昨日で……。
『山神地区のパッチワーク』が、ちょうど昨日で丸一年になりました。気が付くと、200回に到達しようとしています。皆さんの承認がなければ一日たりと続けられなかったと思います。本当に感謝しております。ありがとうごさいました。その前の『田んぼ日和』やさらにその前に、やっていたブログ(『いやしばなな』っていうのをやっていたんです)を合わせると、2年近くここで何かしらを表現してきました。初めにブログを開いたときは、教師を辞め、一人悶々としていた時でした。次のブログを始めた時には、たくさんのご縁と援助のおかげで、茂木で農業実習がはじめられたときでした。視野が広がった時期でした。その後、やっぱり物語が書きたいなと、去年からパッチワークを始めました。その都度、自分としては書きたいものを書いたつもりですが、今思うと、核心にはなかなかふれられず、また、それが本当に核心なのかという自信も書いたことでそれらを受け止める責任を負う器量もありませんでした。なんとなく書きたいものの外側をぐるぐるまわり核心と思えるものとの間合いをとっていました。先日、教室である子を叱りました。授業中、勉強がやりたくなくってイライラ、カリカリして、あげくの果てに隣の子とケンカになりました。勉強の嫌いな子です。予想はできました。なぜなら、内容増でちっとも終わらない算数の授業中でした。早く予定のところまで進めたくてその意義や価値すらよそに置いて、猛スピードで授業をしていました。子どもたちにはその趣旨を説明してわかってもらったつもりだったのでかなり感情的になりました。「勉強なんかやりたくねぇんだよ」「どうせオレはバカだからわかんねぇし、 できねぇんだよ」その子は、そうやって自分をいじめだしました。「そんな自分をいじめないでよ」気が付くと、その子をなぐさめていました。すると、はた、と気づきました。「人から決めた授業なんかやりたくない」「他人が決めたテンポやノルマで 授業をさせられているように感じるからイライラするんだ」じつはさけんでいるのはその子じゃなく。自分だったのです。その子が身をもって教えてくれたのです。そして自分が小さいころ、その子みたいに、人から管理されることやテンポを強要されること、ルールでがちがちに縛られることが大嫌いだったことを思い出しました。今でも大嫌いなことも。最後は笑っていました。子どもは、あれだけムキになって叱った人間がきゅうに笑い出したからとうとう頭がおかしくなったのかもしれないって思ったでしょう。学校の仕事がいいとか悪いとかではなく、退職していろいろな体験をさせてもらって、気づいたんです。いや、はじめっから知っていました。知っていたから一度やめて、やめた自分が(自分にとっては)正しい選択だったと確認したのです。今、現実として戻ってきていますし、春まで、あるいは一年くらい、この仕事をするでしょう。子どもといることは天職の一つだと思います。ですが、他人の決めた教科を他人の決めた枠の中で教えることは天職ではありません。何度も迎合しようとしました。自分としては努力したつもりです。でも無理でした。うまく説明できないのですが、ある事象が三方向くらいから見えて、その解決方法や解釈方法にまったく納得できないのです。「どうしてそうなっちゃうの?」って。今までは、遠慮していました。お世話になっているものへの批判はいけない、と。でも抑圧するから、ときどき出てくるものがかえって体制への毒づいた批判になりました。批判ではなく、自分の中の違和感を伝えていけばいい、と確認しました。そしてその違和感を感じる自分をもっともっと尊重していいんだと思うようになりました。もしかすると、その違和感こそ自分が書きたいものなんじゃないかな、とも思えました。そのような経緯で、一度、このブログを閉じて、タイトルや内容を変えたものを書きたいと思いました。かねてからこの時期を待っていたのかもしれません。一年間、読んでくださりありがとうございました。この場をお借りして心より感謝いたします。そしてよい師走をお過ごしください。(おしまい)