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学生時代に、「ナクヨ ウグイス ヘイアンキョウ」と、平安京遷都の西暦を覚えた方もきっと多いことでしょう。
京都は、西暦794年の平安京遷都以来、1200年の歴史が、まるで地層の様に積み重なっている街なのです。 平安貴族たちの優雅な生活、菅原道真と藤原氏との政争、驕れる平家の繁栄と没落、 鎌倉幕府と朝廷の対立、足利尊氏による南北朝対立、応仁の乱で焼く尽くされる都、 織田信長による比叡山焼き討ちと室町幕府の終焉、本能寺の変、 豊臣秀吉による区画整理と聚楽第の建設、徳川家康による二条城の建設、 幕末の尊皇攘夷と新撰組、禁門の変、鳥羽伏見の戦い 平安遷都から幕末に至るまで、京都の歴史を大雑把にみてみるとこの様になるでしょうか。 京都を思い浮かべるとき、どの時代に心を寄せるかは、人それぞれですね。 学生時代の修学旅行や、彼氏や彼女と見た「大文字」を思う人も多いのかもしれません。 今日、私は天使カードのモノクロ印刷を頼みに、JR丹波口駅近くの印刷屋さんに行きました。 そして、帰り道は大宮駅から阪急電車に乗るために、四条通りの方向に歩きました。 この辺り一帯は壬生(みぶ)と呼ばれる所で、幕末には京都を警護した「新撰組」の屯所(とんしょ)があったところです。 今ではすっかり京都の市街地になって京風の住宅が建ち並んでいますが、幕末のころは畑の広がる静かなところだったそうです。 新撰組の壬生屯所となっていた八木邸も、当時のままで保存されていました。 ![]() 初代局長の芹沢鴨や、近藤勇、土方歳三、沖田総司など、創設期の13名が浪士隊と袂を分かち、ここを宿所として京都の街の治安を護りました。 近隣に迷惑ばかり掛けていた初代局長・芹沢鴨の乱行が、京都守護職・松平容保の知るところとなり、隊士たちによって暗殺されたのもこの八木邸の座敷でした。 鴨居に残る刀傷は、そのとき芹沢鴨によって付けられたものといいます。 ![]() 屯所だった八木邸の近くに壬生寺があります。 きっと隊士たちが武道の修練に励んだところでしょう。 またここには、隊士たちの墓も残されています。 池田屋事件や、禁門の変の活躍で、一躍その名を上げた新撰組でしたが、鳥羽伏見の戦いでは幕府軍と共に薩摩・長州軍と戦い、敗走して江戸に逃れます。 壬生寺の中に入り、本堂に向かって歩いて行くうちに、だんだんと頭の上から刀で斬られる様な感じがしてきました。 八木邸では特別何も感じませんでしたので、これはこの壬生寺に集まって来る魂に想いが残っていたのでしょう。 あるいは、この土地の残留思念かもしれませんが。 私は本堂の前で、天上界の光を降ろして祈りました。 するといつもの様に、不快な感覚は消えて行きました。 私は京都に引っ越して来てから、まだ5ヶ月目ということもあるかもしれませんが、どうしても平安時代以前のことに関心が行ってしまいます。 しかし、戦国時代の本能寺の変も、幕末の新撰組の活躍も、この京都を舞台に行なわれたことには代わりありません。 京都を歩くということは、歴史の上を歩くことだと思いました。 続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
September 19, 2008 11:51:27 AM
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