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最近のニュースを見ていると、なぜか森鴎外の【高瀬舟】を思い出す。
我が劇団の公演“モノドラマ”でもよく上演される作品のひとつ。 モノドラマとは、我が国の近代小説を題材とし、一人の俳優が語り手や、主人公、またそのほかの人物となり、小説の世界を舞台に立ち上げるもの。 舞台装置も非常にシンプルで、そこに現れるのは、文学そのものであり、役者のフィルターを通して観客が観る、想像力により換起された世界。 劇団員は、モノドラマを1作品以上演じたことがあって、私は“芥川龍之介「白」”“志賀直哉「小僧の神様」”をやった…。 このモノドラマが私は大好きで、演劇の神髄と思っております。 話しを「高瀬舟」に戻して… 「高瀬舟」は、私が初めて観たモノドラマでもあり、モノドラマの中でも非常に好きな作品です。 京都の罪人を遠島に送るため高瀬川を下る舟に乗った、弟を殺したという喜助。護送役の同心である羽田庄兵衛は、いつもの罪人とは異なりどこか晴れやかな顔をしている喜助を不審に思い、理由を尋ねる。 …舟の盧の軋む音の中、喜助によって語られるその理由は、安楽死と人の欲望について考えさせられる。 小説に “人は身に病があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食って行かれたらと思う。萬一の時に備へる蓄がないと、少しでも蓄があつたらと思う。蓄があっても、又その蓄がもっと多かったらと思う。この如くに先から先へと考えて見れば、人はどこまで往って踏み止まることが出来るものやら分からない。” という文章がある。 安楽死についても考えさせられるが、働いたお金は右から左で、決まったお金を持てなかった喜助が語る言葉に“足るを知る”ことの大切さを感じる。 今の世にとって、重みのある話だよなぁ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
June 12, 2012 11:01:09 PM
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