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史蹟調査

2008年06月05日
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カテゴリ:史蹟調査
 下諏訪宿(甲州道中中山道合流の地、脇本陣まるや、魁塚、下諏訪宿問屋場跡、聴泉閣かめや・和宮宿泊地、下諏訪宿本陣・岩波家、来迎寺・藤田小四郎宿泊地、赤報隊士捕縛跡、下諏訪歴史民俗資料館、松本藩士墓(水月公園)、高崎藩陣営・山の神の森、西餅屋跡、東餅屋跡、永代人馬施工所)

 和田宿(本陣跡)、長久保宿(石蔵本陣、釜鳴屋、石碑)、笠取峠の松並木、芦田宿(土屋本陣、山浦脇本陣)、望月宿本陣、八幡宿小松本陣・脇本陣、見宗寺、平出宿・水戸浪士休息地跡、高島城浪人塚、石投げ場・明治天皇、高松平十郎記念碑、雨宮の渡し(頼山陽歌碑)、佐久間象山砲術試射地碑、桑原宿象山記念館

 八幡原史跡公園・川中島、象山神社、象山記念館、佐久間象山生誕地、煙雨亭、桜賦、望岳賦、高義亭、文武学校、旧白井家表門、真田邸、恩田木工民親銅像・屋敷跡、日本電信発祥の地・松代藩鐘楼、佐久間象山墓(蓮乗寺)、聚遠楼址

 赤松小三郎遺髪墓(月窓寺)、旧上田藩主屋形跡・上田高校、戊辰役上田藩従軍記念碑、赤松小三郎記念碑、上田城址

 大阪から上田まで6時間以上かかりました。しかし! それ以上に素晴らしい体験と感動がありました。史跡調査の真髄を学んだような気がします。

 幕末三大義挙の「生野義挙」「天誅組の変」をほぼ制覇した私たちにとって、天狗党は厄介な存在でした。なぜなら移動距離が長いこと。生野義挙は兵庫県の生野銀山付近のみ、天誅組は大阪から奈良県下を縦断したので、これも移動距離は短い。

 天狗党は水戸で挙兵して、福井の敦賀まで移動します。走行距離はすごいです。壊滅の敦賀近辺は押さえました。今回は長野県下の八幡宿から下諏訪宿まで押さえました。


天狗党の乱とは? 
 元治元年(1864)3月、水戸藩尊攘派のなかでも過激派であった藤田小四郎・竹内百太郎らは、湊・小川・潮来などの郷校に屯集する下級藩士・郷士・村役人・一般農民などを糾合、町奉行田丸稲之衛門を首領として筑波山で挙兵、「天狗党」と称しました。

 この天狗党には全国から尊攘運動有志が集まり、1000人以上を数えたといわれています。その後、日光東照宮を参詣、下野国太平山に屯集、5月に再び筑波山に戻ります。

 この間、田中愿蔵は別働隊を組織して栃木町や真鍋宿などに放火、軍資金調達を行い、悪評を高めました。このような状況下、幕府は天狗党に対する取り締まりを周辺の諸藩に命じました。

 これに応じた水戸藩内の反天狗党、反尊攘勢力である市川三左衛門・朝比奈弥太郎らの諸生党の人々は、江戸に上って藩政を掌握、天狗党追討を決定しました。一方、武田耕雲斎・村田理介・榊原新左衛門らの尊攘派は、6月から7月にかけて大挙して上京、藩政の主導権を再び諸生党から奪い返します。しかし、この段階では、幕府・諸藩・水戸藩諸生党連合の追討軍との天狗党の戦いが、下妻・高道祖で始まっていました。

 この下妻・高道祖戦争は天狗党の勝利となり、敗れた水戸諸生党は、手薄になっていた水戸城に戻り、これを占拠しました。このような混乱に水戸藩主徳川慶篤は、その収拾のために自分の名代として宍戸藩主松平頼徳を派遣しましたが、これに多数の尊攘派が同行、「大発勢」といわれました。

 以降、元治元年9月を中心に、常陸国内を舞台としては天狗党と反天狗党勢力との戦いが繰り返されることになります。10月,天狗党勢は幕府追討軍に那珂湊付近の戦闘で敗れ、翌11月、800人あまりが京都の一橋慶喜を頼って西上を始めます。

 武田耕雲斎を総裁として幕府や諸藩の追討軍と戦いながら、下野・上野・信濃・飛騨を通り、越前国新保に至り、ここで金沢藩に降伏、翌年敦賀において主だったもの350人余りが斬罪に処されました。この天狗党事件には、それまで近世的な秩序のなかにとじ込められていた一般民衆が、天狗党側あるいは反天狗勢力として参加していきます。幕府体制の崩壊前夜という時代の流れのなかで、一般民衆が歴史の表舞台に登場した最初の事件でした。


「天狗党」の由来は?
 保守派(門閥派)の中には代々名門の家を受け継いできた上級武士が多く、改革派の中には下級武士が多かった。その為、「成り上がり者が調子に乗っている(天狗になっている)」といった侮蔑の意味を込めて保守派が改革派をそう呼んだところから来ているという説。
改革派は世直しをするものとして、自らを天狗と称したという説。

佐久間象山 
 文化8(1811)年2月28日~元治元(1864)年7月11日 長野生まれ。実名は国忠のちに啓、号は象山。父は松代藩の祐筆。天保4年(1833)に江戸へ出て佐藤一斎の私塾に入るが、3年後には松代に帰る。10年(1839)江戸に塾を開く。

 老中となった藩主真田幸貫より海外事情の研究を命じられ13年(1842)に「海防八策」を上書。安政元年(1854)吉田松陰の事件に連座して松代に蟄居。文久2年(1862)赦免。元治元年(1864)幕府の命を受けて上洛し開国論を主張したが、尊皇攘夷派によって暗殺される。







Last updated  2008年06月05日 12時02分20秒
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2008年06月04日
カテゴリ:史蹟調査
備前藩御屋敷跡、川田甕江生家跡、西爽亭、新島襄玉島上陸の地

 奥さんの母が岡山の玉島(現在の倉敷)出身なので、里帰りを兼ねた史跡調査に出かけた。昨年玉島上陸したときになかった新島襄の石碑にはビックリした。他にも前回見逃していた史蹟を調査した。残念ながら西爽亭は休館日で見学できなかったが、母は、玉島に柚木家があって大きな屋敷があったのは覚えていたが、それが西爽亭だったとは。とひとしきり感動していた。

 記憶を辿りながら書いています。そうそう、幕史研の皆さん!! 西爽亭横に駐車場が出来ていました。これもビックリ!!

西爽亭と熊田恰(くまた あたか:1825~1868)
 備中松山藩士熊田竹兵衛の3男として生まれた熊田恰は、慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いの際、幕府方の藩主板倉勝静の親衛隊長として大坂詰で活躍しました。
 板倉侯から帰藩の命を受けた恰は、備中玉島港に上陸します。しかしこの時、松山藩は鎮撫使(明治維新政府が任命した臨時の征討長官)の征討を受けており、松山藩は恰の帰藩を認めませんでした。事情を知った恰は、行動を共にしている部下150余人の助命を嘆願し、西爽亭の次の間で自刃しました。
 この史実は、熊田恰が自らの命と引き替えに多数の部下の命を救い、その結果、幕末の戦禍から玉島が救われた話として、現在も語り継がれています。









Last updated  2008年06月04日 05時42分25秒
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2008年06月03日
カテゴリ:史蹟調査

陽明園、中江藤樹記念館、藤樹神社、中江藤樹墓、藤樹書院跡

 陽明学の大家である中江藤樹の史跡を偶然発見。滋賀県高島市にあった。予備知識なしで行ったが、充実の時間を過ごせた。高島市は琵琶湖の北西部である湖西地域にある。近隣には近藤重蔵墓(蝦夷地探索をし、択捉島に上陸した幕府役人)や浅見絅斎書院がある。近いうちに行きたい。
滋賀湖西地方にもたくさんの隠れた史跡がありますね。少し感動しました。


中江藤樹って?

 1608(慶長13)年4月21日~1648(慶安元)年10月11日は、近江国(滋賀県)出身の江戸時代初期の陽明学者。近江聖人と称えられた。字は原(はじめ)、諱は惟命(これなが)、通称は与右衛門(よえもん)。別号に珂軒(もくけん)、顧軒(こけん)。「別号に?軒(もくけん)、頤軒(いけん)。出典 先哲叢談/原念斎・漢学者伝記集成/竹林貫一編」

 農業中江吉次の長男として誕生。9歳の時に伯耆米子藩主加藤家の150石取りの武士である祖父・徳左衛門の養子となり米子に赴く。1617年(元和2年)米子藩主加藤貞泰が伊予大洲藩(愛媛県)に国替えとなり祖父母とともに移住する。1622年(元和8年)祖父が死去し、家督100石を相続する。1634年(寛永11年)27歳で母への孝行と健康上の理由により藩に対し辞職願いを提出するが拒絶される。脱藩し京に潜伏の後、近江に戻った。そこで、私塾を開く。

 1637年(寛永14年)伊勢亀山藩士・高橋小平太の娘・久と結婚する。藤樹の屋敷に藤があったことから、門下生から藤樹と呼ばれるようになる。塾の名は、藤樹書院という。やがて朱子学に傾倒するが次第に陽明学の影響を受け、格物致知論を究明するようになる。

 1646年(正保3年)妻・久が死去。翌、1647年(正保4年)近江大溝藩士・別所友武の娘・布里と再婚する。 1648年(慶安元年)藤樹が亡くなる半年前に郷里である小川村(現在の滋賀県高島市)に「藤樹書院」を開き、門人の教育拠点とした。その説く所は身分の上下をこえた平等思想に特徴があり、武士だけでなく商工人まで広く浸透し「近江聖人」と呼ばれた。代表的な門人として熊沢蕃山、淵岡山、中川謙叔などがいる。







Last updated  2008年06月03日 13時07分00秒
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2008年06月02日
カテゴリ:史蹟調査
4月20日 大阪・南河内史跡調査
伴林光平西願寺跡、丹南藩陣屋跡、狭山陣屋跡、廿山街道、錦織神社、水郡邸、養楽寺、西方寺、杉山家住宅、仲村家住宅、白木陣屋跡、長野一郎碑、松田重助碑、竹内峠、吉田松陰宿泊地、竹内村・綿弓塚

 龍馬会主催のマニアックコース。でも充実感120%。素晴らしい内容と名講師の冴え渡る解説にうっとりした。昨年7月28日にK浦氏と一緒に行った場所。竹之内街道など、まあイベントで行くことはないだろうと思っていましたが、なかなかにくい演出でした。
 吉田松陰宿泊地は概観のみの見学でしたが、昨年訪問の折にはずうずうしくも中に入らせていただきました。

4月21日 大阪・奈良史跡調査
大阪-磐船神社(伴林光平歌碑)、奈良高取-鳥ヶ峰古戦場跡、池田邸屋敷跡、高取城移築門、伊勢屋屋敷跡、高取城松之門、田塩家屋敷、家老屋敷長屋門、高取城二の門(子嶋寺)

 仕事の合間に寄りました。磐船神社は我が家から来るまで20分の所にあるとても古い神社。そこの伴林光平の大きな歌碑がある。K浦氏が昨年発見した。高取城には登らなかったが、念願の鳥ヶ峰古戦場に行くことが出来た。
 高取の町並みをぶらぶら歩きで堪能しました。城の門が移築されているところもあり、風格のある町並みでした。







Last updated  2008年06月02日 11時38分31秒
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2008年01月10日
カテゴリ:史蹟調査
12月23日 早朝から大阪を出発し、岐阜方面へ。
ほとんど皆無に近い状態であろう岐阜にも幕末の史跡はたくさんありました。あるもんですね。
今回まわったのは下記のコースでした。

岐阜公園(板垣退助銅像・明治天皇銅像・織田信長銅像・岐阜城跡・山内一豊千代婚礼碑)、加納宿(明治天皇休息所・和宮休息所)、河渡宿、美江寺宿、赤坂宿(赤坂港跡)、所郁太郎生誕地・銅像、妙法寺(所郁太郎墓・戸田三弥墓)、和宮公園、梁川星巌邸跡・記念館・庚申塚)、紅蘭生誕地、江馬細江退筆塚

ここで時間切れとなり、大垣は後日になりました。宝暦治水の薩摩義士関連の史跡も山のようにあり、今度は大垣+宝暦治水を行くことになりそうです。

まだまだ行くところはたくさんあります。






Last updated  2008年01月10日 11時26分25秒
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2008年01月07日
カテゴリ:史蹟調査
新年明けましておめでとうございます。
2008年がスタートしました。

2007年の下半期はあちこち行きましたよ。

8月26日、大阪龍馬会で「天誅組」を語りました。2時間近く、時間切れになりましたが存分に語りました。

9月22日、全国龍馬ファンの集い高知大会に参加。

10月7日には和歌山と大阪南部の史跡調査。とくに大阪南部は吉田松陰が立ち寄った庄屋など目玉がたくさんあり、勝海舟と和歌山も凄く勉強になりました。

11月18日、大阪龍馬会の墓前祭に参加。月照上人スペシャルで、ゆかりの地をたくさんまわりました。

12月6-8日には鹿児島へ。約90箇所の史跡を訪問。十数年ぶりに行きました。
たくさんの史跡に満腹のひととき。良かったですね。

12月23日には岐阜のマイナーな史跡を行きました。和宮パラダイスと中山道を満喫。

とまあ、たくさん行きました。一日も早くアップしたいのですが・・・ 時間がないね。

2008年も幕史研はあちこちネズミのようにチョロチョロ走り回ります。

春には、お手伝いしたDSのソフトも発売されます。詳しいことが決まりましたら報告します。







Last updated  2008年01月07日 13時41分27秒
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2007年08月01日
カテゴリ:史蹟調査
7/28と29に史跡調査に行ってきました。

7/28は急遽、河内の史跡調査に行きました。
伴林光平先生止住西願寺跡、天誅組松田重助先生位牌所、竹ノ内街道、司馬遼太郎が幼少期に過ごした家、泳いだ上の池、吉田松陰が泊まった旅館(現在は個人宅で見学不可でしたが、ラッキーなことに見せて貰いました。泊まった部屋を)、竹ノ内街道にある天誅組の石碑など。

本当にラッキーでした。河内の天誅組史跡はたくさんあり今回も満喫しました。


7/29 愛知へ
伊賀神戸にある吉川治太夫忠魂碑(天誅組)、伊賀神戸城址、深見篤慶寄進の灯籠、伊藤雨村先生塾跡、松本謙三郎歌碑・生誕地・墓、宍戸弥四郎生誕地・墓、伊藤健吉(三弥)墓、近藤勇首塚など。

三重の鈴鹿から始まって、愛知の豊明、刈谷、岡崎と行きました。大阪から往復600キロ。
渋滞もなくスムーズに、天気も良くなかなかのコースですよ。






Last updated  2007年08月01日 22時39分59秒
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2007年07月14日
カテゴリ:史蹟調査
さあ~て 次回の史蹟調査は・・・

7月29日に伊賀神戸と刈谷です。

伊賀神戸には天誅組に協力した吉川治大夫の記念碑があります。誰? と思われますが、天誅組のなかでは、少しばかりマニアックですがやってることが素晴らしい!! 人です。

刈谷は、松本謙三郎と宍戸弥四郎の生誕地があります。
松本謙三郎は松本けいどうとして有名で、三総裁の一人です。
片眼を失明して、天誅組の戦いで、もう片方も失明します。
でもすごい人なんですよ。この人が・・・

宍戸弥四郎は最後の突撃隊の一人で、遺体の衣服から埋葬料としてお金を包んでいたんです。
死に際を大事にするサムライはたくさんいますが、死んだ後のことを考えるサムライはそういません。だから素晴らしいですよね。

そんな二人に会いに行きます。






Last updated  2007年07月14日 02時58分12秒
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2007年06月06日
カテゴリ:史蹟調査
5月の後半に、姫路史跡調査がありました。
マニアックな龍馬会のマニアックな講師によるマニアックな史跡調査でした。
姫路は知らないことがほとんどで、大変勉強になりました。
知らない地域がまだまだあることを実感させられました。

6月2~5日の2泊3日で関東の史跡調査に行きました。
これは編集者兼ライターであるS氏からのお誘いで、次回学研の特集を組むことから急遽写真撮影と現場の取材に向かいました。
伝習隊や伊庭八郎、古屋作左衛門関連の旧幕府軍が関東近郊で戦った現場を紹介する企画で、箱根の遊撃隊墓地や激戦地、本邦初の遊撃隊士の○○(これは記事を読んで確認下さい)、埼玉の飯能で起こった飯能戦争、宇都宮戦争や梁田戦争(弾痕の残る柱)、鬼怒川公園にある小原沢の戦いの戦跡、塩原妙雲寺の本堂など盛りだくさんのコースでした。
140年前の戊辰戦争の戦跡が現在に残っていることに感動しましたが、地元の方の伝承話は資料や文献には載っていないことばかりでしたし、史跡を保存されているご厚意に感謝しました。

書籍名や記事内容は後日出版協力のページで紹介します。







Last updated  2007年06月06日 13時20分26秒
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2007年05月07日
カテゴリ:史蹟調査
日記から月記になっていますね。

さて、最近の幕史研は色々忙しかったです。

4/7 奈良県五條市で天誅組のイベントがありました。その中で「天誅組と坂本龍馬」という演題で1時間ほどお話ししました。皆さん熱心に耳を傾けていただき、話す方も楽しくお話しできました。その後のパネルディスカッションも良かったですよ。おいしいお酒を飲みました。

4/15 岡山城博物館で「幕末維新の岡山の人々」を見学。
資料を見学し、土居の四ツ塚、石井宗謙生誕地、滝善三郎義決碑、藤本鉄石生誕地、玉島の熊田あたか関連の史跡を満喫しました。

5/3-5 高知へ
3日は渋滞をすり抜けて、14時過ぎに南国へ。南国と野市の史跡を満喫。
4日は檮原、東津野、佐川、葉山、日高の史跡を堪能。
5日は高知市内をいやというほど史跡をまわりました。どのぐらいまわったかカウントしていませんがすんごい数です。龍馬記念館と桂浜を最後に、夕方18時に出発、帰阪は1時過ぎでした。
渋滞には若干あいましたが、車中は替え歌やおもろい話で盛り上がり、苦痛ではなかったです。
ベストメンバーでしたね。

3才の長男は龍馬に会えて大喜びでした。いい思い出が出来たようです。
なんとか訪問地をアップしたいと思いますが、いずれまた。






Last updated  2007年05月07日 12時31分22秒
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