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しげぞーの他人には厳しく

反戦運動に思うこと 2003/3/25

反戦運動に思うこと 2003年3月25日(火)

 批判を承知で書く。
 ヒューマンシールドでイラクへ向かう若者がいる。確かに何もしない者よりはマシなのかもしれない。しかし「絶対に戦争を止めてきます!」と大きな声で宣言し、手を振って搭乗口へ消えていく若者を見ると何やら複雑な気持ちになった。
 人間の盾がどれくらい有効なのだろうか。盾がないよりはあったほうが確かに攻撃はしづらくなるかもしれない。しかし絶対的な抑止力にはなり得ないのである。まずこれはという施設に配置されるにしても、そんな施設はフセイン後の復興を考えれば米英も攻撃したくはないであろうし、またそんなことには形振り構ってはいられないような事態ともなれば、おそらく多少躊躇はしても攻撃はするのである。しかもそんな事態ともなれば、何かあっても彼らの安否情報さえ満足に把握できない状況になっていることも容易に想像がつく。
 ヒューマンシールドは、何より彼らを犠牲にした場合の世論の高まりを頼りにしているものであり、それゆえ状況によっては、もし彼らが死んでも、思ったほどの意味をなさなくなることも十分あり得るのである。
 私が何よりも不思議なのは「絶対に戦争を止めてきます」と自信満々にアピールする姿勢なのである。「自分一人の力ではたいして何も出来ないことはわかっているが、そうアピールすることで、一人でも多くの人に同じ思いを持って貰いたい。」との気持ちから、そんなところを見せているのなら、わからないでもない。いや、そうなのだと思いたい。

 人の気持ちとはときに純粋でもあり、ときに嫌らしくもあるのである。
 自らヒューマンシールドになろうかという人の気持ちは純粋なものなのだろう。しかし様々な理由からそんな行動を醒めた目で見る人も多いことは事実なのである。同じように人間の盾を志願したとしても、その言動次第では支持も随分変わってくることは否定できまい。

 今回のイラク攻撃をしているアメリカやイギリスの国民にしてもそうだ。ブッシュは「イラクの石油はイラクの国民のために使われるべきものである。」とアピールし、フセイン後の枠組を国連主導で行なうことにも、必ずしも否定的な見解を示してはいないが、アメリカやイギリスの人々の中には「私たちが中心となり、これだけの犠牲を出し、イラク解放を成し遂げたのだから、少なくとも私たちが主導権を握る権利があり、犠牲に見合うだけの見返りがあっても良いのではないか」と考える人が出てきても不思議ではない。いや寧ろそれが自然なのかもしれない。しかもそんな人たちの頭の中には、すでにルール違反を犯したという認識はなくなっている。人間とはそういったものなのである。

 戦争が行われているのに、普段通りの生活を送り、これはといった行動を起こさないことに後ろめたさのようなものを感じる人もいるに違いない。例えば仕事を持っている人間が仕事を辞めて、ヒューマンシールドに名乗り出ることは凄いことだとの思いもあれば、今の私には到底真似が出来ないことだとも思う。しかし常に自分の出来る範囲で出来ることをコンスタントにするという姿勢が大事なのだと私は考えたい。
 考えてもみてほしい。誰もが自分の持ち場を離れて、反対運動に没頭できるわけもない。そんなことは現実問題として不可能であり、そんなことをすれば社会の機能は麻痺してしまうことにもなる。
 皆がそれぞれ自分の出来る範囲で頑張れば良いのである。日本政府がアメリカに対し、イラク攻撃反対を唱えることが出来ないのは、何も小泉氏や自民党が悪いのではない。過去50年の国民の姿勢が、また意思表示が、日本をそんな国にしてしまっているのである。
 戦争の悲惨さはわかりやすい形で示されるため、物議を醸すが、日本の背負っている借金や経済状況を考えれば、似たような問題はすでに国内でも起きている。例えばここ数年自殺者は年間3万人を超えたところで推移しているが、そのうち経済的な理由によることがわかっているのは7000人弱。社会的に弱い立場にいる人がこれだけ犠牲になっているのである。死なないまでも人間らしい生活を送れなくなっている人に至っては凄い数字になるだろう。
 戦争に反対することも当然大事なことではある。しかしもっと身近で起きていることに無関心でいると言われても仕方がない人が多い現状では、複雑な思いを持たざるを得ないのである。



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