分の悪口を後々言われないように保身に走ったのか、なんだかその後は急に優しくなった。「私にもあなたの悩みに気づいてあげられなかった落ち度があった」とか少し謝り(ちゃんとは謝らない)ながらも「今後、新しい学校から身分照会とかがこっちに来ることもある」とかわざと言って、和解を促し「自分の悪口を口止めしている」その姿がちょっと情けなく、強敵だったはずが…その後の戦いは盛り上がらなかった。

 その後の展開は猛スピードで、私の代わりに、新規採用ではなくベテラン教員をとるために、「あなたの退職願は2月28日に出たことにするから」とか言って、あわてて書類を準備してくれて、その日の10時くらいには見事に手続きが終わっていた(はええよ)。退職理由を書く欄があって、「ここにある例から選ばないといろいろ審査されて退職金とかの支給が遅れる」と言われて、「家族の介護のため」とかを選んだ。

 今思えば、「校長も教育委員会もいやになったから、さようなら」くらい書くべきだったのに、「すっきり」していてつい気分良くサインしてしまった。
「フロントがアホやから教育がでけへん」みたいな名言を書くべきであった。 
 残念!

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 なんだか傷ついて(笑)やめてしまったかのようだが、「行ってよかったー」とその頃以上に今は思っているのである。 (ただし、行っていた当時は、家で妙に怒りっぽかったり、ちょっと自信喪失気味だったり、職場でもあまり元気がなかったり、友人へのギャグがさえなかったり、体重が8kg落ちたり…これ以上続くとやばそう…と追い込まれていたのだ)

 ではそんな思いもしたけど行ってよかった理由をいくつか。

1、いろいろな情報が集まってきた。食傷気味!?になるくらい校内研修もあったし、自閉症関係の専門家の名前をたくさん耳にしたり一部の人に会えたり、それぞれの生徒の利用するレスパイト先とか療育団体とかいろいろなものの存在がわかった。また卒業後の進路の話題から、一般就労・福祉作業所とか成人後の様子も少しわかった。また、いろんな先生の教材をたくさん見たことで、どんなものが必要か、自作の時のためのヒントをもらったり、プリント類やカード類の資料も多少手に入った。

2、クラスの保護者との交流で、障碍児の親としての生き方・生きざまを見せてもらった。結構変わった人がいて困ってる担任の姿も校内の他クラスでは見たが、私のクラスの保護者は本当にいい方々だったし、こちらも本音で接することができた。それぞれタイプは違うのだが「母は強し」の感があり、いろいろな組織(療育施設とか学童的なものとか)をうまく使いながら、子どもに人生のすべてを捧げるのではなく、「自分も豊かに生きよう」とする姿があった(そうは言っても一般的な親と比べれば相当捧げてるのだろうが)。なんていうか、あの姿に「俺も自分のやるべきことをやらなければ」という気にさせられた。

3、実際にいろいろな生徒の様子を見て、その指導を体験できたことがよかった。たとえば「自閉症だから」「ダウン症だから」とひとくくりにできないくらいにそれぞれのケースがあり、しかもそれをただ見学したのではなく、一緒に過ごして仲良くなることで彼らの楽しさを自然体で理解できたことがうれしかった。でも逆にそれぞれの障碍に共通するようなことも必ずありそれを具体的な事例から学べた。さらに、生徒達が「がんばってもいるけど、手を抜いてもいる、私たちと同じ」ということにも安心した。よく「自閉症児は嘘つかない」とか本には書いてあるが、とんでもはっぷんあるいてごふん、毎日、脱走したくなると「トイレ」と言って教室を出て、トイレから出ると反対方向に逃げる子がいた(ちなみに私はさらにその先に隠れていて「わっ」とおどかして連れ帰るのだった)。

4、「待つこと」の大切さを知った。待たなければ自分でできるチャンスを奪ってしまう。可能な限り待ち続けたり、最小限の支援だけしたり、スモールステップでちょっとずつ成長したり…教育の原点はここにある…と言われるのがよくわかった。それまでの自分がいかに人を「急がせていた」のか、とても反省した。養護学校から普通学級に来た先生で「何とも言えぬ良さ」を持っている人を何度か見ていたのだが、このあたりを知っているか知らないか…が教師としてのふところの深さになっているのかもしれない(ちなみに私も以前よりは待て始めた。でもやはりいまだにやや短気…)。

 自分はやめといて言うのも何だが、「教員になる人は必ず養護学校か特学で一定期間学ぶべし」とかすべきだと思った。(インターンシップみたいにできないのかなあ。養護学校は人手不足だし助かるはずだが。) 私の経験から、最初の勤務地でとして行くのがお薦めである…。


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