A to Z of SCI

2007/12/07(金)11:42

皆が勝者になれる世界のはずなのに

学校の成績表は5段階評価でした。センター試験が共通一次試験と呼ばれていた頃に大学入試を経験しました。競争社会であり椅子取りゲームでした。そこには、勝者と敗者がいました。 脊髄損傷からのリハビリは、自分自身との勝負です。 歩けなかった自分が歩けるようになれば自分の勝ち、リハビリを諦めていた自分がリハビリを始める気になれば自分の勝ち、死にたいと考えていた自分がもう少し生きていようと思えれば自分の勝ち。 周りが勝者だらけになっても、勝者の椅子の定員はありませんから、自分も勝者になれます。 損傷、障害、残存機能が全く違う他人と上達ぶりを比較しても意味がありません。 へっぽこ院長さんが"自分は知りたいのに、人には教えたくない、自分より良くなるのを良しとしない浅ましい心"と書いておられました。"知りたいのに教えたくない"という心理はわからないでもありません。でも、そうは言っても、へっぽこ院長さんのように"鍛錬に関する知識と知恵を共有する場"を公開するセキソンもいます。彼らの情報は悩める者にとって有意義なはずです。 ただ、個人の意見や体験は誰かに伝えようとしてもなかなか理解してもらえません。お互いの言語感覚にも身体感覚にもずれがあるからです。 "妙の字は若き女の乱れ髪とくにとかれずゆうにゆわれず"という歌があって、武術の妙味というものは説くことも言うこともできないと詠まれています。これが秘密主義を指しているのか技術的困難を指しているのかは不明ですが、後者であると考えたいところです。 ところで、隣国同士のように人種や文化が似通っている近しい者が憎み合うことがあります。兄弟喧嘩くらいで済めばご愛敬ですが、戦争になることもあります。 自分と似た境遇にある存在のことは大体わかります。そんな相手の抱える自分と同じ条件には興味はありません。自分と異なる条件に引きつけられます。たとえ小さな差異であっても気になります。それが人間の性だと思います。 私の場合、高位頸椎損傷者と同席したとき、お互いの痛みもきつさもわかりますからそこは興味の対象ではありません。微妙に違う肉体的条件に目が向きます。大きく異なる社会的条件が気になります。そしてそれはお互い様のはずです。 条件の違う存在が一緒になったとき、条件的に恵まれている方もそうでない方も、お互いの心の中で有害な化学反応が起きることがあります。外から見えないからといって問題が小さいとは限りません。 「混ぜるな危険」という言葉がいつも思い浮かびます。

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