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スキーの初心者がよく転ぶのは、転ぶまいとして重心が山側、つまり後ろに移動してしまうからだ。結果エッジが効かなくなり、スピードの制御ができなくなり転ぶ。 野球やゴルフで、遠くに飛ばそうと力を込めるとかえって飛ばない。 浮かぼうとしてもがけば沈んでいく。 これらは何かをしようとして、その反対の結果となる、そういう例である。 「なせばなるなさねばならぬ何事もならぬはひとのなさぬなりけり」 鷹山公の言葉はもちろん一面の真理を示しているが、真理なる代物は多面体であるということもまた真理だ(なんだか言葉遊びのようになってきた)。 さて、上の例に挙げたような逆説的な論を好んだのが道家である。 『老子』二十四章に曰く 企(つまだ)つ者は立たず。跨(また)ぐ者は行かず。 自ら見(しめ)す者は明らかならず。自ら是とする者は彰(あらわ)れず。 自ら伐(ほこ)るものは功なし。自ら矜(ほこ)るものは長ぜず。 その道に在るや、余食贅行(よしぜいこう)という。物これを悪(にく)むことあり。 故に有道の者は処(お)らず。 爪先立ちでは長く立っていられない。大股で歩けば長く歩いていられない。 自分の能力をひけらかすものはかえって世間に知られない。自らをよしとするものはかえって世間に認められない。 自分の功績を自慢するものはかえってその功績を台無しにする。自分の才能を恃むものは長く地位を保てない。 こうしたやり方を、余食贅行(余った食事や無駄な行動)と呼ぶ。自然の法則はこれらを嫌う傾向にある。 だから「道」を体得した人はこれらを避けて生きる。 大陸に当てはめるなら、 企(つまだ)つ者は立たず。跨(また)ぐ者は行かず。 無理をして上の狩場へ行けば、地に伏すことになる。しゃかりきになってレベル上げをすると、やがて燃え尽きて引退する。 こういうことになろうか。 バージョンアップやバグがあるたびに繰り返される現象、変更点や被害に驚き惑い怒りして運営にメールし、掲示板に書き、日記に書きして、ついには引退するというパターンもこれに当てはまる。つまり、大陸の運営に対して何らかの期待を抱いているからこそ裏切られ、結果大陸を去ることとなるのである。 コエ3鯖で某ギルドのサブマスをしている氷マジのB氏などは、特に何も期待していないために腹のうちに毒がたまることはなく、吐くとすればため息ということになる。 要するにB氏は、 「何かをすれば失敗する、ならば何もしなければよい」 という考えなのだが、この考えが道家に支持されるかといえば、そうでもない。 『老子』七十三章に曰く 敢えてするに勇なればすなわち殺、敢えてせざるに勇なればすなわち活。 この両者は、或いは利、或いは害。天の悪むところ、たれかその故を知らん。 ここをもって聖人も、猶おこれを難しとす。(以下略) 積極的にふるまうことに固執すれば自分や他人の身を滅ぼすことになる。消極的にふるまうことに固執すれば自分や他人の身を保つことになる。 この両者の態度は時によって利とされ、害とされるが、天が何を罪として憎むのか、人為的な判断のおよぶところではない。 何もしないということは、何もしないようにする、何もしないということを為す、ということであり、人為・作為がはたらいているという点で何かをしようとすることと本質的には違いはない。 道家は「企(つまだ)つ者は立たず。跨(また)ぐ者は行かず。」の言葉のうち、立つこと・行くことを否定するのではないのだ。 道家が理想とするのは「無為を為す」ことであり、為そうとせずに成る、つまり自然に任せることである。 (続く…といっても賢明な諸氏にはこのシリーズに論理的展開もへったくれもないことはとっくにお見通しですよね、ね。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005.02.25 05:05:05
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