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2008年06月10日
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カテゴリ:幕史研
朱子学(しゅしがく)とは・・・

 南宋の朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学・程朱学派と呼ばれる。

 当時は、程頤ら聖人の道を標榜する学派から派生した学の一つとして道学と呼ばれた。
 陸王心学と合わせて人間や物に先天的に存在するという理に依拠して学説が作られているため理学(宋明理学)と呼ばれ、また、清代、漢唐訓詁学に依拠する漢学からは宋学と呼ばれた。

 朱熹は、それまでばらばらで矛盾を含んでいた北宋の学説を、程頤による性即理説(性(人間の持って生まれた本性)がすなわち理であるとする)程顕の天理(天が理である)をもとに、仏教思想の論理体系性、道教の生成論および静坐という行法を取り込みつつも、それを代替する儒教独自の理論にもとづく壮大な学問体系に仕立て上げた。

 そこでは、自己と社会自己と宇宙は、理という普遍的原理を通して結ばれており(理一分殊)、自己修養(修己)による理の把握から社会秩序の維持(治人)に到ることができるとする、個人と社会を統合する思想を提唱した


 なお朱子の理とは、理は形而上のもの、気は形而下のものであってまったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は「不離不雑」の関係であるとする。また、気は万物を構成する要素で運動性をもち、理は根本的実在として気の運動に対して秩序を与えるとする。この理を究明することを「窮理」とよんだ。朱熹の主張する学説は性即理説といわれ、陸象山の学説心即理説と対比された。朱熹は、心即理説を、社会から個人を切り離し、個人の自己修養のみを強調するものとして批判した。一方で朱熹は、陳亮ら功利学派(事功学派)を、個人の自己修養を無視して社会関係のみを重視していると批判している。

 朱熹の学は、社会の統治を担う士大夫層の学として受け入れられたが、元代には科挙試験が準拠する経書解釈として国に認定されるに至り、国家教学としてその姿を変えることになった。


 日本への伝来と影響

 一般には正治元年(1199年)に入宋した真言宗の僧俊?が日本へ持ち帰ったのが日本伝来の最初とされるが、異説も多く明確ではない。鎌倉時代後期までには、五山を中心として学僧等の基礎教養として広まり、正安元年(1299年)に来日した元の僧一山一寧がもたらした注釈によって学理を完成した。

 後醍醐天皇や楠木正成は、朱子学の熱心な信奉者と思われ、鎌倉滅亡から建武の新政にかけてのかれらの行動原理は、朱子学に基づいていると思われる箇所がいくつもある。その後は長く停滞したが、江戸時代に入り林羅山によってその名分論が武家政治の基礎理念として再興され、江戸幕府の正学とされた。だが皮肉なことに、この朱子学の台頭によって天皇を中心とした国づくりをするべきという尊王論と尊王運動が起こり、後の倒幕運動と明治維新へ繋がっていくのである。







Last updated  2008年06月10日 10時10分05秒
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2008年06月06日
カテゴリ:幕末ニュース

2010年度の大河ドラマは『龍馬伝』に決定! 主役は「“大人”の俳優に・・・」

 2010年度NHK大河ドラマの制作発表会見が5日(木)、東京・渋谷のNHKで行われ、明治維新の立役者である坂本龍馬の生涯を描いた『龍馬伝』が放送されることが決定。出演者については現在のところ未定だが、プロデューサーの鈴木圭氏は「実年齢にこだわらず、“大人の”俳優さんにやっていただきたいと思います」と構想を明かした。

 同作の脚本は、ドラマ『HERO』『ガリレオ』『CHANGE』(すべてフジ系)など人気ドラマを手がける福田靖氏が担当。“幕末の奇跡”と呼ばれた風雲児・龍馬の生涯を、後に三菱財閥の礎を築く幕末屈指の経済人・岩崎弥太郎の視点から描いたオリジナル作品となる。福田氏は「今の時代にあてはまる生々しい龍馬を描きたい。史実を基に想像した面白いストーリーを書きたい」と自信をみなぎらせた。

 報道陣から気になるキャスティングについて尋ねられると、プロデューサーの鈴木氏は「きましたね…実は全く決めておりません」と苦笑い。「龍馬は33歳で死を迎えましたが、当時の33歳は非常に落ち着いた大人の男だったと思う。ですから実年齢にこだわらないで、ちゃんとした“大人の”俳優の方にやって頂きたい」と展望を語った。

 大河ドラマ『龍馬伝』は09年8月よりクランクイン予定

6月5日16時54分配信 オリコン



 NHKは5日、2010年1月から始まる大河ドラマは坂本龍馬の生涯を描く「龍馬伝」に決まった、と発表した。
 脚本は福田靖さんのオリジナル。龍馬と同じ土佐出身で、明治維新後も経済人として活躍した岩崎弥太郎の視線から描くという。 

6月5日18時30分配信 時事通信



<大河ドラマ>2010年は「龍馬伝」 NHK

 NHKは5日、2010年の大河ドラマを、幕末の志士、坂本龍馬を描く「龍馬伝」に決めたと発表した。

 人気連続ドラマ「HERO」「CHANGE」(いずれもフジテレビ)などを手がけた脚本家、福田靖さんのオリジナル作品。薩長同盟の実現や海援隊結成に奔走した33年の生涯を、龍馬と交流を持ち三菱財閥の基礎を築いた岩崎弥太郎の視線で描くという。制作統括の鈴木圭チーフプロデューサーは「今の日本を変えるヒントになる人物。混迷の時代に生きる現代人へのメッセージにつなげたい」と語った。

6月5日19時17分配信 毎日新聞





大ニュースが飛び込んできました!!!!

大河ドラマで「龍馬」が主役です!!!!!!!










Last updated  2008年06月06日 06時41分30秒
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カテゴリ:幕史研
幕末の人物を研究すると、必ずあたるのが「学問」です。
とくに「陽明学」と「朱子学」はよく聞きます。
で、陽明学を知りたいと思いネットで探すと、わかりやすく紹介してありました。

王陽明(おうようめい 1472年 - 1528年11月29日)は、中国の明代の儒学者、思想家。

 朱子学を批判的に継承し、学問のみによって理に到達することはできないとして、静坐など実践を通して心に理をもとめる実践儒学陽明学を起こした。

 諱は守仁、陽明は号で、陽明洞(地名)に家を建てたことにちなむ。字は伯安。姓名から王守仁とも呼ばれる。文成公とおくりなされた。

 父王華は、科挙を首席の状元で合格した秀才で、明の吏部尚書(官吏の人事をつかさどる長官)を務めた。浙江省紹興府の出身。

 仏教、武芸、詩学など、様々な才能に秀で儒学を志し、万物に理が備わっているという朱子学の理気二元論を学んでいるとき、庭の竹の理を窮めると称して、七日七晩、竹の前に座り続け、ついに倒れたという逸話が残されている。

 28歳で科挙に合格して官吏になったが、儒学の勉強を怠ることはなかった。
35歳のとき、宦官劉瑾の独断的な政治を批判する上奏文を、皇帝武宗に提出したが容れられず、劉謹の恨みを買って、はるか僻地の貴州龍場駅の役人に左遷された。彼は、この言葉も風俗も異なる少数民族の住む地にあって、厳しい自炊生活を送りながら、思索を続け、「龍場の大悟」(龍場での大いなる悟り)といわれる新学説・陽明学を誕生させた。

 やがて、劉謹の専横が明らかになり、彼が追放されると、王陽明は県知事に任じられたのを皮切りに、江西巡撫や兵部尚書などの高官を歴任することとなった。

 1519年には寧王の乱を鎮圧した。さらに江西巡撫のときには、地方の農民反乱や匪賊の横行に対して、民兵を組織してこれらをことごとく鎮圧した。1527年、広西で大規模な反乱が起きると、王陽明にその討伐の命が下った。彼は病気をおして討伐軍を指揮し、それらを平定した。その帰途、病が重くなって広西で死んだ。

 彼は、南宋の陸九淵の思想を発展させて、「事物の理は自分の心をおいてなく、それ以外に事物の理を求めても、事物の理はない」という、心即理を明らかにした。また、天地に通じる理は自己の中にある判断力(良知)にある(良知を致る=致良知の説)と主張した。また、知と行を切り離して考えるべきでないという知行合一を主張した。

 自分の心に理を求めたり、自己の中にある判断力を求めることは、全ての人に可能なことであり、「満街の人すべて聖人」と言った。こうして、儒学を広く庶民の学問に押し広げたのである。

 この陽明学は、江戸時代の日本にも伝えられ、幕末の倒幕運動の指導者である大塩平八郎や吉田松陰らが、陽明学の心即理を理念にして行動した。しかし、彼らの心即理は心の至誠を貫くことと解されており、王陽明のそれとは異なるものだった。

日本における展開
 日本に伝わった朱子学の普遍的秩序志向は体制を形作る治世者に好まれた。逆に陽明学には個人道徳の問題に偏重する傾向があり、王陽明の意図に反して反体制的な理論が生まれたため、体制を反発する者が好む場合が多かった。

 自己の正義感に囚われて革命運動に呈する者も陽明学徒に多い。鏡面のような心(心即理)の状態に無いのに、致良知に基づいて、自分の心の叫びを行動(知行合一)に移してしまうと、革命志向になりやすいという説もある(後述の山田方谷も、陽明学について誤った理解をすると重大な間違いを犯す危険があると考えて、朱子学を十分に理解して朱子学と陽明学を相対化して理解が出来る門人にのみにしか陽明学を教授しなかったと言われている)。
江戸期の代表的な陽明学者は中江藤樹と弟子の熊沢蕃山である。

幕末での陽明学の信奉者
 幕末の尊皇攘夷運動は陽明学に影響を受けている。吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山が歴史上おり、革命運動(大塩平八郎 --大塩平八郎の乱 )に呈する者が多かったのは事実である。一方、陽明学の造詣の深さで、佐久間象山と対比される備中松山藩の山田方谷は、瀕死の藩財政を見事、建て直した。

 長くなりました。








Last updated  2008年06月06日 05時14分10秒
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2008年06月05日
カテゴリ:史蹟調査
 下諏訪宿(甲州道中中山道合流の地、脇本陣まるや、魁塚、下諏訪宿問屋場跡、聴泉閣かめや・和宮宿泊地、下諏訪宿本陣・岩波家、来迎寺・藤田小四郎宿泊地、赤報隊士捕縛跡、下諏訪歴史民俗資料館、松本藩士墓(水月公園)、高崎藩陣営・山の神の森、西餅屋跡、東餅屋跡、永代人馬施工所)

 和田宿(本陣跡)、長久保宿(石蔵本陣、釜鳴屋、石碑)、笠取峠の松並木、芦田宿(土屋本陣、山浦脇本陣)、望月宿本陣、八幡宿小松本陣・脇本陣、見宗寺、平出宿・水戸浪士休息地跡、高島城浪人塚、石投げ場・明治天皇、高松平十郎記念碑、雨宮の渡し(頼山陽歌碑)、佐久間象山砲術試射地碑、桑原宿象山記念館

 八幡原史跡公園・川中島、象山神社、象山記念館、佐久間象山生誕地、煙雨亭、桜賦、望岳賦、高義亭、文武学校、旧白井家表門、真田邸、恩田木工民親銅像・屋敷跡、日本電信発祥の地・松代藩鐘楼、佐久間象山墓(蓮乗寺)、聚遠楼址

 赤松小三郎遺髪墓(月窓寺)、旧上田藩主屋形跡・上田高校、戊辰役上田藩従軍記念碑、赤松小三郎記念碑、上田城址

 大阪から上田まで6時間以上かかりました。しかし! それ以上に素晴らしい体験と感動がありました。史跡調査の真髄を学んだような気がします。

 幕末三大義挙の「生野義挙」「天誅組の変」をほぼ制覇した私たちにとって、天狗党は厄介な存在でした。なぜなら移動距離が長いこと。生野義挙は兵庫県の生野銀山付近のみ、天誅組は大阪から奈良県下を縦断したので、これも移動距離は短い。

 天狗党は水戸で挙兵して、福井の敦賀まで移動します。走行距離はすごいです。壊滅の敦賀近辺は押さえました。今回は長野県下の八幡宿から下諏訪宿まで押さえました。


天狗党の乱とは? 
 元治元年(1864)3月、水戸藩尊攘派のなかでも過激派であった藤田小四郎・竹内百太郎らは、湊・小川・潮来などの郷校に屯集する下級藩士・郷士・村役人・一般農民などを糾合、町奉行田丸稲之衛門を首領として筑波山で挙兵、「天狗党」と称しました。

 この天狗党には全国から尊攘運動有志が集まり、1000人以上を数えたといわれています。その後、日光東照宮を参詣、下野国太平山に屯集、5月に再び筑波山に戻ります。

 この間、田中愿蔵は別働隊を組織して栃木町や真鍋宿などに放火、軍資金調達を行い、悪評を高めました。このような状況下、幕府は天狗党に対する取り締まりを周辺の諸藩に命じました。

 これに応じた水戸藩内の反天狗党、反尊攘勢力である市川三左衛門・朝比奈弥太郎らの諸生党の人々は、江戸に上って藩政を掌握、天狗党追討を決定しました。一方、武田耕雲斎・村田理介・榊原新左衛門らの尊攘派は、6月から7月にかけて大挙して上京、藩政の主導権を再び諸生党から奪い返します。しかし、この段階では、幕府・諸藩・水戸藩諸生党連合の追討軍との天狗党の戦いが、下妻・高道祖で始まっていました。

 この下妻・高道祖戦争は天狗党の勝利となり、敗れた水戸諸生党は、手薄になっていた水戸城に戻り、これを占拠しました。このような混乱に水戸藩主徳川慶篤は、その収拾のために自分の名代として宍戸藩主松平頼徳を派遣しましたが、これに多数の尊攘派が同行、「大発勢」といわれました。

 以降、元治元年9月を中心に、常陸国内を舞台としては天狗党と反天狗党勢力との戦いが繰り返されることになります。10月,天狗党勢は幕府追討軍に那珂湊付近の戦闘で敗れ、翌11月、800人あまりが京都の一橋慶喜を頼って西上を始めます。

 武田耕雲斎を総裁として幕府や諸藩の追討軍と戦いながら、下野・上野・信濃・飛騨を通り、越前国新保に至り、ここで金沢藩に降伏、翌年敦賀において主だったもの350人余りが斬罪に処されました。この天狗党事件には、それまで近世的な秩序のなかにとじ込められていた一般民衆が、天狗党側あるいは反天狗勢力として参加していきます。幕府体制の崩壊前夜という時代の流れのなかで、一般民衆が歴史の表舞台に登場した最初の事件でした。


「天狗党」の由来は?
 保守派(門閥派)の中には代々名門の家を受け継いできた上級武士が多く、改革派の中には下級武士が多かった。その為、「成り上がり者が調子に乗っている(天狗になっている)」といった侮蔑の意味を込めて保守派が改革派をそう呼んだところから来ているという説。
改革派は世直しをするものとして、自らを天狗と称したという説。

佐久間象山 
 文化8(1811)年2月28日~元治元(1864)年7月11日 長野生まれ。実名は国忠のちに啓、号は象山。父は松代藩の祐筆。天保4年(1833)に江戸へ出て佐藤一斎の私塾に入るが、3年後には松代に帰る。10年(1839)江戸に塾を開く。

 老中となった藩主真田幸貫より海外事情の研究を命じられ13年(1842)に「海防八策」を上書。安政元年(1854)吉田松陰の事件に連座して松代に蟄居。文久2年(1862)赦免。元治元年(1864)幕府の命を受けて上洛し開国論を主張したが、尊皇攘夷派によって暗殺される。







Last updated  2008年06月05日 12時02分20秒
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2008年06月04日
カテゴリ:史蹟調査
備前藩御屋敷跡、川田甕江生家跡、西爽亭、新島襄玉島上陸の地

 奥さんの母が岡山の玉島(現在の倉敷)出身なので、里帰りを兼ねた史跡調査に出かけた。昨年玉島上陸したときになかった新島襄の石碑にはビックリした。他にも前回見逃していた史蹟を調査した。残念ながら西爽亭は休館日で見学できなかったが、母は、玉島に柚木家があって大きな屋敷があったのは覚えていたが、それが西爽亭だったとは。とひとしきり感動していた。

 記憶を辿りながら書いています。そうそう、幕史研の皆さん!! 西爽亭横に駐車場が出来ていました。これもビックリ!!

西爽亭と熊田恰(くまた あたか:1825~1868)
 備中松山藩士熊田竹兵衛の3男として生まれた熊田恰は、慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いの際、幕府方の藩主板倉勝静の親衛隊長として大坂詰で活躍しました。
 板倉侯から帰藩の命を受けた恰は、備中玉島港に上陸します。しかしこの時、松山藩は鎮撫使(明治維新政府が任命した臨時の征討長官)の征討を受けており、松山藩は恰の帰藩を認めませんでした。事情を知った恰は、行動を共にしている部下150余人の助命を嘆願し、西爽亭の次の間で自刃しました。
 この史実は、熊田恰が自らの命と引き替えに多数の部下の命を救い、その結果、幕末の戦禍から玉島が救われた話として、現在も語り継がれています。









Last updated  2008年06月04日 05時42分25秒
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2008年06月03日
カテゴリ:史蹟調査

陽明園、中江藤樹記念館、藤樹神社、中江藤樹墓、藤樹書院跡

 陽明学の大家である中江藤樹の史跡を偶然発見。滋賀県高島市にあった。予備知識なしで行ったが、充実の時間を過ごせた。高島市は琵琶湖の北西部である湖西地域にある。近隣には近藤重蔵墓(蝦夷地探索をし、択捉島に上陸した幕府役人)や浅見絅斎書院がある。近いうちに行きたい。
滋賀湖西地方にもたくさんの隠れた史跡がありますね。少し感動しました。


中江藤樹って?

 1608(慶長13)年4月21日~1648(慶安元)年10月11日は、近江国(滋賀県)出身の江戸時代初期の陽明学者。近江聖人と称えられた。字は原(はじめ)、諱は惟命(これなが)、通称は与右衛門(よえもん)。別号に珂軒(もくけん)、顧軒(こけん)。「別号に?軒(もくけん)、頤軒(いけん)。出典 先哲叢談/原念斎・漢学者伝記集成/竹林貫一編」

 農業中江吉次の長男として誕生。9歳の時に伯耆米子藩主加藤家の150石取りの武士である祖父・徳左衛門の養子となり米子に赴く。1617年(元和2年)米子藩主加藤貞泰が伊予大洲藩(愛媛県)に国替えとなり祖父母とともに移住する。1622年(元和8年)祖父が死去し、家督100石を相続する。1634年(寛永11年)27歳で母への孝行と健康上の理由により藩に対し辞職願いを提出するが拒絶される。脱藩し京に潜伏の後、近江に戻った。そこで、私塾を開く。

 1637年(寛永14年)伊勢亀山藩士・高橋小平太の娘・久と結婚する。藤樹の屋敷に藤があったことから、門下生から藤樹と呼ばれるようになる。塾の名は、藤樹書院という。やがて朱子学に傾倒するが次第に陽明学の影響を受け、格物致知論を究明するようになる。

 1646年(正保3年)妻・久が死去。翌、1647年(正保4年)近江大溝藩士・別所友武の娘・布里と再婚する。 1648年(慶安元年)藤樹が亡くなる半年前に郷里である小川村(現在の滋賀県高島市)に「藤樹書院」を開き、門人の教育拠点とした。その説く所は身分の上下をこえた平等思想に特徴があり、武士だけでなく商工人まで広く浸透し「近江聖人」と呼ばれた。代表的な門人として熊沢蕃山、淵岡山、中川謙叔などがいる。







Last updated  2008年06月03日 13時07分00秒
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2008年06月02日
カテゴリ:幕末ニュース
『歴史群像presents ものしり幕末王』が5月1日に発売になったんです。よね。

実物をまだ見ていないのでどんな出来栄えかわかりませんが、デモをしたときはなかなかの出来でした。


早く見てみたいな。






Last updated  2008年06月02日 11時43分03秒
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カテゴリ:史蹟調査
4月20日 大阪・南河内史跡調査
伴林光平西願寺跡、丹南藩陣屋跡、狭山陣屋跡、廿山街道、錦織神社、水郡邸、養楽寺、西方寺、杉山家住宅、仲村家住宅、白木陣屋跡、長野一郎碑、松田重助碑、竹内峠、吉田松陰宿泊地、竹内村・綿弓塚

 龍馬会主催のマニアックコース。でも充実感120%。素晴らしい内容と名講師の冴え渡る解説にうっとりした。昨年7月28日にK浦氏と一緒に行った場所。竹之内街道など、まあイベントで行くことはないだろうと思っていましたが、なかなかにくい演出でした。
 吉田松陰宿泊地は概観のみの見学でしたが、昨年訪問の折にはずうずうしくも中に入らせていただきました。

4月21日 大阪・奈良史跡調査
大阪-磐船神社(伴林光平歌碑)、奈良高取-鳥ヶ峰古戦場跡、池田邸屋敷跡、高取城移築門、伊勢屋屋敷跡、高取城松之門、田塩家屋敷、家老屋敷長屋門、高取城二の門(子嶋寺)

 仕事の合間に寄りました。磐船神社は我が家から来るまで20分の所にあるとても古い神社。そこの伴林光平の大きな歌碑がある。K浦氏が昨年発見した。高取城には登らなかったが、念願の鳥ヶ峰古戦場に行くことが出来た。
 高取の町並みをぶらぶら歩きで堪能しました。城の門が移築されているところもあり、風格のある町並みでした。







Last updated  2008年06月02日 11時38分31秒
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カテゴリ:幕史研
気がつけば、半年近く書いていなかった。日記というより年誌になりそうな期間ですね。

さて、幕史研はあちこち行きました。

思い出しながら紹介しましょう。


☆3月2日 岐阜・三重・愛知史跡調査-宝暦治水・前編☆
☆4月6日 岐阜・三重・愛知史跡調査-宝暦治水・後編☆

●昨年末に岐阜の史跡調査を行ったときに、宝暦治水の史跡が多数あることを知り、宝暦治水のみの史跡調査をしようということになった。あるわあるわ、宝暦治水が。

ところで「宝暦治水」って何?って思うでしょう?
簡単に紹介を。

 宝暦治水とは、江戸時代の宝暦年間(1754年(宝暦4年)2月から1755年(宝暦5年)5月)、幕命により薩摩藩が行った治水工事。濃尾平野の治水対策で、木曽川、長良川、揖斐川の分流工事。三川分流治水ともいう。

 木曽川・長良川・揖斐川の3河川は濃尾平野を貫流し、下流の川底が高いことに加え、三川が複雑に合流・分流を繰り返す地形であることからしばしば洪水を引き起こしていた。

 1753年(宝暦3年)12月28日、正式に第九代将軍徳川家重は薩摩藩主島津重年に御手伝普請という形で川普請工事を命じ、翌年1754年(宝暦4年)1月16日薩摩藩は家老の平田靱負に総奉行、大目付伊集院十蔵を副奉行に任命し、藩士を現地に派遣して工事にあたらせた。 幕府が工事を命じた目的は、薩摩藩の財政弱体化であった。

 当時既に66万両もの借入金があり財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え薩摩藩は普請請書を1754年(宝暦4年)1月21日幕府へ送る。

 同年1月29日には総奉行平田靱負、1月30日には副奉行伊集院十蔵がそれぞれ藩士を率いて薩摩を出発。工事に従事した薩摩藩士は追加派遣された人数も含め総勢947名であった。

 同年2月16日に大坂に到着した平田は、その後も大坂に残り工事に対する金策を行う。砂糖を担保に7万両を借入し同年閏2月9日美濃に入る。工事は同年2月27日に鍬入れ式を行い着工した。

 薩摩義士が一丸となって、遠く離れた木曽の治水工事にやってくる。想像を絶するような幕府の命令に堪え、工事は終了する。しかし、それ以上に多数の犠牲者、多額の工事費がのしかかり藩政を圧迫する。
 幕末に、薩摩藩が幕府を倒す理由は多々あるが、この宝暦治水もその中の一因としてあるのでしょうか?

まわった史跡は下記のとおり
【岐阜県海津市】治水神社(宝暦治水義士観音堂・薩摩義士の像・追懐薩摩義士碑・内藤十左衛門顕彰碑・宝暦治水義歿社姓名碑)、宝暦治水之碑、油島千本松、三川分流碑、国営木曽三川公園 水と緑の館
→ここはいいです。木曽三川公園の治水タワーはなかなかの見所です。油島の千本松は上空から必ず見るべし。近くの治水神社には芝居のポスターあり。これ年代ものです。

行基寺(高須歴代藩主墓)
→宝暦治水には関係ないですが、美濃高須藩の歴代藩主の墓があります。山頂近くにそらすごい立派な寺があり、それだけでも感動ものです。墓地には会津藩主・松平容保や桑名藩主・松平定敬らの父や兄の墓もある。

【岐阜県養老町】薩摩義士役館跡(平田靱負銅像・平田靱負腰掛銅像・平田靱負終焉の地碑・平田靱負辞世歌碑)
→ここで平田靱負が自刃した場所です。

天照寺(薩摩義士墓)
→ここの薩摩義士記念館には埋葬した甕(かめ)があります。一瞬見てかなりびっくりしました。位牌もあります。

【三重県桑名市】海蔵寺(薩摩義士墓・寳暦治水義士之墓所碑・寳暦治水薩摩義士之碑・治水観音・平田靱負木像)
→平田靱負以下21名の墓がある。本堂には木像や位牌がある。

【岐阜県輪之内町】薩摩堰治水神社、薩摩堰遺跡碑・薩摩堰治水神社碑、
→ここの桜はとてもきれいでした。

【岐阜県大垣市上石津町】舛屋伊兵衛顕彰碑、高木家陣屋跡、高木家入郷地碑・美の衆陣屋跡碑
→ここにある資料館は見所豊富です。

【岐阜県海津市】海津市歴史民俗資料館
→この資料館は概観がすごい。そして内部には城の内部を復元している。なかなかオモロー!






Last updated  2008年06月02日 11時28分19秒
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カテゴリ:ページの更新
ページの更新です。
集中してやりました。
現在は長野県を作成中です。お披露目できるのはだいぶ先になるでしょうが。

3月26日 東京の円通寺、染井霊園の個別ページを開設
3月25日 高知の南国市・香美市・香南市・高知市の個別ページを開設
3月24日 高知の高知市内(1)、高知市内(2)の個別ページを開設
3月22日 茨城の常磐共有墓地、酒門共有墓地、妙雲寺の個別ページを開設
3月21日 高知の檮原町、高知県西部、高知県南西部、高知市内(3)、高知市内(4)の個別ページを開設
3月18日 兵庫の尼崎・西宮、神戸、舞子、三宮の史蹟紹介文を掲載
3月16日 北海道の上ノ国町、木古内町、松前町、八雲町の史蹟紹介文を掲載
1月16日 鹿児島の南洲墓地の個別ページを開設
1月12日 鹿児島の城山付近、錦江湾沿の個別ページを開設
1月11日 鹿児島の史蹟紹介のページ開設、加治屋町の個別ページ開設






Last updated  2008年06月02日 11時06分07秒
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