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幕史研

2008年06月10日
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カテゴリ:幕史研
朱子学(しゅしがく)とは・・・

 南宋の朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学・程朱学派と呼ばれる。

 当時は、程頤ら聖人の道を標榜する学派から派生した学の一つとして道学と呼ばれた。
 陸王心学と合わせて人間や物に先天的に存在するという理に依拠して学説が作られているため理学(宋明理学)と呼ばれ、また、清代、漢唐訓詁学に依拠する漢学からは宋学と呼ばれた。

 朱熹は、それまでばらばらで矛盾を含んでいた北宋の学説を、程頤による性即理説(性(人間の持って生まれた本性)がすなわち理であるとする)程顕の天理(天が理である)をもとに、仏教思想の論理体系性、道教の生成論および静坐という行法を取り込みつつも、それを代替する儒教独自の理論にもとづく壮大な学問体系に仕立て上げた。

 そこでは、自己と社会自己と宇宙は、理という普遍的原理を通して結ばれており(理一分殊)、自己修養(修己)による理の把握から社会秩序の維持(治人)に到ることができるとする、個人と社会を統合する思想を提唱した


 なお朱子の理とは、理は形而上のもの、気は形而下のものであってまったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は「不離不雑」の関係であるとする。また、気は万物を構成する要素で運動性をもち、理は根本的実在として気の運動に対して秩序を与えるとする。この理を究明することを「窮理」とよんだ。朱熹の主張する学説は性即理説といわれ、陸象山の学説心即理説と対比された。朱熹は、心即理説を、社会から個人を切り離し、個人の自己修養のみを強調するものとして批判した。一方で朱熹は、陳亮ら功利学派(事功学派)を、個人の自己修養を無視して社会関係のみを重視していると批判している。

 朱熹の学は、社会の統治を担う士大夫層の学として受け入れられたが、元代には科挙試験が準拠する経書解釈として国に認定されるに至り、国家教学としてその姿を変えることになった。


 日本への伝来と影響

 一般には正治元年(1199年)に入宋した真言宗の僧俊?が日本へ持ち帰ったのが日本伝来の最初とされるが、異説も多く明確ではない。鎌倉時代後期までには、五山を中心として学僧等の基礎教養として広まり、正安元年(1299年)に来日した元の僧一山一寧がもたらした注釈によって学理を完成した。

 後醍醐天皇や楠木正成は、朱子学の熱心な信奉者と思われ、鎌倉滅亡から建武の新政にかけてのかれらの行動原理は、朱子学に基づいていると思われる箇所がいくつもある。その後は長く停滞したが、江戸時代に入り林羅山によってその名分論が武家政治の基礎理念として再興され、江戸幕府の正学とされた。だが皮肉なことに、この朱子学の台頭によって天皇を中心とした国づくりをするべきという尊王論と尊王運動が起こり、後の倒幕運動と明治維新へ繋がっていくのである。







Last updated  2008年06月10日 10時10分05秒
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2008年06月06日
カテゴリ:幕史研
幕末の人物を研究すると、必ずあたるのが「学問」です。
とくに「陽明学」と「朱子学」はよく聞きます。
で、陽明学を知りたいと思いネットで探すと、わかりやすく紹介してありました。

王陽明(おうようめい 1472年 - 1528年11月29日)は、中国の明代の儒学者、思想家。

 朱子学を批判的に継承し、学問のみによって理に到達することはできないとして、静坐など実践を通して心に理をもとめる実践儒学陽明学を起こした。

 諱は守仁、陽明は号で、陽明洞(地名)に家を建てたことにちなむ。字は伯安。姓名から王守仁とも呼ばれる。文成公とおくりなされた。

 父王華は、科挙を首席の状元で合格した秀才で、明の吏部尚書(官吏の人事をつかさどる長官)を務めた。浙江省紹興府の出身。

 仏教、武芸、詩学など、様々な才能に秀で儒学を志し、万物に理が備わっているという朱子学の理気二元論を学んでいるとき、庭の竹の理を窮めると称して、七日七晩、竹の前に座り続け、ついに倒れたという逸話が残されている。

 28歳で科挙に合格して官吏になったが、儒学の勉強を怠ることはなかった。
35歳のとき、宦官劉瑾の独断的な政治を批判する上奏文を、皇帝武宗に提出したが容れられず、劉謹の恨みを買って、はるか僻地の貴州龍場駅の役人に左遷された。彼は、この言葉も風俗も異なる少数民族の住む地にあって、厳しい自炊生活を送りながら、思索を続け、「龍場の大悟」(龍場での大いなる悟り)といわれる新学説・陽明学を誕生させた。

 やがて、劉謹の専横が明らかになり、彼が追放されると、王陽明は県知事に任じられたのを皮切りに、江西巡撫や兵部尚書などの高官を歴任することとなった。

 1519年には寧王の乱を鎮圧した。さらに江西巡撫のときには、地方の農民反乱や匪賊の横行に対して、民兵を組織してこれらをことごとく鎮圧した。1527年、広西で大規模な反乱が起きると、王陽明にその討伐の命が下った。彼は病気をおして討伐軍を指揮し、それらを平定した。その帰途、病が重くなって広西で死んだ。

 彼は、南宋の陸九淵の思想を発展させて、「事物の理は自分の心をおいてなく、それ以外に事物の理を求めても、事物の理はない」という、心即理を明らかにした。また、天地に通じる理は自己の中にある判断力(良知)にある(良知を致る=致良知の説)と主張した。また、知と行を切り離して考えるべきでないという知行合一を主張した。

 自分の心に理を求めたり、自己の中にある判断力を求めることは、全ての人に可能なことであり、「満街の人すべて聖人」と言った。こうして、儒学を広く庶民の学問に押し広げたのである。

 この陽明学は、江戸時代の日本にも伝えられ、幕末の倒幕運動の指導者である大塩平八郎や吉田松陰らが、陽明学の心即理を理念にして行動した。しかし、彼らの心即理は心の至誠を貫くことと解されており、王陽明のそれとは異なるものだった。

日本における展開
 日本に伝わった朱子学の普遍的秩序志向は体制を形作る治世者に好まれた。逆に陽明学には個人道徳の問題に偏重する傾向があり、王陽明の意図に反して反体制的な理論が生まれたため、体制を反発する者が好む場合が多かった。

 自己の正義感に囚われて革命運動に呈する者も陽明学徒に多い。鏡面のような心(心即理)の状態に無いのに、致良知に基づいて、自分の心の叫びを行動(知行合一)に移してしまうと、革命志向になりやすいという説もある(後述の山田方谷も、陽明学について誤った理解をすると重大な間違いを犯す危険があると考えて、朱子学を十分に理解して朱子学と陽明学を相対化して理解が出来る門人にのみにしか陽明学を教授しなかったと言われている)。
江戸期の代表的な陽明学者は中江藤樹と弟子の熊沢蕃山である。

幕末での陽明学の信奉者
 幕末の尊皇攘夷運動は陽明学に影響を受けている。吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山が歴史上おり、革命運動(大塩平八郎 --大塩平八郎の乱 )に呈する者が多かったのは事実である。一方、陽明学の造詣の深さで、佐久間象山と対比される備中松山藩の山田方谷は、瀕死の藩財政を見事、建て直した。

 長くなりました。








Last updated  2008年06月06日 05時14分10秒
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2008年06月02日
カテゴリ:幕史研
気がつけば、半年近く書いていなかった。日記というより年誌になりそうな期間ですね。

さて、幕史研はあちこち行きました。

思い出しながら紹介しましょう。


☆3月2日 岐阜・三重・愛知史跡調査-宝暦治水・前編☆
☆4月6日 岐阜・三重・愛知史跡調査-宝暦治水・後編☆

●昨年末に岐阜の史跡調査を行ったときに、宝暦治水の史跡が多数あることを知り、宝暦治水のみの史跡調査をしようということになった。あるわあるわ、宝暦治水が。

ところで「宝暦治水」って何?って思うでしょう?
簡単に紹介を。

 宝暦治水とは、江戸時代の宝暦年間(1754年(宝暦4年)2月から1755年(宝暦5年)5月)、幕命により薩摩藩が行った治水工事。濃尾平野の治水対策で、木曽川、長良川、揖斐川の分流工事。三川分流治水ともいう。

 木曽川・長良川・揖斐川の3河川は濃尾平野を貫流し、下流の川底が高いことに加え、三川が複雑に合流・分流を繰り返す地形であることからしばしば洪水を引き起こしていた。

 1753年(宝暦3年)12月28日、正式に第九代将軍徳川家重は薩摩藩主島津重年に御手伝普請という形で川普請工事を命じ、翌年1754年(宝暦4年)1月16日薩摩藩は家老の平田靱負に総奉行、大目付伊集院十蔵を副奉行に任命し、藩士を現地に派遣して工事にあたらせた。 幕府が工事を命じた目的は、薩摩藩の財政弱体化であった。

 当時既に66万両もの借入金があり財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え薩摩藩は普請請書を1754年(宝暦4年)1月21日幕府へ送る。

 同年1月29日には総奉行平田靱負、1月30日には副奉行伊集院十蔵がそれぞれ藩士を率いて薩摩を出発。工事に従事した薩摩藩士は追加派遣された人数も含め総勢947名であった。

 同年2月16日に大坂に到着した平田は、その後も大坂に残り工事に対する金策を行う。砂糖を担保に7万両を借入し同年閏2月9日美濃に入る。工事は同年2月27日に鍬入れ式を行い着工した。

 薩摩義士が一丸となって、遠く離れた木曽の治水工事にやってくる。想像を絶するような幕府の命令に堪え、工事は終了する。しかし、それ以上に多数の犠牲者、多額の工事費がのしかかり藩政を圧迫する。
 幕末に、薩摩藩が幕府を倒す理由は多々あるが、この宝暦治水もその中の一因としてあるのでしょうか?

まわった史跡は下記のとおり
【岐阜県海津市】治水神社(宝暦治水義士観音堂・薩摩義士の像・追懐薩摩義士碑・内藤十左衛門顕彰碑・宝暦治水義歿社姓名碑)、宝暦治水之碑、油島千本松、三川分流碑、国営木曽三川公園 水と緑の館
→ここはいいです。木曽三川公園の治水タワーはなかなかの見所です。油島の千本松は上空から必ず見るべし。近くの治水神社には芝居のポスターあり。これ年代ものです。

行基寺(高須歴代藩主墓)
→宝暦治水には関係ないですが、美濃高須藩の歴代藩主の墓があります。山頂近くにそらすごい立派な寺があり、それだけでも感動ものです。墓地には会津藩主・松平容保や桑名藩主・松平定敬らの父や兄の墓もある。

【岐阜県養老町】薩摩義士役館跡(平田靱負銅像・平田靱負腰掛銅像・平田靱負終焉の地碑・平田靱負辞世歌碑)
→ここで平田靱負が自刃した場所です。

天照寺(薩摩義士墓)
→ここの薩摩義士記念館には埋葬した甕(かめ)があります。一瞬見てかなりびっくりしました。位牌もあります。

【三重県桑名市】海蔵寺(薩摩義士墓・寳暦治水義士之墓所碑・寳暦治水薩摩義士之碑・治水観音・平田靱負木像)
→平田靱負以下21名の墓がある。本堂には木像や位牌がある。

【岐阜県輪之内町】薩摩堰治水神社、薩摩堰遺跡碑・薩摩堰治水神社碑、
→ここの桜はとてもきれいでした。

【岐阜県大垣市上石津町】舛屋伊兵衛顕彰碑、高木家陣屋跡、高木家入郷地碑・美の衆陣屋跡碑
→ここにある資料館は見所豊富です。

【岐阜県海津市】海津市歴史民俗資料館
→この資料館は概観がすごい。そして内部には城の内部を復元している。なかなかオモロー!






Last updated  2008年06月02日 11時28分19秒
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2007年04月04日
カテゴリ:幕史研
2月から書いていないので、2ヶ月ぶりですね。

2/18 京都国立博物館の御所の襖絵展を見に行き、京都史跡ボランティア協会の「幕末維新の悲劇会津白虎隊」飯沼貞吉の子孫が語る。と水戸天狗党を聞きに行きました。
3/5-7 高知へ。仕事でいきましたので、史蹟調査の時間は早朝と夕方日没までの時間にみでしたが、宿毛・中村の県西部を探索しました。
3/25 神戸史跡探訪 龍馬会主催の史蹟散策。無茶苦茶歩きました。

今後の予定は
4/7 奈良五條で「維新話に花を咲かせよう!」13時から五條市史蹟公園長屋門前にて講演します。「坂本龍馬と天誅組」です。その後パネルディスカッションにも参加しますけど。。。
4/15 幕史研主催の岡山史蹟調査です。「幕末維新をかけぬけた岡山の人々」岡山城にてを見学のあと、市内史蹟散策。藤本鉄石史蹟じゃ。。。
5/3-5 高知史蹟調査があります。行き先は南国・野市・檮原・東津野村・佐川・日高・高知市内と盛り沢山。

今後もますます忙しい幕史研でした。
なんとはHP更新作業もしようと考えてはいるのですが・・・






Last updated  2007年04月04日 09時10分12秒
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2007年01月01日
カテゴリ:幕史研
新年あけましておめでとうございます。
昨日の紅白は白が勝ちましたね。いまさら歌合戦とは・・・少々時代遅れの感もありますが。。。

さて、2007年開幕!! 今年は絶対にいい年にするよう皆さんも頑張りましょう。
史蹟調査の一発目も、淡路島・徳島の史跡探訪で決まりました。日程はこれから調整しますが。。。

HPの更新も徐々に頑張りますのでお楽しみに。。。






Last updated  2007年01月01日 11時42分01秒
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2006年03月14日
カテゴリ:幕史研
幕史研が全面的に写真の提供や史蹟カウンセリングをして、本が出版されます。
書名は『東下覚書(とうかおぼえがき)』で、3/29日刊行予定。
出版社はマッグガーデンという、マンガ雑誌やアニメ書籍を出しているところです。

マンガがメインですが、史蹟の紹介(主に東日本)の頁もあります。

是非お買い求め下さい。






Last updated  2006年03月14日 12時03分02秒
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2006年02月24日
カテゴリ:幕史研
ただいま写真を整理中です。
昔の写真はフィルムなので、読み込むのが大変ですし、それ以上に写真に史蹟名をつけるのが一苦労です。
古いのでは15年前以上に訪問したところもあり、記憶が曖昧になっているので、写真を見ながらどこやったかな? とにらめっこしています。

写真貸出はひとまず終了しました。
それにしてもたくさんの写真があるにもかかわらず、気に入る写真が少ないこと。
当然その当時は写真貸出など考えていない分、自己満足の写真ですからね。
再度、全国各地を訪問しなければ・・・と心に決めております。
近々、仕事の関係で九州へ行きますので、その時に山口に行こうと考えていますが、一日しか時間がなく、萩にすべきか、山口にすべきか、下関にすべきか・・・ まあうれしい悩みですが・・・。

2月は何かと忙しく、史蹟調査は休憩しておりますが、3月は季節もいいので、あちこち(といっても京都になると思います)行くぞ! と心に誓いました。果たして自由な時間を作ることが出来るのでしょうか?






Last updated  2006年02月24日 10時32分04秒
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2006年02月18日
カテゴリ:幕史研
お久しぶりですね。
2週間近く日記が更新されていませんでした。
早速、写真の貸し出し依頼と史蹟アドバイスの仕事が入ってきました。
東京の幕史研メンバーS氏の仕事です。
新選組の本の中で、史蹟を紹介するページがあり、そこに写真の貸し出しと編集協力しております。
3月には発行されるそうです。
書籍名など分かり次第、お知らせします。

それにありがたいことに、幕史研とは関係のない仕事ですが、依頼があり、日夜二つの仕事を平行しております。

ということで、しばらくは更新できませんが、3月に入ったら怒濤の更新をしたいなあと考えております。

今回の写真貸し出し以前から、所蔵写真を整理しておりましたら、枚数が5000枚以上あることが判明しました。
半数近くはネガフィルムですので、ネガから写真を取り込みしております。
だいぶ終わりましたがまだまだあります。

写真のある地域がかたまっており、急いで、全国の写真を撮りに行かねばと気だけ焦っています。

そんなこんなで、春になったらあちこち史蹟調査に行きますか。






Last updated  2006年02月19日 00時05分53秒
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2006年02月05日
カテゴリ:幕史研
なかなか更新作業が進みません。他にも様々な急ぎ仕事が舞い込んできております。それはそれでいいのですが・・・。
まとまった時間がほしいですね。集中してしないとHP作りは難しいですね。
春までには、現在手元にある写真と紹介文章を作りたいな・・・と考えていますが、それは甘い考えかも・・・。






Last updated  2006年02月06日 01時05分36秒
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2006年01月09日
カテゴリ:幕史研
HP開設して1ヶ月足らずで、ブログが500、幕史研HPが400アクセスを突破しました。すごいですね。
これだけの方がHPを見てるんですね。
頑張っていいHPを作らねば。






Last updated  2006年01月10日 00時00分31秒
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