2018/11/15(木)06:29
侍 遠藤周作
紹介文
藩主の命によりローマ法王への親書を携えて、「侍」は海を渡った。野心的な宣教師ベラスコを案内人に、メキシコ、スペインと苦難の旅は続き、ローマでは、お役目達成のために受洗を迫られる。七年に及ぶ旅の果て、キリシタン禁制、鎖国となった故国へもどった「侍」を待っていたものは――。政治の渦に巻きこまれ、歴史の闇に消えていった男の“生”を通して、人生と信仰の意味を問う。
侍改版 (新潮文庫) [ 遠藤周作 ]
久しぶりにちゃんとした純文学読んだわぁ。
この小説は支倉常長という方をモデルにはしているようですが実際の支倉さんは天皇家を先祖に持ち600石をもつそこそこの武将でこの本のような地侍ではなかったようです。
著者自身、この物語は「この作品は奥州の遣欧使節、支倉常長をモデルにしたが、その伝記ではない。彼の悲劇的な大旅行を私の内部で再構成した小説である。 /常長にとって、この旅行は、単なる旅行ではなかった。彼はヨーロッパの王に会いに行き、事実、エスパニヤ王やローマ法王に出会ったが、しかし本当に廻りあったのは惨めな「別の王」だったのである。私の主人公もまた同じだった……。」とおっしゃっているように史実をもとにしたフィクションなのだそうです。
もちろんはじめはキリスト教をまったく受け入れなかったのですが、最終的には”侍”もその下男も美しい教会の司祭や、ましてや’布教という名の”征服”をもくろむ宣教師が言うイエス・キリストではなく貧しい家庭に飾られている”十字架の上の貧相な男”を自分の人生に添い遂げてくれる”何か”として受け入れます。
たくらみの宣教師・ベラスコの説教はまったく響いていなかったようですが。
”侍”は語ります。
『俺は形ばかりで切支丹になったと思うてきた。今もその気持ちは変わらぬ。だが御政道の何かを知ってから、時折あの男のことを考える。なぜ、あの国々ではどの家にもあの男のあわれな像が置かれているのか、わかったような気さえする。人間の心のどこかには、生涯、共にいてくれるもの、裏切らぬもの、離れぬものをーたとえ、それが病みほうけた犬でもいいー求める願いがあるのだな。あの男は人間にとってそのようなあわれな犬になってくれたのだ。』
そして苦労して帰国したというのに政情が変わったというだけで冷遇され褒美を与えられるどころか死刑に処されることになるというのに、恨み言一つ言わず仕置きを受けます。
それに比べ、キリスト教の教えは日本人には迷惑だ、とはっきり言われているにもかかわらず自分の使命だと勝手に執念を燃やし何度も日本にやってくる宣教師・ベラスコ。
密航して再入国の際、こういいます。
『日本を今、眼前にしています。主のために征服すべき日本を』
征服。
要するに征服欲。
とらえられて死を目前にしてようやく
『主よ、どうか日本をお見捨てくださいますな。その代わり、この国を利用したわが罪の償いのためにもお国のまことの救いのためにも、私の命をお召しくださいまし』
とやっと自分の欲を認めます。
けどね。
アンタが帰ってきたおかげで侍、殺されちゃったよ?
「実はな、内密ではあるがお前と南蛮の国に参ったあの長谷倉と西と申すものは、切支丹ゆえ、お仕置きとなったぞ」
と、黙っていたベラスコの鉛色の唇に嬉し気な微笑みがうかび、
「ああ」その唇から声がこれ、神父に振り向いて叫んだ。「私も彼らと同じ所にいける」
と、本文にはありますので実際にはアンタのせい、とははっきり言われていないのだけれど。
ここではっきりと「お前が帰ってきたおかげでお仕置きになった」と言われても喜んだのでしょうかね?
彼らも神様のもとに行けたのだ、って。
なんていう自己満足。
なんていうおしつけ。
宗教ってそんなストーカのような独りよがりなものなのかしら?
大体いらないっていうものを押し付けるなんて押し売りかストーカー。
心底親切心からやっていたとしても、それは犯罪なのよ。
皆を天国に行けるようにしてあげなくちゃ、なんて大きなお世話。
じゃ、キリスト教以前の人間はみんな不幸せだったわけ?
その時代、その土地でそれなりに幸せなことだってあったと思いますけどね?
それは本当の至福ではない、なんてどうして他人に決められよう?
ワタシも神とかスピリットとか呼ばれる”何か”がいるのではないかとは信じますが組織となった宗教は何一つ信じる気も話を聞く気もしません。
どこだかの神様を信じてる人に意見はしませんがそれを信じてない人たちも放っておいてください。
そしたら大概の戦争、なくなるしね?