君原の話
君原の話君原(きみはら)は、毎日、毎日、来る日も来る日もベルトコンベアから流れてくる、ダンボールに入った日本酒のビンを検査する仕事をしていた。君原の十倍以上の高さがある、工場の高い窓から日がさし、やがてその窓が藍色に塗り変わるまで、ただ、一定のスピードに流れてくるダンボールをのぞき、これから日本酒が注がれる空のビンが割れていないか確認した。仕事に不満はなかった。職場の人間関係にもサラリーにも問題もなかった。だが、ときどきわけもなく哀しくなった。その理由を考えようとすると、なぜか頭の中をコンベアに乗った数字がやってきた。1,2,3,4,5,数字はとりとめもなくかけめぐり、その循環に疲れたとき、君原の思考は止まった。ある日、君原は、ずっとつきあっていた女性にサヨナラを告げられた。「同じことをただ繰り返す生活が、 イヤになったの」彼女は、ここからずいぶん離れたところで結婚するのだという。君原は泣いた。そして、彼女に渡すはずの安い指輪を仕事場に流れてきたビンの一本に入れた。そっと入れた。それが、この仕事をする者にどれだけいけないことか知っていた。流れてきた銘柄の日本酒を彼女が好きだった、というたったそれだけの理由で、君原は指輪と職を失くしてしまった。次の仕事はなかなか見つからなかった。君原は毎日職安に行き、その帰り道、毎日川原に寄った。川は、ただ水をたたえて流れていた。1,2,3,4,5,君原は、数字を数えた。そしてその循環に疲れたとき、家路についた。毎日、毎日、来る日も来る日も見ているうちにたった一つー気づいたことがあった。それはまったく同じ様でありながらも、何もかも違っていることだった。数えている数字さえ、その声の質やトーン、そしてその時の気分によってずいぶんと左右されるのだった。「どうして気づかなかったんだろう」君原は後悔した。もっと早く知っていたら、彼女に伝えられたのかもしれなかったのに……。そのとき、ふと川原に打ち上げられている光るものを見つけた。それは一本のビンだった。拾い上げると、指輪が入っていた。 しっかり閉められた蓋。「さようなら」の手紙。 君原はビンをふった。水琴窟のような音がした。君原と同じような、それでいて、君原とは違った事情で指輪を入れた人間が、この世界中のどこかにいることが、ちょっとだけ嬉しかった。「さぁ、いつもとは違う場所に行ってみよう」陽の光にビンをすかし、そっと微笑む。まだ、日暮れまでには十分な時間があった。(つづく)