2019/07/02(火)09:42
六月の雪・乃南アサ
☆六月の雪・乃南アサ
・2018年5月30日 第1刷発行
・文藝春秋
♣︎杉山未來=29才。
♣︎杉山葉月=未來の母
♣︎杉山朋子=祖母(神田朋子、1929年10月10日生まれ)
当時日本の植民地だった台湾で生まれた。戦前製糖工場の技師をしていた父親と共に一家は台湾で暮らしていた。
16才の時日本が戦争に負け、台南から引き上げてきた。第1高等女学校。
♣︎李怡華(りいか)
39才。父の教え子、
♣︎洪春霞(こうしゅんか)
李怡華(りいか)のピンチヒッターとしてやって来た若い女性。
♣︎楊建智(ようけんち)
大学院で建築を学ぶ学生。台南の歴史的建造物にも詳しい
♣︎林賢成(りんけんせい)=楊建智の高校の教師
父が福岡の大学に教授として招かれたのを機に、杉山未來の一家は揃って福岡に引っ越して行った。20歳になり大学生だった未來は残り、以来10年近く祖母の朋子と二人で暮らして来た。だが、未來は30を目前にして、声優になりたいという長年の夢に見切りをつける決心をした。そしてその日は契約していた会社の期限が終了した日でもあった
階段から落ちて入院した日、祖母は「もし、たった一つ願いが叶うとしたら、あの家に帰りたいわ」と、しきりに生まれ育った台南の家を懐かしがっていた。祖母の一家は製糖工場の技師をしていた父と共に、祖母が16才の時まで台南に住んでいたという。終戦まで台湾は日本の植民地だったという話は、未來を驚かせた。
祖母が生まれ育ったという台南は『台湾の京都』と言われるくらいに古い町並みや建物が残っているそうだ。それなら、たとえ家は無くなっていたとしても、祖母の記憶に残っている風景をかき集めることくらいできるのではないか。
祖母が入院したのを機に、未來は祖母が生まれて16才まで過ごした台湾へやって来た。台北松山空港に着いた未來を出迎えてくれたのは、父の元教え子の 李怡華(りいか)という女性だった。だが彼女は、未來には何の説明もなく祖父の葬儀のために帰ってしまった。
李怡華(りいか)のピンチヒッターとして、急遽やってきた洪春霞(こうしゅんか)、そして洪春霞に頼まれた大学院で建築を学ぶ楊建智(ようけんち)、そして楊建智の高校の教師、林賢成(りんけんせい)、祖母の生家と思しき家に住む劉慧雯(リュウケイブン)・・・。
途方に暮れる未來の元に、次々と現れた台湾の人々に助けられた。彼らのおかげで、未來は、祖母が通った台湾第一高等女学校、祖母の父が働いていた台湾糖業公司(元 台湾精糖試験所)、祖母の生家と思しき家、そしてしきりに見たいといっていた『六月の雪』と呼ぶ『欖李花(ランリーフア)』の雪のようだという花を見ること、などなど、1週間の間に予定していた全ての目的は果たせたのだった。
祖母の朋子の病室の壁には、未來がLINEで送ってくる台南の写真が、嫁の葉月(未來の母)の手で貼り付けられ、朋子にとって懐かしい世界への入り口に変わり始めていた。懐かしい台湾、私の故郷。あの頃は何もなかった。それでも不思議なほど、もう一度あの頃に戻りたいのはなぜだろう・・・。写真を眺めながら朋子は思った。
台湾の人々はなんて親切なんだろう。未來は不思議だった。別れの日、未來は空港で李怡華とコーヒーを飲んでいた。彼女は感情表現が乏しく、時に未來をイライラとさせる人だった。
「日本人と台湾人の違いって、どんなところなんだろう」質問するでもなく半ば自分に問うような言い方をした未来に、少しの間無表情でいた李怡華が目を伏せたままで口を開いた。
「台湾人は日本人に比べてあまり感情の表現をしません。台湾には不幸な歴史があり、長い間、自由がありませんでした。日本時代が終わってすぐに起こった大きな事件で、何万人、正確な人数が今も分からないくらい大勢の人が殺されました。ずっと世界一長い戒厳令が、38年間続きました。噂だけで捕まえたり、拷問もありました。台湾人は感情の表現が下手で分かりにくいかもしれない。けれど、心の中は、もしかすると日本人よりもっと優しい人が多いのではなやいかと、私は思っています」初めて李怡華の目に自信のようなものが現れたように見えた。
そうかもしれない、未來は一人で頷いた。一人でやってきた無知な旅人に、何くれとなく心を砕いてくれた洪春霞や林先生の顔が思い出される。劉慧雯も、目の前の李怡華にしたってそうだ。もしも日本人だったら、外国から一人でやって来た無知で素性の知れない旅人に、何くれとなくここまでしてやれるだろうか。今回の未來は色々の意味で幸運だったのだろう。
未來は今回の旅で言葉の違う人たちと会い、もっと色んな人の話を聞いて心を通わせたいと思った。このまま何年か刻みで契約社員を続けていくより、もう一度、新しい目標を見つけてやり直したい。そのためには半年か一年間、思い切って台湾に住んで集中して中国語を勉強したいと思った。