4477 こんな夢をみた
photographer Tamaji ・こんな夢をみた バリ島ウブドの白拍子グスティ・アユ・スリ・ビダニのチャーターフォトである。世界中の女性写真家が、100人束になってかかってきても負けないとの自負が僕のウブドの白拍子には在る。相手は篠山である。 Santa Fe にはかなりの不満があると問いかけている。逸材を生かしきれて居ない。散漫な写真集であると僕は主張する。彼はイロイロと機材の説明をする。ハッセルブラッドを持っているようだ。ペンタックス6x7をハッセルブラッドのプラナー80mm使用マウントにしてある。ハッセルブラッドは6x6cmのフィルムだ。機材は道具でしかなく作品とは被写心と撮影心との融和と煌めきのいっ瞬である。漫然と撮影してはならない。音楽は聴こえている。鳴っているのはバッハのアリアと30の変奏通称ゴルトベルクバリエーシヨンのアリア部分だけ。第1変奏が始まらない。しかし僕は機材ではなく被写体の女性の目を通してレンズを射抜く心のうつろいが瞬間瞬間に 変化してゆくその時々の煌めきに似たような美質と、撮影者との間での心と心の波長にシヤッタァーが反応するのが 写心 ではないかと主張する。しかし彼はあくまでも素材と機材とロケーションにこだわっている。光のいたずらでしかないのではないだろうか。ハッセルブラッドらしいカメラを彼は手放さない。アリアのピアノによるメロディ~は休み無く続いているがあのり気にはならない。ロングにひいた大風景の何処によさがあるのか。余白はたしかに芸のうちである。Santa Fe は凡庸であるとの自説は曲げない。そして篠山某はどこまでもどこまでも、機材と素材とロレーションのバランスについて騙りつづけている。僕は普段着のグステイ・アユ・スリ・ビダニを例にとって話を続ける。女性は化けるのではない。女性はというよりも人間は多様性を秘めており、異性間の意識下でのやりとりが表現の本質として此処にある。時にネコのように。時にジャガーのように。またあるときはモルフォのように変幻自在に心を変える。しかし撮影者とビダニとの心と心の融和が不完全だと絶対に成り立たない世界が此処にある。普段着の彼女が何処まで心を許しているのかはその普段着の笑顔に在る。15年間のつきあいが為せる技としか表現の仕様がない。Santa Fe は機材と素材とロケーションでしかない。彼はソレが重要だと自説と本の出来上がりを譲らないのはあたりまえだが素材を生かしきれて居ない。もっと深みに至る表現が出来なかった感が否めない。せっかくの素材だったのに生半可な仕上がりになったのが僕には不満だ。篠山某はめのまえでゆらゆらと揺れている。なんだかそれらをとりまく空気間が白濁してきたようだ。煙ではない。ドライアイスのような流れも無くただ目の前がしろく濁っているように感じる。いっこくも早くこの場所から移動しなくてはならないという恐怖感が襲ってくる。外回りはガラス張りの湾曲した窓ガラスが連続している。外光は入っているのに内部は暗い。暗い内部には数多くのコンピユーターがすえつけられている。ざっと50台ほどはあるだろう。黒いPCと暗い室内は先ほどまでと違って音がしない。沈黙の中で僕は自分のFMVを、このPC郡の隙間にはめ込もうとしているがこれがまたなかなかうまくはまらない。たしかインターネットの接続コードは後ろ側にあったはずだ。電源を入れるためのタッブのクチが見当たらない。湾曲したガラス窓からの入社光はずいぶんと暗い上にPCまわりの黒い色どもには困ったな。早く電源を確保しなければこんな夢をみた 玉地俊雄