2005/05/01(日)07:32
北に日本一の?
北に日本一の桜がある、そこには花守たちに育まれた桜の絵巻があるのです。
花追い人がつぶやく「日本一」・・・・
北辺の城下町の桜、津軽藩の城跡が公園として整備され、桜名所となっているのだ。ちなみに開幕から一週間で100万人を越えた、今日の弘前公園さくらの状況は?リンク先でご覧くださいね。
「弘前の桜は、風雪経た古木が支えなしでしっかり立ち、一本の木のボリューム感もすごい。なぜなら木や土の手入れが格段に優れていると言う印象を受けます。土が肥えている証拠に、親指ほどあるミミズを見たことがある。
弘前は、津軽藩十万国の城下町だ。弘前城の桜は、津軽藩士が1715年、京都の嵐山から25本のカスミヤマザクラなどを持ち帰り、城内に植えたのが、始まりと伝えられている。弘前の歴史に詳しい市教育委員会いわく「当時は産業ののみならず文化を興すのが、殿様の人徳の一つとされたものだと言う。
京都の紙すきや織物の技術をはじめ、都の文化人を呼んで茶道や作庭も導入していました。花を愛でる文化もその一環で、春には武士階級のみならず名主も城に招かれたようです。
廃藩後は、青森のりんご栽培に大きな功績を残した旧藩士の菊池楯衛が1882年、、世に出て間もない染井吉野1000本を植栽。その後城跡が公園として開放され、旧藩士で市会議員の内山覚弥によっても1000本が追加されたのでした。
しかし先人の恩恵にあずかるだけでは、毎年200万人を魅了する現在の桜はなかった。染井吉野の寿命は60年と短く、昭和20年代には明治の桜は衰弱し始める。対応に当たったのは公園管理事務所の職員達。りんご農家の出身者が多かった。
職員で樹木医でもある小林勝さんは、「当時は桜切るバカ、梅切らぬバカ」と諺にもあるように、切り口から病気になりやすい桜の枝を切ることはタブーだったようだ。でも“りんご”は毎年、剪定することで、新しい良い枝が出ます。
そこで「りんご」のようにやってみたところ、3~4年で若い枝がドンドン伸び花の付き方も良くなって来たと言う。古木巨木が支えなしで自立出来ているのも、剪定のたまものだと言うのだ。「難しいのは、いずれ枯れる枝を見極め、前もって落とすこと」だそうです。
千本切って一人前とされるりんご剪定技術の知恵と技が、惜しみなく桜に注がれたことがよく分かる。剪定のほかにも、根元の土を掘り返し柔らかくして、堆肥を入れたり、病害虫防除・雑草取りと、花守りの暦には休みがない。
こうして育てられた弘前の桜には、次のような特徴がある。前記にかいた通り染井吉野の寿命は約60年であるにもかかわらず、樹齢100年を越える木が200本以上と言う、古木の多さ。普通一つの花芽から3~4個の花が咲くが、弘前では4~5個。
中には7個咲く木もある花の多さである。そして日光の届きにくい木の下方や内側にまでもビッシリと花が付くことで醸し出される、ボリューム感。まさに古木の風格と若木の精力を併せ持った日本一の桜と言いたい。
日本一の桜は、陰で努力していた人々の汗の結果なのか?
明日の日記では「慎み深さも城下の花」を掲載します。
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