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天照皇大神は、なぜ女神にされなくてはならなかったのだろう?
絶対的な皇祖神と、それに連なる万世一系の皇統譜を創り出すということだけが目的であったならば、あえて女性神化する必要はなかったのではないかと思います。 つまり、どうしても皇祖神を、女性神にしなければならない絶対的な理由があったからではないのでしょうか? では、その理由は、いったい何だったのでしょうか? 魏志倭人伝にも記され外国にも知られている倭の女王卑弥呼や、超人的な活躍をした神功皇后をモデルにしているという説や、女帝の持統天皇の正統性を示すためだとする説もあります。 しかし、当時の倭で広く祭られ、親しまれてていたと思われる男神天照大神を、そのために女性神化する必要が、本当にあったのかどうか疑問に思います。 また、持統女帝の正統性を示すという説は、伊勢神宮の式年遷宮が制定されたのが685年、夫の天武天皇の崩御が686年、そして持統天皇が即位するのが690年ですから、それでは女神の皇祖神の方が先になってしまいます。 これに対しては、天武天皇の母とされる女帝の皇極天皇であり、二度目の即位で名を変えた斉明天皇であるとする説もあります。 この皇極天皇・斉明天皇は、持統天皇の祖母にあたります。 それでも、なぜここで、皇極天皇・斉明天皇を使ってまで、皇祖神の女性化が必要だったのか分かりません。 きっと、他に何かがあるはずです。 それが、ずっと分かりませんでした。 でも、きっと何かある。 絶対何かある。 そう思ってきました。 すると、いくつかのヒントが組み合わされて視えてくるものがありました。 この時期の倭は、とても追い込まれていました。 663年、無謀な百済復興のための出兵で、唐・新羅連合軍と白村江の海戦で激突。 倭の水軍は、圧倒的な唐の水軍の前に大敗北、朝鮮半島から撤退しました。 唐・新羅連合軍による倭国侵略の脅威に脅え、震えあがっていたのです。 天智天皇は飛鳥に帰ることが出来ず、琵琶湖畔の大津京に遷都したのが667年。 そして、壬申の乱を経て、天武天皇が即位したのは672年のことです。 その間の半島情勢は、唐・新羅連合軍が高句麗をも亡ぼしますが、唐と新羅の間にも軋轢が起こり、676年新羅は唐の勢力を追い出すことに成功、朝鮮半島の統一を果たします。 このことは、倭にとって吉報となりました。 依然、唐の脅威は消えていませんでしたが、唐に対抗するために倭と新羅が連合することになったからです。 倭が先の出兵で戦った相手は唐軍で、新羅とは直接戦っていなかったことも幸いしました。 天武天皇は、蘇我氏との繋がりが深く、蘇我氏は新羅との関係が深かったので、時期的にも丁度良かったといえます。 蘇我氏と新羅の共通点は、共にローマ文化を持っていることです。 これはアジアでは、蘇我氏と新羅だけが持っていました。 蘇我氏の古墳からは美しいローマングラスと、トンボ玉が発掘されています。 それは新羅の王都、慶州の古墳からも沢山発掘されているものです。 「新羅」という文字の後に、「馬」を付け加えると「新羅馬」になりますが、これは「新ローマ」と読めます。 倭の人々は、新羅がどのような国であるのかを知っていたのかもしれません。 天武天皇が行った政策は、天智天皇の百済重視の方向から新羅重視の外交政策への転換と、強い中央集権の律令国家を作るための政策でした。 その過程で神道も天皇家を中心とする国家神道に体系づけられていくのです。 この時期、法隆寺の建設が盛んに進められていました。 法隆寺は7世紀の初めに、聖徳太子によって建立されますが、670年に一度焼失しています。 それなのに、創建当時の聖徳太子像などが焼けずに現存しているのは不思議なことです。 ![]() 最近行われた調査によると、創建当初の若草伽藍と呼ばれる建物が焼失する前から、現在まで残っている建物が建築され、仏像も移転されていたことが分かりました。 この斑鳩の地は、飛鳥の都からはだいぶ離れていますが、大阪湾から飛鳥に至る大和川沿いにの要所にあります。 当時の交通機関には舟を使っていましたから、すぐ近くに造られた多忌神(おおいみのかみ)を祭る広瀬神社と共に、とても重要な意味を持っていました。 多忌神とは、穢れを祓う禊の神のこと、瀬織津姫です。 古代では、全ての災厄は穢れから生じると信じられていましたから、都に通じる河川の途中に穢れを祓い、災厄を祓うための禊の神、瀬織津姫を祭ったのです。 その一方で、法隆寺は現存する世界最古の木像建築物で世界遺産にも登録されている名建築ですが、回廊に見られる曲線を持ったペルシャ風の柱(エンタシス)の様に、アジアとオリエントの文化が融合した美しさが特徴といえます。 また、聖徳太子の寺院としても有名ですが、実はこの「聖徳太子」という名前は平安時代以降に呼ばれ始めたものなのです。 日本書紀によると、聖徳太子の息子である山背大兄子(やましろのおおえのみこ)一族が、この法隆寺で蘇我入鹿によって全員自害に追い込まれていますが、これも平安時代になるまで祀られた痕跡どころか墓すらないのです。 一族全員が、忽然と姿を消してしまうことなどあるのでしょうか? 事の真相は、最初から聖徳太子も、息子の一族もいなかったのです。 日本書紀編纂のバックにいた藤原不比等が、中大兄皇子と中臣鎌足が起こした宮廷クーデターで蘇我入鹿・蘇我蝦夷を暗殺した事件を正当化するために捏造した「聖人伝説」でした。 それでは、なぜ法隆寺は造られたのでしょうか? 繰り返しになりますが、この時代の倭の重要政策は、新羅・唐を中心とする国際政策と、強い中央集権の律令国家を建設することでした。 特に唐に対しては、倭の威信にかけて、「仏法の尊い教えのもとに国政を行う近代国家」であることをアピールする必要があり、それにも聖人伝説が必要だったのかもしれません。 ずいぶん話が遠周りになってしまいましたが、当時の倭は現在の私たちが思うよりもはるかに国際的でした。 それは、712年に編纂された古事記や、720年に完成した日本書紀の神話に見ることができます。 古事記に記されている大国主の神話が、旧約聖書のヤコブの物語にとても近いことや、日本書紀に記されているイザナギ・イザナミの神話、天照皇大神やスサノウの神話が、ギリシャ神話とそっくりなのです。 となると、ギリシャ神話の豊穣の女神「デメテル」を、皇祖神「天照皇大神」のモデルにする必要があったのかもしれません。 それは、もしかすると、私たちのルーツに関係しているのかもしれません。 続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
August 1, 2010 03:27:17 AM
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