想像する私は今、猫の母娘と一緒に暮らしている。 この母娘は、心無い人間が保健所に連れて行くと言い張っていたのを守って保護した方から譲り受けた、大切な親子だ。 私がこうして文章を書いている後の、彼女らのケージの2階部分で今、スヤスヤと眠っている。 そこは彼女らの、安眠場所のひとつ。 そして今、ここからは離れた場所にある、別なケージに入れられている猫達に思いを馳せる。 そのケージは、彼ら専用ではない。 毎日、別な彼らの棺桶になる。 彼らはそこであまりに短すぎる最期の時間を過ごした後に、麻袋に詰め込まれ、あるいはケージごと狭いガス室へと入れられ、そこで二酸化炭素を嫌という程送り込まれ、これ以上無い苦しみを味わい、残酷に殺されてゆく道しか残されていない。 一定の時間内に死ななければ、そのまま焼かれる。 生きたまま、炎の中だ。 そしてその作業は全て、機械で簡単に出来る。 一定の時間内に二酸化炭素によって苦しみながら殺される方が、まだマシなのか? その時間内に不幸にも死にきれず、焼却炉に落とされて業火に焼かれるよりはマシなのか? まだ、ラッキーなのか? どういう二択なんだ? 低い天井と狭い場所が、なぜか私は死ぬほど恐ろしい。 もし私がそんな所に入れられたら、真っ先に気が狂う。 息を止めてみる、しばらくすると苦しくなってくる、もう少し我慢をする。 もうダメだ。 動悸が酷くなっている、頭がクラクラする。 涙が滲んでいる。 ガス室に入れられた動物たちは、あぁ、さっきは苦しかった、と思うことを許されない。苦しいままに、絶命するまで。 絶命しなければ、更に地獄が待っている。 人間のやる事は、何故こんなにも非情なのだ。 どうして。 自分が同じ事をされて、嫌じゃないのか。 自分が同じ目に遭ったら恐ろしく苦しんで苦しみ抜く筈だと簡単に想像できる事を、何故他の命に対してやってしまう? 職員の安全?コスト削減? 全く意味が分からない。 物言わぬ動物達の命の価値はまだ、日本では『お金』というものの足元にも及ばないらしい。 そして、真実を知ってもがき苦しむ自分がいたとしても、その苦しみは、実際に殺される動物達の比ではないのだ。 彼らと私の苦しみの差は、何処から来た? * * * 福岡の動物管理センターに8/30に収容されたという猫の顔が、消えない。 収容期限は9/5と。 私は彼らを救ってあげられない。 彼らはおそらく、殺される。 今日は9/1、猫の命はあと4日。 可愛らしい,長毛の猫だった。 よほどの奇跡が起きない限り、あと数日で、愛らしい彼らの顔が恐怖に歪む瞬間がやってくる。 ごめんなさい。 ごめんなさい。 ごめんね。 今の私は無力だった、私はあなた達を救う余裕がない。 何もできない自分を忘れずにいることしかできない。 * * * 夫が帰ってきた。 ケージの中ですやすやと眠っていた母娘が、扉に向かって歩いて行き、帰ってきた夫を出迎えた。 2006.9.1記 後日記:この猫は、里親さんが決まったということです。 奇跡だと思いました。 しかし、皆が助かっているわけではありません。 理不尽な死を迎えねばならない、多くの命のために、 今、自分に何ができるのかを見つけたい。 そのためにも、 もっと自分は現実を知らなければならないと思う。 2006.9.8記 ジャンル別一覧
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