幕末史蹟研究会

2008/06/02(月)11:28

うわ

幕史研(17)

気がつけば、半年近く書いていなかった。日記というより年誌になりそうな期間ですね。 さて、幕史研はあちこち行きました。 思い出しながら紹介しましょう。 ☆3月2日 岐阜・三重・愛知史跡調査-宝暦治水・前編☆ ☆4月6日 岐阜・三重・愛知史跡調査-宝暦治水・後編☆ ●昨年末に岐阜の史跡調査を行ったときに、宝暦治水の史跡が多数あることを知り、宝暦治水のみの史跡調査をしようということになった。あるわあるわ、宝暦治水が。 ところで「宝暦治水」って何?って思うでしょう? 簡単に紹介を。  宝暦治水とは、江戸時代の宝暦年間(1754年(宝暦4年)2月から1755年(宝暦5年)5月)、幕命により薩摩藩が行った治水工事。濃尾平野の治水対策で、木曽川、長良川、揖斐川の分流工事。三川分流治水ともいう。  木曽川・長良川・揖斐川の3河川は濃尾平野を貫流し、下流の川底が高いことに加え、三川が複雑に合流・分流を繰り返す地形であることからしばしば洪水を引き起こしていた。  1753年(宝暦3年)12月28日、正式に第九代将軍徳川家重は薩摩藩主島津重年に御手伝普請という形で川普請工事を命じ、翌年1754年(宝暦4年)1月16日薩摩藩は家老の平田靱負に総奉行、大目付伊集院十蔵を副奉行に任命し、藩士を現地に派遣して工事にあたらせた。 幕府が工事を命じた目的は、薩摩藩の財政弱体化であった。  当時既に66万両もの借入金があり財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え薩摩藩は普請請書を1754年(宝暦4年)1月21日幕府へ送る。  同年1月29日には総奉行平田靱負、1月30日には副奉行伊集院十蔵がそれぞれ藩士を率いて薩摩を出発。工事に従事した薩摩藩士は追加派遣された人数も含め総勢947名であった。  同年2月16日に大坂に到着した平田は、その後も大坂に残り工事に対する金策を行う。砂糖を担保に7万両を借入し同年閏2月9日美濃に入る。工事は同年2月27日に鍬入れ式を行い着工した。  薩摩義士が一丸となって、遠く離れた木曽の治水工事にやってくる。想像を絶するような幕府の命令に堪え、工事は終了する。しかし、それ以上に多数の犠牲者、多額の工事費がのしかかり藩政を圧迫する。  幕末に、薩摩藩が幕府を倒す理由は多々あるが、この宝暦治水もその中の一因としてあるのでしょうか? まわった史跡は下記のとおり 【岐阜県海津市】治水神社(宝暦治水義士観音堂・薩摩義士の像・追懐薩摩義士碑・内藤十左衛門顕彰碑・宝暦治水義歿社姓名碑)、宝暦治水之碑、油島千本松、三川分流碑、国営木曽三川公園 水と緑の館 →ここはいいです。木曽三川公園の治水タワーはなかなかの見所です。油島の千本松は上空から必ず見るべし。近くの治水神社には芝居のポスターあり。これ年代ものです。 行基寺(高須歴代藩主墓) →宝暦治水には関係ないですが、美濃高須藩の歴代藩主の墓があります。山頂近くにそらすごい立派な寺があり、それだけでも感動ものです。墓地には会津藩主・松平容保や桑名藩主・松平定敬らの父や兄の墓もある。 【岐阜県養老町】薩摩義士役館跡(平田靱負銅像・平田靱負腰掛銅像・平田靱負終焉の地碑・平田靱負辞世歌碑) →ここで平田靱負が自刃した場所です。 天照寺(薩摩義士墓) →ここの薩摩義士記念館には埋葬した甕(かめ)があります。一瞬見てかなりびっくりしました。位牌もあります。 【三重県桑名市】海蔵寺(薩摩義士墓・寳暦治水義士之墓所碑・寳暦治水薩摩義士之碑・治水観音・平田靱負木像) →平田靱負以下21名の墓がある。本堂には木像や位牌がある。 【岐阜県輪之内町】薩摩堰治水神社、薩摩堰遺跡碑・薩摩堰治水神社碑、 →ここの桜はとてもきれいでした。 【岐阜県大垣市上石津町】舛屋伊兵衛顕彰碑、高木家陣屋跡、高木家入郷地碑・美の衆陣屋跡碑 →ここにある資料館は見所豊富です。 【岐阜県海津市】海津市歴史民俗資料館 →この資料館は概観がすごい。そして内部には城の内部を復元している。なかなかオモロー!

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