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琵琶湖の西岸には、二つの唐崎神社があります。
一つは、大津市の唐崎神社で、もうひとつは、高島市の唐崎神社です。 どちらも祓所として有名で、特に婦人病に対する御利益があることから、祓祭のときには京や大阪などの遠方からも、たくさんの人々がやって来て大いに賑わったそうです。 今回は、大津市の唐崎神社を御紹介いたしましょう。 ![]() 唐崎神社の歴史は日吉大社の社伝によれば、舒明天皇6年(633年)琴御館宇志丸宿禰(ことのみたちうしまろのすくね)がこの地に居住し「唐崎」と名附けたことに始まります。 創建は天智7年(668年)、近江京遷都の翌年大津京鎮護のため大和国三輪山大神神社より、御祭神の大己貴神(おおなむちのかみ)を坂本の日吉大社へ勧請する道中、この地にあった松の木に神様が乗り移ったので、松を正面に社殿を建立したのが始まりであると伝えられています。 日吉大社の摂社で、朝廷が琵琶湖唐崎から淀川までの「七瀬之祓」の第一処として、国家安泰の祓所に定められました。 御祭神は、女別當命(わけすきひめのみこと) この女神様は、琴御館宇志丸宿禰の奥さんなのです。 かつては「女別当社」と呼ばれていました。 代表的な祓祭が、毎年7月28日と29日に営まれる「夏越の祓」の御手洗祭(みたらしまつり)です。 罪や穢れを払い、暑い夏を健康で乗り越えられる様に、紙の人形(ひとがた)に息を吹きかけ、茅の輪をくぐって身を清める神事が行われます。 通常の茅の輪くぐりは、ただ輪をくぐるだけですが、唐崎神社では参拝者が人形や、願い串に自分の名前を書いて奉納します。 それを日吉大社の神官が、藁苞(わらづと)に入れて茅の輪をくぐり、湖中に立てられた朱塗りのの山王鳥居に向かって藁苞を投げるという古式にのった大祓の神事が行なわれています。 七瀬之祓の唐崎で、人々は無病息災を願い、罪穢(ざいえ)を琵琶湖に流し去るのです。 ![]() 唐崎は、古来より近江八景の景勝地としても有名で、多くの万葉歌人や文人墨客が、この地で詩歌を詠まれてきました。 さざ波の志賀の辛崎幸(さき)くあれど大宮人の船待ちかねつ 柿本人麻呂 (さざなみの志賀の辛崎は、その名のとおり変わらずあるのに、大宮人を乗せた船はいつまで待っても帰って来ない) この詩は、壬申の乱で近江朝廷が滅びた20年後、柿本人麻呂がこの地に訪れたときに、天智天皇を偲び詠まれたものです。 辛崎の松は扇の要にて 漕ぎゆく船は墨絵なりけり 紀貫之 辛崎の松は花より朧(おぼろ)にて 松尾芭蕉 ![]() 唐崎の「霊松」も有名です。 現在の松で三代目になるそうです。 金沢の兼六園にある「唐崎の松」も、この地から分けられたものです。 古より多くの人々に愛されてきた唐崎です。 しかし、唐崎神社の御祭神は、どうして琴御館宇志丸宿禰の奥さんの女別當命なのでしょうか? 唐崎に社殿を建立した理由は、三輪山の大神神社の御祭神である大己貴神が、唐崎の松の木に乗り移ったからでした。 それならば、御祭神は日吉大社西本宮と同じ、大己貴神ではないのでしょうか? それなのに、なぜ女別當命なのでしょうか? それはおそらく、女別當命が巫女だったからでしょう。 巫女として、大己貴神を祭ったのだと思います。 大己貴神=大物主命=大国主命=大歳神=天照大神(あまてるおおかみ)なのです。 海上よりやってきた光の神様です。 その光(日)の神様を迎える巫女に憑っていたのが、水の女神・祓いの女神の瀬織津姫だったと考えられます。 琵琶湖西岸にある、もう一つの唐崎神社の御祭神は、この瀬織津姫をはじめとする祓戸の大神三神なのです。 続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 11, 2008 01:35:43 PM
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