5021 新宝島の大成功で訣別した手塚治虫と酒井七馬
手塚治虫 玉地俊雄 ・ 新宝島の大成功で訣別した手塚治虫と酒井七馬酒井七馬は新宝島の最もイイトコどりの表紙と口絵と裏表紙をカラー刷りで書いた。手塚治虫は描かせてもらえなかった。新宝島はスチーブンソンの宝島と、ロビンソンクルーソーとターザンをゴチャマゼに攪拌したようなストーリー展開であった。それまでの日本のマンガは右横から出てきた人物がセリフを喋りつつ左へ進む。これを繰り返していた。1946年7月8日手塚治虫先生は大坂ときをさんと西成区玉出の酒井七馬を尋ねた。新宝島はこのとき始まったのである。新宝島の冒頭は、奥から小さいオープンカーを少年か運転しつつ、カメラの中央目線でまっすぐ盲スピードで先進肉薄してくる。ここで読者はあたかも映画を見ているような興奮を受けた。酒井七馬は手塚治虫に何度も何度も掻き直しを要求したので2人の間は険悪になっていった。描き直しの原稿は手塚さんの母親が酒井七馬に届けたこともあった。しかし、手塚さんの母親はこの新宝島が息子の作品として世に出ることを大いに期待していた。しすし同時に絵に手を加えられたと手塚治虫はおおいな不満を持ち続けた。ターザンは全て手塚治虫の絵では無い。そして、決定的な大問題は新宝島の奥付にあった。著者は手塚治虫ではなく酒井七馬になっている。さらに、著者が権利を持つ検印の部分にも七馬の印鑑が押印されている。これでは手塚治虫の権利も名誉も無い。酒井は手塚を小僧ッ子として扱い手塚治虫は自分は漫画家だと自負していた。たまりに溜まった憤懣から2人は訣別してしまった。しかし、新宝島は日本の漫画界のビッグ・バンとなって今日の日本マンガの隆盛の元となったのであった。公益社団法人日本漫画家協会会員 玉地 俊雄