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カテゴリ:幕史研
幕末の人物を研究すると、必ずあたるのが「学問」です。
とくに「陽明学」と「朱子学」はよく聞きます。 で、陽明学を知りたいと思いネットで探すと、わかりやすく紹介してありました。 王陽明(おうようめい 1472年 - 1528年11月29日)は、中国の明代の儒学者、思想家。 朱子学を批判的に継承し、学問のみによって理に到達することはできないとして、静坐など実践を通して心に理をもとめる実践儒学陽明学を起こした。 諱は守仁、陽明は号で、陽明洞(地名)に家を建てたことにちなむ。字は伯安。姓名から王守仁とも呼ばれる。文成公とおくりなされた。 父王華は、科挙を首席の状元で合格した秀才で、明の吏部尚書(官吏の人事をつかさどる長官)を務めた。浙江省紹興府の出身。 仏教、武芸、詩学など、様々な才能に秀で儒学を志し、万物に理が備わっているという朱子学の理気二元論を学んでいるとき、庭の竹の理を窮めると称して、七日七晩、竹の前に座り続け、ついに倒れたという逸話が残されている。 28歳で科挙に合格して官吏になったが、儒学の勉強を怠ることはなかった。 35歳のとき、宦官劉瑾の独断的な政治を批判する上奏文を、皇帝武宗に提出したが容れられず、劉謹の恨みを買って、はるか僻地の貴州龍場駅の役人に左遷された。彼は、この言葉も風俗も異なる少数民族の住む地にあって、厳しい自炊生活を送りながら、思索を続け、「龍場の大悟」(龍場での大いなる悟り)といわれる新学説・陽明学を誕生させた。 やがて、劉謹の専横が明らかになり、彼が追放されると、王陽明は県知事に任じられたのを皮切りに、江西巡撫や兵部尚書などの高官を歴任することとなった。 1519年には寧王の乱を鎮圧した。さらに江西巡撫のときには、地方の農民反乱や匪賊の横行に対して、民兵を組織してこれらをことごとく鎮圧した。1527年、広西で大規模な反乱が起きると、王陽明にその討伐の命が下った。彼は病気をおして討伐軍を指揮し、それらを平定した。その帰途、病が重くなって広西で死んだ。 彼は、南宋の陸九淵の思想を発展させて、「事物の理は自分の心をおいてなく、それ以外に事物の理を求めても、事物の理はない」という、心即理を明らかにした。また、天地に通じる理は自己の中にある判断力(良知)にある(良知を致る=致良知の説)と主張した。また、知と行を切り離して考えるべきでないという知行合一を主張した。 自分の心に理を求めたり、自己の中にある判断力を求めることは、全ての人に可能なことであり、「満街の人すべて聖人」と言った。こうして、儒学を広く庶民の学問に押し広げたのである。 この陽明学は、江戸時代の日本にも伝えられ、幕末の倒幕運動の指導者である大塩平八郎や吉田松陰らが、陽明学の心即理を理念にして行動した。しかし、彼らの心即理は心の至誠を貫くことと解されており、王陽明のそれとは異なるものだった。 日本における展開 日本に伝わった朱子学の普遍的秩序志向は体制を形作る治世者に好まれた。逆に陽明学には個人道徳の問題に偏重する傾向があり、王陽明の意図に反して反体制的な理論が生まれたため、体制を反発する者が好む場合が多かった。 自己の正義感に囚われて革命運動に呈する者も陽明学徒に多い。鏡面のような心(心即理)の状態に無いのに、致良知に基づいて、自分の心の叫びを行動(知行合一)に移してしまうと、革命志向になりやすいという説もある(後述の山田方谷も、陽明学について誤った理解をすると重大な間違いを犯す危険があると考えて、朱子学を十分に理解して朱子学と陽明学を相対化して理解が出来る門人にのみにしか陽明学を教授しなかったと言われている)。 江戸期の代表的な陽明学者は中江藤樹と弟子の熊沢蕃山である。 幕末での陽明学の信奉者 幕末の尊皇攘夷運動は陽明学に影響を受けている。吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山が歴史上おり、革命運動(大塩平八郎 --大塩平八郎の乱 )に呈する者が多かったのは事実である。一方、陽明学の造詣の深さで、佐久間象山と対比される備中松山藩の山田方谷は、瀕死の藩財政を見事、建て直した。 長くなりました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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≪…知行合一…≫で捉える数の言葉⦅自然数⦆は、≪…心の叫び…≫を包み込んでいる。それは、[もろはのつるぎ]である。
この物語の原型は、絵本「もろはのつるぎ」(有田川町ウエブライブラリー) (2021年09月04日 13時37分40秒) |