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カテゴリ:認識の歩み
![]() 一九二六年、 ハッタはインドネシア協会の会長となり、 パリの東方文化協会などと連携しつつ、 アジア民族連合の構想をもつようになった。 そんなときコミュニストたちが ジャワで蜂起してしくじった。 ハッタはスマウンとともに 共産系の民族独立運動のイニシアティブを 協会に委譲させることをしくむのだが、 これはソ連のコミンテルンから批判された。 こんなふうにハッタの政治運動は 多分に「赤寄り」だったのだが、 そこにオランダからの締め付けや 逮捕や拘留があったため、 しだいに反帝ヨーロッパ的で民族主義的な 政治活動に惹かれるようになり、 そこでスカルノの台頭と出会うのである。 日本との交流は一九三三年の来日の折、 下中弥三郎の大亜細亜協会と交わり、 その事務局長の中谷武世に兄事した。 ビハリ・ボースとも会い、 ボースの奨めもあって 日本インドネシア協会も誕生した。 ボースが議長、ハッタが会長、下中が副会長になった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2026年10月09日 05時00分04秒
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