気ままな坂東武者

2007/08/30(木)23:32

坂東武者とは

陸道をゆく(32)

【東国と騎馬文化】(「街道を行く―甲州街道」より) 任那が6世紀のはじめに衰弱し、ついに日本の大和王朝と同盟関係にあった百済に一部を割譲し、さらに新羅にすべてをとられてしまった・・・。くだって7世紀の後半、朝鮮半島の情勢変化とともに百済のの国運があぶなくなった。この「朝鮮半島の情勢変化」というのが、武蔵の国にひびくのである。 滅亡した百済人は、当然ながらさかんに倭に流入した。どれほど多くきたかはよくわからないが、記録でわかっているのは、白村江の敗戦の翌々年、 「百済の百姓男女四百余人を以って、近江の国神前(崎)郡に居く」 とある。次いでその翌年、 「百済の男女二千余人を以って、東国に居く」 とある。二千という数字は大きい。生存条件さえよければ100年で20万人に達することもできるであろう。 「東国に居く」 というこの東国は、かならずしも関東ではない。古くは美濃(岐阜県)あたりから東がアズマだが、大和政権の拡大とともにアズマ地帯は東へ東へとゆき、おそらくこの天智帝のころは遠江(静岡県)から関東にかけてのブロックを指すのだろう。 百済人がその故郷にあったころ、戦闘にあけくれていた。北は高句麗の圧迫をふせぎ、東は新羅と戦いつづけていたから、かれらは日本地帯のひとびととはちがい、戦闘に習熟していた。 しかも百済人は、北方の高句麗騎兵になやまされつづけていたから、当然、騎射には習熟していたにちがいない。 このころの大和から西日本一帯は、瀬戸内海があるため船には長じていた(白村江の海戦で敗れたものの)。しかし馬にはきわめて不熟練であり、第一馬そのものがあまりいなかった。 そういう日本列島にあって、その東の辺陬に突如馬文化が成立するというのは、百済人二千の入植という事実をはずしては考えられない。 この集団が、日本史上、われわれが誇る、もっとも典型的な日本人集団とされる坂東武者に変わってゆくことを思うと、東アジアの人間の交流や、文化の発生にかぎりないおもしろさを覚える。 朝鮮半島は旱魃がしばしばあって、梅雨があり台風の多い典型的なモンスーン地帯である日本列島よりもはるかに農耕がむずかしい。 その半島で農耕生産を安定させようとおもえば当然、灌漑などの農業土木が発達せざるをえないのだが、2千人の百済人たちはその技術をもって武蔵国の田園をふやして行ったにちがいなく、田園がふえるにつれ当然ながら人口もふえた。  開墾地主が、簇生した。その開墾地主が、つまりは武士である。これが荘園制度とからんでいわゆる坂東武士団がつくられてゆく。 かれらは自分の開墾地の擁護をたのむために京都朝廷に口きき役として源氏や平家などといった筋目の京都人を棟梁に押したて、みずからの家系をも源平籐橘に系譜にあわせて創ってゆき、つまりは系譜の上からいえばたれもが桓武天皇や清和天皇の子孫になりおおせて、たれもが百済人と土着人の子孫といわなくなるのだが、それはいわば系列化に入るための原理で、べつにあやしむに足りない。 「兵は東国にかぎり申し候」と、後世、新撰組の近藤勇にさえ言わしめた武の国の原形は、東アジア的な規模でいえば、このようにしてできあがったようにおもえる。 <武蔵国とは> 現在の東京都、埼玉県のほとんどすべての地域、および神奈川県の川崎市・横浜市をカバーする広大な地域は、かって武蔵国(むさしのくに)と呼ばれた。『延喜式』は、武蔵国は右の略図に記した21の郡で構成されていたことを示している。そのうちの15郡が、現在の埼玉県域である北武蔵にあった。  7世紀の大化の改新以降になると、これら3国は統一されて武蔵国となり、国府が多麻郡(現在の府中市)に置かれた。武蔵国は、初めは東山道に属していたが、宝亀2年(771)に東海道の一国に変更された。 7世紀の後半、百済と高句麗の滅亡によって我が国土に移住してきた渡来人たちを、時の政府は各地に配置した。さらに、奈良時代に入って新羅との外交が悪化すると、渡来者集団の一部をそれまで居住していた畿内から東国へ移された。『日本書紀』や『続日本紀』に記された以下のような記述から、当時の政府が渡来人に対して取った政策が読み取れる。 こうやって武蔵国の歴史を紐解いてみると「前方後円墳」が関東(武蔵)地方に点在していてもなんら不思議はない気がしてくる。近世以降定められた「国家」というものがいかに不合理なものであるかとも思う。たかが古墳といえども思い巡らしてみると実に壮大な歴史を想像できてしまう。<おわり>

続きを読む

総合記事ランキング

もっと見る