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ぷらいべーと・たいむ

ぷらいべーと・たいむ

過去日記(99’ 11月~00’ 6月)

 

11月14日(日)


久しぶりに飲んだ。明け方まで飲んだ。S君とモリッチとともに。
結局、一限目行けなかったけど、でも、飲めてよかった、楽しかった。
飲みたいときに飲まなきゃ、きっともう、飲めなくなる。
ちょっと前の劇団って、練習中は飲んじゃいけないみたいな雰囲気あったから、
今、ほんとに飲みにいってもいいのかなーって、演出のS君に気をつかってる部分があった。
今までS君が飲みたいそぶりみせても、「ほんとにいいの?」ってかんじがあった。
わたし自身は飲むの好きだし「行くんだったら行くよー、」とは言ってたけど、
でも、「行くんだったら行くけど」じゃー、飲みには行けないよね。
そういうとこでへんに気を使うから、わたしたち同期はうまくいかないのかもしれない。
そういう時に、もっと盛り上げて「飲みに行こうぜ!」っていえたらな。
微妙な距離感でなりたってる私達だけど、でも、私にとって大学時代の仲間とよべるのは、
やっぱ、この劇団のメンバーだから、今を大切に、自分から、もっと。

 


 

11月17日(水)


ストパをあてて、髪を切った。すっきりした。
母から手紙がきた。これで、4通目。
手紙の最初には、No Letter No Telephone と書かれてた。
そう、私は返事をずっとだしてない。逃げてるのだろうか。もう何も考えず消えてなくなりたい。
心が苦しくて、バイトからの帰り道、涙が出てきた。

 


 

11月19日(金)

生まれて初めて流れ星を見た。流星群。
スタジオの前の道にみんなで寝っころがってみた。
降ってくるたびに、感動してみんなで「すげー」って言ってたので願い事なんてする暇なかったけど、けっこう大きくて感動。

 

 


 

11月20日(土)

またコンタクトがなくなった。買ったばかりなのになくなった。また左目がなくなった。
なんか、呪われてるわ。また最近ダメ人間になってきてる。もうイヤダ―。
メールを見るの、しばらくやめて、ちゃんと動こう。気持ち切り替えて頑張ろう。

 

 


 

11月21日(日)

コンタクト見つかった。失ったショックが大きかっただけにうれしかった。
母からTELがきた。思いきってとってみた。懐かしい声だった。
相変わらず私がいつかきっと自分の誤りに気付いてJWに戻ってきてくれると信じてるお母さん。
真理はこれしかない、いつか明らかになる日がくると信じてるお母さん…。
あなたとの距離はたぶん一生埋まらないけど、お互い気遣い合ってることは真実。
私やっぱ、お母さんの事好きだよ。あなたがJWであろうとなかろうと。
あなたって、憎めない人だね。ほんとに。お元気で。

S君の家に行った。わたし、どうすればいいんだろう。どうしたいんだろう。ちょっと戸惑ってる…。
私には今彼氏も好きな人も誰も居ないけど,同期の仲間として、演出の力になりたいとしか思ってなかったから…。
なんだかなー。今でも正直いって、君を傷つけたくないっていう思いくらいしかないからなー。いっぱいいっぱいそうやし・・・。
まーねー、公演中のこういう時やからねー。お互いね、一番近くにいる人やしね。
どーなるんやろねー、これから。
どーするんやろねー、わたし、これから。

別に昔のことにこだわってたわけじゃないけど、あいつにやられた後遺症はだいぶとれたんだなと思った。
恐怖感が消えたみたい。あの時の事、ぜんぜん蘇ってこなかった。S君が暖かくてやさしかったせいかもしれない。
でも、やっぱ、身体は固まる。これはもう、しょうがないよね。悪いけど、もう身体に染みついちゃって取れないから。
でも、S君なら…、と思った。うーん、フクザツなんだな、またこれが。うちって軽いの?

 


 

11月22日(月)

すべてのものが愛おしく思える。ココロがホカホカ。穏やかでしあわせな気持ち。
誰に対してもやさしくなれる、そんな気持ち。自然と笑みがこぼれてくる。人を好きになるってそういうこと。

 


 

11月23日(火)

気が付いてても無視してしまう。顔色覗いのくせに、表情を見るのが怖かったりする。だから、気がついても気付かないふり。
・・・なんでだろう。あいつの顔色をいつも覗ってきたせいかもしれないけど、いつまでもそういうせいにしててもね。
恥ずかしいのか、見栄なのかもよく分らないけど、いい加減この癖直そー。誰かを傷つけてそう。

 


 

11月28日(日) 

母からの宅急便が届いた。私の好きな御菓子がいっぱい入っていた。
「ありがとう。」そう伝えるために母に電話した。
そしたら、昨日、おばちゃんに、「あなたは娘に何もしてやってない。あの子本当かわいそうだよ。だから、実家に帰ってこないんだ。
お金ももうちょっと援助してやればいいのに」
とかなり批判されたそうだ。
「夏、おばちゃんにいろいろしゃべったんでしょ?」そんなことを、母は言った。

・・・そうだね。夏におばちゃんが遊びに来た時、私がいろいろしゃべってしまったせいかもしれない。
エホバの証人の母に対する私の思いとかも、ちょっとこぼしてしまったから…。
きっと、おばちゃんは、おばちゃんなりの価値観から私の言葉を捉えたので、かわいそうと捉えたのだろう。
あまり話すべきじゃなかったことなのかもしれない。私の言葉はおばちゃんには届いてなかった。

「私、今の生活にはホント満足してるんだよ。おばちゃんからみたら、貧しい生活かもしれないけど、
私はきっとこの生活があってるし、楽しいし満足してるんだよ。友達も金ないやつ多いし。私の気持ち、母さんには伝わってるよね?
おばちゃんは、おばちゃんなりの子育ての仕方でやすお兄ちゃんを育ててきた。物もいっぱい与えて。
でも、私はその育てられ方の方がよかったなんては、全然思わない。
私の家族は、いろいろあったけど、でも、こう育っててもらったからこそ、今の私があるんだよ。
わたし、今、それなりに幸せなんだよ。そりゃー、私とあなたの価値観は全く違うので、分かり合える事は一生ないかもしれない。
でも、私はあなたのことを愛してるしそのことをあなたはよく知ってる。
そして、あなたも私のことを愛してくれてるし、私はそのことを痛いほどよく知っている。
ねぇ、それって、素晴らしいことだとは思わない?お金をいっぱい送ってくれるとか、そんなことよりよっぽど素晴らしいことだと思わない?
家族にはいろんなカタチがある。わたしたち家族のひとりひとりは考え方もバラバラだし、
特にわたしは、あなたとは全く違う道を進んでる。正直いって、今は実家に帰りたくない。
でも、お母さんが私のことを気遣ってくれていて、私もお母さんのことを気遣っている。
しっかりした絆があるから、離れてても考え方がバラバラでもつながってるんだよ。
他の人には分らなくても、私達がしっかりわかりあっていれば、それでいいやん。」

電話越しにあなたが泣いてるのが分った。私もしゃべりながら涙が出た。いろんなことがあったね。
たった9分間の短い電話だったけど、あなたと話せてよかったよ。

私も兄も母もそれぞれがそれぞれの道を行き、…自立できたということかもしれない。

 


 

12月10日(金)

きっとぼくは、「完璧さ」を自分にも相手にも求めすぎてて、だから、疲れるんだね。すべてに。
どうでもいい時はどうでもいいんだけど、でもやっぱり、自分に直接関わってくる相手にはつい「完璧さ」を求めてしまうんだ。
それは、JW時代の名残か、それとも…。よく分らない。相手を裁いてるつもりはないけど、どうしても完璧を求めてしまうんだ。
ぼく自身はいつもかやの外にいながら…、でも、それでは淋しくて、淋しすぎて、
だからぼくは、いつも求めてばかりで、ぼくは、ぼくは、もう疲れたよ。

 


 

12月13日(月)

冬公演が終わった。終わった。疲れた。疲れきった。達成感などない。ほんと、疲れだけが残った。
母から『ふれ告げる人』の本と手紙が届いた。想いがかけ離れすぎて、あの本を読む気がしない。
生理的嫌悪感。吐き気がする。つらい。タスケテ…。
家庭教師の帰り道、暗い夜道、前が見えなくて、いきなり田んぼに落ちた。痛い。つらい。もうやだ。なんか、もうやだ。

…ごめんね。

 


 

12月15日(水)

君のぬくもりの中でぼくははじめての安らぎを得る。ずっと、ずっとそばにいてほしい。
そして、ぼくをぎゅっと、ぎゅっと抱きしめていて…。

 


 

12月16日(木)

僕に、恋はできるのだろうか。
「恋は錯覚だ」というなら、錯覚でもいい。
君を愛せるなら、…「君を愛している」と自分自身で感じることができるなら、それでいい。
同情でも諦めでもない“なにか”は、僕にあるのだろうか。


 


00’1月17日(月)

久しぶりの日記

常に前向きに考えられるわけではない。人の哀しみと憎しみの渦に吸いこまれそうになる。
あなたを泥沼から引き揚げたいと思ったけど、…ミイラ取りがミイラだね。
無と同化したい誘惑にかられる。世の中、知らなくていいことでいっぱいだ。普通の幸せと健康的な悩み事が欲しい。何かが狂ってしまってるけど。
JWを離れてから私は特定のグループや組織、社会に対して、どこにも心からは属しているという意識がない。
いや、もてないんだ。寮にも、そしてあれほど頑張ってきた劇団でさえ。だからいつでもなにかやりきれないような想いが残るのだろう。
私はいつも自分をかやの外に置いている。無意識のうちにそうなってしまう。
ほんとは、心から没頭できるくらい関わりたいと思っていても…。
よくいえば、自由人といったところか。でも、それだと寂しくて。
そういえば、JWにいた頃もそうだった。学校にも集会にも、どちらにも心からはなじめなかった。
私が常々感じる疎外感というものは、他の人々も皆よく感じるものなのかもしれないけど。

 


 

1月27日(木)

母からの分厚い手紙が届いてもう一週間以上が経つ。
その間に某掲示板でも現役と元2世のいろんなやりとりがあった。

まぁ、JWにも元JWにもいろいろな考え、感じ方、価値観の人がいると思うけど、
大半は、私も母も含めて、自分の信じている事が絶対に正しいって思ってて、
だからその正しい事を他の人にも是非分ってもらいたいって思って、ひとりよがりになってしまい、他人を苦しめたり…。

でも、助けたいっていう想いはきっとホンモノの気持ちで…。

元2世と現役って、
それぞれに信念のようなもんができあがってしまった人は、お互い絶対ゆずられへんから、
話し合っても、傷つけ合うだけなのかもしれない。

ある程度その人の気持ちは分っても、互いの溝が深すぎたり、価値観が根本から違うから、
でも相手の気持ちがなんとなくわかってしまうぶんよけいに苦しかったり、やりきれなっかたりね。

 


 

2月21日(月)

昨日は、卒コンだった。飲んでカラオケして三次会でスタジオ。
未だ、あの人達が卒業してしまいもうお別れになってしまうということが信じられない。
なんだかこの風景が永遠に続きそうな気もする。

こんな日には、この劇団に入って、ほんとによかったと思える。
私は、ここで、演技の仕方とかデザインの技術など、芝居を作る上での技術を学んだというよりも、
一つ一つの芝居を作りあげていくという作業の中、彼らといっしょに過ごした事で、
物事に対する捉え方や考え方について、学んだりすることが多かったように思う。

芝居は一人では作れない。他人の動きを読む事、自分の考えを相手に伝える事、
照明、美術、衣装等、それぞれの観点から物事を捉える事、いろんなことが欲求される。
私はここでいろんな失敗をしたけど、そんな中からも、いろんなことを自ら気付き学ぶことは多かった。
この経験は宝であり、これからの私の人生、職業に本当に役立つものだと思う。
私はこの劇団という場に、そしてその仲間に本当に感謝している。ずっと続けてきたから、このような境地になれたのだと思う。
一年目は一年目の立場で、二年目は二年目の立場で、三年目は三年目の立場でと、
それぞれの立場においてこの劇団への関わり方というのは違ってくる。
続けることによる積み重ねによって後から後から気付く事も多い。それゆえに失敗も多かった。
私が三年になり、自分たちが中心となってこの劇団の芝居を作っていくという段階になった時、
最初は、「自分たちがつくっているこんなのは本当の『※※』の芝居じゃない」という思いやそれゆえに生じる葛藤がすごくあった。
だが今となっては、※※というところは、
「これこそが『※※』の芝居だ」というものが最初から絶対的にあって、それが下の代へ下の代へとただ降りていくものではなく、
それぞれの代がそれぞれの代の性格なり、またその中の個々人の立場なり、いろんな条件の中、
それぞれの代が想う『※※』の芝居というものを、自分たちで自ら作り上げていく場だと思う。
だから『※※』の芝居というのはそれぞれの代の性質や社会の流れにあわせて変わっていく相対的なものだと思う。
そして観客にしてみれば、その時に観た公演が『※※』の芝居としてずっと心に残るだろう。
しかし普遍的に変わらないのは芝居をつくることにおいての熱意やこだわり、そしてそれを下の代に伝えていき、
また自分たちのもつ技術を伝えながらも後輩に自ら考えさせる力をつけさせるということではないだろうか。
『※※』とは自分たちで自ら創っていく場であり、芝居を創っていく過程の中で、様々な失敗や経験を通して自ら気付く事や学ぶ事は大きい。
また、それを以前から行ってきている先輩達や他の芝居などを見てそこから盗むこと、
これらの積み重ねが、よりよい自分たちの芝居を創り出せるような気がする。だから、後輩たちも皆、できるならばふんばって続けて欲しい。
そして創る楽しさを、この『※※』で是非体感して欲しいと思う。

 


 

2月23日(水)

ある人の、飛躍した解釈が誤解をよぶ。その人はさらに孤立し、自分の考えだけに凝り固まる。

 


 

4月30日(日)


自分自身は本当はどう思うのか、それが分らなくなる時がある。卒論を書くにあたって私はJWを社会学的に捉えようと決意した。
社会学を学ぶものとしてJWをみると、そう、その問題から自分自身を離し、社会の中の一集団としてJWを冷静に客観的に捉えようとすると、
見えてくることも多いが、私にとって大切だったなにかがどんどんと消えていくような気がする。
すべては所詮人事でしかなく、自分のありかが分らなくなってくる。

2世問題、社会復帰の問題に対して、いろいろな見方はできる。
それが正しいとか間違ってるとかそういうことは抜きにして、いろいろな見方ができる。
それぞれの立場に立ってモノを考えようとすると、私はそれぞれのそのいろいろな見方ができるような気がする。
そのように自分を持っていける。
しかし、自分自身は本当はどう思うのか。個人としてまたは人間としてどう思うのか。私の中で2つが分裂する。
JWや元JWをしごく客観的にみる私と、その渦中に身を浸して考えようとする私が…。

脱会者のケアをしたいとずっと願っていた。以前はそう強く願っていた。道が開けたような気がした。
私にはこの道しかないよう思われた。元JW2世であり、大学で社会学や心理学を学ぶものとして、
私はその現場から必要とされているような錯覚さえした。
自分が少し大事な存在に思えた。それは、自分があの問題の渦中にいた時に沸き起こった気持ちだ。
脱会者のケアをしたいと思った時は、私個人の傷は癒えていたように思う。
でも私はそれでもあの問題の渦中に自分の身を浸しており、
その渦中の中で、私は自分の過去と未来に、なにか一本の筋が通ったような気になっていった。
でも、社会学的にJWを観ようとすると、ケアの必要性がどんどん薄くなってくるというか、
なんか、自分がなんらかの形で助けになりたいと思ったある一群の人々に対してものすごく冷めた見方をしてしまい、
自分に対してでさえもものすごく冷めた見方をしてしまい、別に自立しなくても生きていける人たちもいるだろうし、
すべてを過去のせいにして生きていけるほうがよっぽど楽だともおもってしまう。

時々思っていたことだけど、私に社会学は難しすぎるような気もしてきました。


 

 

5月8日(月)

「ぼくな、ぼくはな、こう思うねん。」

2才年上だという彼。肉体労働で鍛えたというその身体。
底から涌き出る暗いエネルギーと時折みせる無邪気な顔。
彼はあまりにも少年で、純粋で尖っていた。私にはない純粋さととげとげしさを持っていた。
裸の王様を「裸だ!」と言い切ってしまえる彼に、王様を恐れることなく、
まるで子どものようになりふりかまわずそう口にしてしまっていることを、
ひとつも恥じない彼に、(いや、彼自身はそういう自分を恥じているのかもしれないが)、そういうことができてしまう彼に、
私は彼の底知れぬ度量を認め、同時にこの時代に生きるには不器用すぎる彼の事がすこし心配になる。

でも、あなたに会えてよかった。ほんとうに。私はあまりに速く大人になろうと、そしてもう大人になってしまったのかもしれない。
大人にならなければ耐えていけなかったのかもしれないけど。
もう一度自分を観直して見ようと思うよ。あなたのもつその鋭い少年の眼を通して…。

 


 

5月11日(木)

不調。

 


 

5月21日(日)

割りきったつもりで生きてきた。割りきっているつもりだった。
離れていれば割りきって生活することが出来る。
もう戻れなくて、それでよくて、でも、それは私の意地で、
母の暖かい言葉に少しでも触れると、ほんとは私はとても弱かったことに気付き、
それでも弱くなんかなりきれなくて、強いから,一人でなんとかできて、
泣き言をいって甘えるのができなくて、男なんかに甘えられなくて、でも寂しくて、でも強いから…
独りになると身体の力が抜けて、ドロドロ溶け出して、涙がとめどなく流れ、
でも誰かからのTELには普通に時には明るく笑えるほど、私は狂えなくて、
それは私をよけいに孤独にさせると同時に、私は人並みの社会生活が送れるということに満足しているのかもしれません。

 


 

5月23日(火)

Tちゃんと遊びに行った。新緑豊かな山々を眺めながら、原チャで田んぼやりんご園を走り抜け、温泉へ向かった。
のどかな温泉。ゆっくりと過ぎる時。帰りにワインを試飲して二人でバーベキュー。
アルプス公園でシャボン玉を吹いて、アソレチックみたいなとこで遊ぶ。
はたから見たらいい年してアホかってかんじかもしれないが、久しぶりに無邪気に興奮してしまった。
シェプラでラッシーとカレーを食べて、帰りにTちゃんちによって、食べたり飲んだりゲームしたり、、、
久しぶりにいい感動をした。たまにとても楽しい日があって、それで私はやっていけるのかもしれない。

 


 

5月28日(日)

少年自然の家での、子どもの体験活動を支えるためのボランティアセミナーというものに、泊りがけで行ってきた。
疲れた。私、ああいう集団行動苦手。
いや、プログラムに組み込まれているゲームとかを皆でやってる時はいいんだけど、その後がだめ。
なんつーか、あの連帯感というか、ワカモノの明るい雰囲気というか、出会い系というか、あの雰囲気が苦手。
空気に押しつぶされそうになる。
別にA子がいい子であろうとなかろうと、B子が自己中であろうとなかろうと、
C君がかっこよかろうがなかろうが、Dさんのことを「超ムカツクー」であろうがなかろうが、
そんなことあっしはどーでもいいんじゃ。そんな一日や二日で人のことを分ったように、どーのこーの、じゃかましいんじゃ、ぼけー。
疲れるんだよ、そういう会話、あっしは。
てゆーか人に関するそういった噂話的会話に自らどんどん楽しんで入っていかないといけないような雰囲気が嫌だ。
いや、別に悪口がいけないとかそんなこというつもりはない。
そういうことを言えるぶんだけ、逆に人に対して熱くなったりできるんだろう。
思ったことをどこでも正直にだしていけるやつはすごいと思う。
逆に私は人に無関心なせいか、よく知らない人のことなんて、どーでもいいだけ。
そしてそういう会話が不快なだけ。きっと私がそう言われるかもしれない、そういわれたら嫌だなというコンプレックスのせいだろう。

「子どもの個性をのばそう、感性を豊かに。」よく聞く言葉だ。
でもそういうことを唱える集団のほとんどは、ある一定の性格の子どもしかうけつけていない。
明るい子ども。人見知りしない子ども。集団内で、どんどん『自分』というものを出していける子ども。
そういう子どもが好かれる。まー、べつに子どもに限らずそういう人が好かれる。
そりゃなんか暗げな子より、人懐っこくて明るい子の方が好かれるのは「自然の法則」みたいなものかもしれないが、
だったら「個性を大切に」とか「感性を豊かに」とかいうなよ。
個性にいいも悪いもあるのか?それは単に、テメーの好き嫌いだろーっ。
「個性を大切に」、「個性を重視します。」そういう雰囲気になじめず居場所のない子もいるだろう。
ひきこもる子はどんどんひきこもっていくのではないか。

 

 


5月29日(月)


今日はTちゃんのたんじょーび。お祝いをした。はっぴーばーすでい。

 


 

5月30日(火)


HPつくろっかな。構想。
-白夜-

 


 

6月1日(木)

世の中知らなくていいことが多すぎるね。見るんじゃなかった。
MさんとM君とこのアドレスが「2ちゃんねる」に載ってしまったってMさんがいってたから、
どんなとこだろうって思ってヤフーで検索してウロウロしてたら、偶然S君のアドレスを発見してしまった。
びっくりした。きもちわる。やだ。なんか、もう、ショック。男なんてきらい。てゆーか、あんな固有アドレス丸出しでのせるなよ。
あんなところに。煽られてたけど。
はぁ。でも、私もなんで見ちゃったんだろう。ふつー、人のアドレスなんてみないのに。あぁ、ショック。
あー、ほんと別れてよかった。

でも、私もおなじ種類の人間なのかもしれない。

 

 


 

6・7・水

死にたい

 

 


 

6・8・木

おまえはまだ、おまえが見たことのある世界しか知らぬ。
環境がかわれば居心地も考えも変わるやもしれぬ。
人生はまだ長く、世界は広い。
ことを急くな。

入ることをためらいながら、中のことをすべて分ったふりをして死を選ぶつもりか。

おまえがどうしてもそれを選びたいのならそれは仕方の無い事やも知れぬ。
おまえの人生はおまえにしか決められぬ。
生きるも死ぬも、今やそれはおまえがおまえ自身に対して責任を負っている事だ。

この世に生をうけてしまったことは、たしかにおまえが選んだ事ではないだろう。
しかし死は自分で選択することもできる。
おまえがもし今死を選ぶとするなら
おまえは、本来ならば生きているはずのおまえ自身について責任を負わねばならぬ。

わたしは神なぞ知らぬ。
おまえが神を信じていようがいまいが
おまえが今、死を選ぶか生を選ぶかは、神ではなくおまえ自身にかかっているのだ。

おまえはその責任を負えるというのか?おまえのこれからの未来すべてに。

おまえには負えまいて。
おまえがこの世に生をうけたことが、おまえの責任ではないというのに、
今、どうしておまえは生きているはずのおまえ自身に対して責任を負わねばならんのか。

陽は沈みまた昇る。しかしおまえをとりまく環境は変わる。時をまて。

 春くれば ふりつむ雪もとけぬべし しばし時まて 山のうぐいす

 


 

6・10

求める男がいるから、援助交際なんてもんがある。

求める人がいるから、カウンセラーなんてもんがある。

比較できるようなものではないが、どちらも同じような社会病理なのではないかと思う。

カウンセラーはカウンセラーになることでしか逃げ場がなかったのかもしれない。
クライアントはカウンセラーにかけこむことでしか逃げ場をみつけられなかったのかもしれない。

クライアントもカウンセラーもどきも
カウンセラーというものに対して、幻想を抱いているような気がする。

日々の生活の中には、あちこちに癒しとなる出来事も転がっている。

親がかけたくれたたったひとつの、たった一言。
ふと耳にした歌詞。

それに気付くか気付かないかは自分自身で。

カウンセラーは気付きのきっかけでしかない。

出口なし。

サバンナへ行きたい。広い広い広そうな気のするサバンナへ逃げたい。

 


 

6・12


学校にいこうと思うから行けないんだ。学校に行こうと思うのに行けないからうじうじするんだ。
就職活動をしようと思うのにしないから落ち込むんだ。学校には行かない。就職活動もしない。
決めた。そうしよう、それがいい。昼間からバイトをはじめた。動いている私は少し成長した、かも。

 



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