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5月15日、京都では葵祭の本祭が行われました。
現在では、京都三大祭のひとつに数えられていますが、平安時代には「祭」といえば「葵祭」(当時の名称は賀茂祭)のことであるといわれたほど有名だったそうです。 葵祭の始まりは、約1400年前の欽明天皇の御世で、凶作が続いたため賀茂大神の祟敬者であった卜部伊吉若日子(うらべいきわかひこ)を勅使として、4月中酉の日に馬に鈴をを付け、人に猪頭(ししがしら)を被らせて走らしたところ、風雨はやみ五穀豊穣になって民も安泰になったといいます。 葵祭は、五穀豊穣を祈願するお祭だったのです。 本祭では、「路頭の儀」と、「社頭の儀」が行われています。 「路頭の儀」とは行列のこと、「社頭の儀」とは下鴨・上賀茂神社の神前での儀式のことです。 かつては、「宮中の儀」も本祭当日に行われていましたが、明治維新で天皇が東京に遷られてからは行われなくなりました。 現在の葵祭で最も良く知られているのが「路頭の儀」、平安王朝絵巻そのままの雅で優雅な全長約1キロにも及ぶ大行列です。 その行列は、「第一列」検非違使(けびいし)、山城使など、「第二列」馬寮使(めりょうつかい)、牛車など、「第三列」舞人(まいびと)、近衛使(このえつかい)など、「第四列」陪従(べいじゅう)、内蔵使(くらづかい)などからなる本列に、斎王列ともいわれる女人列が続きます。 総勢511名、馬36頭、牛4頭、牛車2基、腰輿(およよ)1基からなる行列で、毎年最も注目を集めているのが斎王代です。 斎王代とは、「斎王の代わり」という意味です。 斎王は天皇家から内親王が、神に奉仕するために斎院に入られる制度です。 平安時代の弘仁元年(810年)から、元久元年(1204年)まで、35代394年間続きました。 十二単衣(じゅうにひとえ)に、少忌衣(おみころも)を着る斎王代は、女人列の中でもひときは華やかで、葵祭の主役ではないかと思ってしまいますが、実際の主役は本列中央の近衛使になります。 近衛使は、天皇の御使である勅使(ちょくし)の役割を務めているのです。 源氏物語では葵祭の行列に、源氏の君の姿を一目見ようと人々は集まります。 そこで起きたのが「車争」(駐車場所をめぐる喧嘩)で、それがきっかけとなって愛と悲しみの物語りが展開されていきます。 お天気も良かったので、行列の出発地の京都御苑をはじめ、沿道は見物客で大変な混雑になりました。 ![]() ![]() 京都御苑内の行列通過ルートの両側は、事前予約制の指定席(当日券も若干ありましたが席の場所は最後列でした)になっていました。 下鴨神社や糺の森の中も、同じ様に事前予約制の指定席、上賀茂神社内も特別観覧席になっています。 沿道で混雑の少ないところは、河原町通りの府立医大付属病院付近や、午後になりますが賀茂街道の上賀茂橋付近はお薦めできます。 反対に非常に混雑する所は、京都御苑前や、河原町通りでも河原町今出川周辺、出町橋、下鴨神社周辺でした。 葵祭の行列に参加している人たちは、一部には学生アルバイトも使っているそうですが、多くは先祖が実際にその職に就いていた子孫だと聞きました。 京都には、平安遷都以来1200年経った現在でも、多くの子孫が先祖の職を葵祭を通して、今に受け継いでいるのです。 斎王代が、葵祭の前に行う「御禊の儀」も、私たちが神社や寺院にお参りに行くときには、先ず手水舎で手を洗い心身を清めるのと同じことです。 私たちの罪・穢れを祓い清めてくださる御手洗社の女神・瀬織津姫も、この葵祭を見守ってくださっているのです。 続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
August 1, 2010 12:15:14 AM
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