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紫色の月光

ZERO

 自覚し始めたのがいつの事だったか、彼はよく覚えていなかった。少なくとも、初めてバルキルト・Z・ベルセリオンと出会った時はまだだったのははっきりと覚えている。だが、いつの間にか自覚していたというのは確かだ。

 ―オレハ、ドレッドチルドレン。ジャシンドレッドノツクリダシタコドモノヒトリ―

 タワーに入ってから、いや、浮遊大陸を目の当たりにしてから、彼の中でもう一人の彼が騒ぎ出した。

 ―エリックタチガキョウガクニフルエルカオヲミテミタイ―

 心がバラバラにでもなったような感覚だった。
 エリックやキョーヤ達と過ごした20年間の記憶を愛おしく思う、マーティオ・S・ベルセリオン。
 それらを壊してしまう事にこの上ない快楽を求めようとしている、マーティオ・セカンド・ベルセリオン。
 互いに背反する二つの感情が一つの身体の中に押し込められていた。
 どちらかが正し言い訳でも、どちらも間違ってる訳でもない。どちらも、彼にとっては正しかった。だが、それでも優劣がないという訳ではなかった。心の何処かで、それはダメだと言い聞かせるが身体は止まらなかった。もう一つの心が、そうしなければならないと理解していたからだ。そして何より、そうしなければならないと言う心の方が遥かに強かったからだ。
 互いにせめぎ合う心が生み出す大きな矛盾。その矛盾を解決する術は、一つしかなかった。そう、それはマーティオ・S・ベルセリオンとしてでもなく、マーティオ・セカンド・ベルセリオンでもなく、二つの心を持ってしまった『マーティオ』としての答え。
 そして彼は翼を広げた。彼をドレッド・チルドレン足らしめている物。巨大な蝙蝠を連想させる、その漆黒の翼を。そして、手にした獲物の刃を『敵』に向ける。大鎌の刃が向けられた先にいるのは、茶髪の青年。

 ―エリック・サーファイス―

 彼の最大の友にして、最高の理解者、そして…一番頼りになる相棒。

 そう、彼が出した答えは至極単純なものだった。

 ―タイセツナモノヲキズツケルクライナラ、オレガオレノジユウニナラナイノナラ、コロス―

 彼には自らに課した三つの掟があった。

 ―キニイラナイヤツハコロス―

 そう、それが例え自分自身であったとしても。そして、彼は思った。今、彼が目の前にいる青年。彼になら、殺されてもいいと。涙すら流した。 そして、彼は手にした大鎌を手放した。ここまで、激戦を共にしてきた刃。彼の、もう一つの相棒。それに、『もう一つの答え』を託し、彼は再び視線を青年に向けた。 こうしている間にももう一人の彼が身体のコントロールを奪おうとしている。それを必死に抑えながら、彼は親友に最後の言葉をぶつけた。
 「俺は、お前になら殺されてもいいと思ったんだぞ!?他ならぬお前の手でなら、死んでもいいって思っちまったんだぞ!やれ!今すぐ俺をぶち抜け!」
 彼が叫ぶのと同時に青年は咆哮していた。
 ―――あるいは、大切な物を自ら壊してしまう悲しみからか。
 ―――あるいは、他の道を見つけられない自らの不甲斐無さを呪ってか。
 ―――あるいは、自らに気合か渇でもを入れるためか
 ―――あるいは、彼には思いつかないような理由からか。
 今となっては彼には推し量る事すら出来ない。
 眼前に迫るのは槍の刃。全てを貫く、必殺の一撃。目の前に迫り来る『死』と言う未来に、彼は何故か昔の事を思い出していた。

 ―なぁ、俺と一緒に来ないか?―

 唐突に、脳裏を過ぎる親友の言葉。

 ―もし彼があの時誘ってくれなかったら―

 誰もが一度は考えるそれを、彼は今際の際に思っていた。あの時、親友の誘いに乗っていなかったら。そうしたら、今とは違う未来があったのかもしれない。しかし、彼はそれ以上の想像をしなかった。何故なら、それが意味を成さない仮定だという事は分かっていたから。
 そう、例え何度同じ場面に遭遇しても彼は同じ答えを告げるであろうと言う事をよく理解していたから…

 Lethal Weapon
 Level ZERO-Rebirth of EO-

 オーストラリアのとある路地。いつものように彼は歩道を歩いていた。暗い夜道に煙草の火だけが微かに光っている。時折灯りが弱くなる様はあたかも蛍が飛んでいるかのようであった。蛍と違うのは、蛍の光が鮮やかな碧色であるのに対してそれは濁った赤い色であった事だろう。そして、時折見せる街頭はうっすらとだが彼の姿を照らしていた。
 その姿は18・9の青年と言ったところであろうか、何よりも蒼い髪が特徴的であった
しかし、その顔は年相応と言うわけではなかった。不必要に伸ばされた髪、しわくちゃになるまで着古されたYシャツ、そして誰彼構わず威嚇するかのような鋭い目付き。何よりもその表情が際立っていた。喜怒哀楽が読み取れないほど無表情。それは、押し殺しているのではなく、存在しないようにも思えるほどだった。
 「――――――――――」
 薄暗い路地をただ、歩く。何か特別な目的や理由がある訳ではない。そもそも、彼は普段あまり外を出歩かない。今回も、食料の貯め置きがなくなったから買い物に出てきただけである。
 手に提げたビニール袋には調理の必要がないパンやシリアルの類、それから幾つかのミネラルウォーターとミルクが見られた。食事としては随分と味気ないような気もしなくはないが栄養と言う意味では必要最低限の物は取れるのだろう、彼の顔は痩せていると言う風には見えなかった。
 「――――――――――」
 背後から来る車のヘッドライトにも反応することなく彼は歩き続ける。あるいは、その灯りすらも彼の目には飛び込んでないのかもしれない。
その灯りはあっと言うまに彼の隣を通り過ぎるとその少し前で動きを止めた。それでも、彼は気にすることなく歩き続ける。心なしか、彼の表情が鋭さを増したようにも感じられた。 「ちょっと君……」
 夜中遅くに出歩く彼を不審に思ったのだろう、何人かの警察官がパトカーから出てくると彼を呼び止めた。
 「こんな所で何をしてる?子供が出歩くような時間じゃないだろう?」
 「――――――――――」
 彼はその言葉を無視して歩き続けた。いや、無視したと言うのは語弊があるだろう。
警察官の言葉など、彼の耳にはこれっぽちも入っていなかったのだから。 「おいおい?人の話は最後まで聞くようにってパパやママに言われなかったか?」
 慌てて彼の前に回りこむと警察官は彼の行く手を遮る。パトカーは彼らのすこし前方まで移動していた。
 「――――――――――」
 「とりあえず、連絡先を…」
 「――――――――煩い」
 警察官の一人が言葉を終える前にその場に倒れこんだ。パトカーのヘッドライトに照らされた足元には真っ赤な液体が流れている。そして、胸の辺りが真っ赤に染まっていた。
 何をするわけでもなく、彼は慣れた手付きで倒れた警察官から拳銃を抜き取る。銃弾が籠められている事を確認すると彼はその銃口を拳銃の持ち主に向けると何の躊躇いもなく引鉄を引いた。静寂を保っていた周囲に乾いた銃声が響く。銃声が止んだ頃には倒れていた警察官の頭に新たに1つの穴が開いていた。
 「なっ……!?」
 足元に広がっているのが同僚の血だと気付いた時には近くにいたもう一人の警察官の胸にもナイフの刃が捻じ込まれていた。信じられないと言うような眼をして警察官は口から血を吐き出す。そして、目の光がなくなるのと同時に警察官は項垂れる様に倒れだした。
 それと同時に彼はナイフを抜く。傷口から吹き出る鮮血が白いYシャツを赤く染め上げていった。さらに少年はさも当然と言わんばかりにその警察官の頭にも銃弾を撃ち込んだ。そこでようやく残った警察官は気付いた。今目の前にいる少年が、何をしたのかを。
 「き、君!?」
 咄嗟に残った一人は拳銃を引き抜き、彼に向かって発砲した。しかし、彼はそれをいともたやすく回避すると最後の一人に肉薄、その喉元をナイフで掻っ切った。噴出す血飛沫は容赦なく彼の顔を赤く塗りたくっていく。まるで糸の切れた操り人形のように最後の警察官もその場に倒れこむ。やはり少年はその警察官の頭部にも銃弾を撃ち込んだ。
 「――――――――ちっ」
 血飛沫で濡れて火が消えた煙草をその場に投げ捨てると彼は新しい煙草に火を点けた。
 「―――――――邪魔だ」
 それだけ呟くと彼は再び歩き出した。食料が入ったビニール袋と拳銃を握ったのとは反対の手には一本のナイフが握られている。そのナイフは誰かの血で真っ赤に染め上げられている。ナイフに付いた血糊をYシャツの裾で拭うと彼はそれを無造作に納めた。無表情の顔に心なしか怒りが浮かんでいるように見えた。それが歩くのを邪魔されたのかあるいは別の要因なのか、誰にも知る由は無かった。

 …オーストラリアの一角にあるとある裏路地、そこにある人にはあまり知られていない病院。それが彼の今の住処であった。いや、その場所は病院と呼ぶにはいろいろと足りないものがあった。
従業員や看護士といったスタッフ、医療器具や機材、そして医者。ほんの少し前までこの場所で闇医者をしてた家主は追っ手が来たとかいって飛び出していった。 彼についていくのも手だったがそれは彼の方から断った。特別行く理由も無かったというのもあるが、今の彼は少しだけ無気力だったのが一番の理由だろう。そして、そのもう少し前には一人の患者がいた…そこで彼は考えるのを止めた。少なくとも、今の彼にとっては思い出したくもない事だった。
 「――――――――――」
 買ってきた食糧と先程警察官を亡き者にしたナイフをテーブルに置くと彼は少しだけうっとおしそうな溜め息を吐いた。
 「新しいの買わないとな」
 誰に言う訳でもなくそう呟くと彼は鮮血に染まったYシャツを脱ぎ、顔に付いていた血を拭った。
 「―――――――臭うな」
 まだ僅かに鼻腔を燻る血の臭いが気になるのか彼はYシャツをゴミ箱に投げ入れるとそのまま着ている物を脱ぎ捨ててシャワー室に向かった。
 「今ごろどこをほっつき歩いてるんろうな…あのヤブ医者は」
 本来の家主の悪口を吐きつつもシャワーの蛇口を捻る。出てきたばかりのシャワーはまだ冷たかったがそんな事を気にすることなく彼は頭からシャワーを浴びた。瞳と同じ蒼い髪の所々についていた赤い血は瞬く間に流れて消えていった。それでも、彼は血の臭いが取れてないように感じていた。いや、実際消えてはいないのだ。目に見えるものは流れて消えても身体に染み込んだ分は、彼が覚えている分には消えない。あるいは、彼が消し去りたいのは違う血の臭いなのかもしれない。
 「――――――――――」
 そっと唇を指でなぞる。あるはずのない血が、そこにあるように彼は感じていた。
 「――――――くそっ!」
 居心地の悪そうに壁を殴りつける。シャワーと共に生温かい物が頬を流れていくのを、彼は止められなかった。

 シャワーを浴び終えると彼はいかにも座り心地が悪そうなソファーに寝転んでいた。枕の代わりになっているのは数冊の本である。
窓と呼べるような物はなく、切れ掛かった電灯の灯りがどことなく怪しかった。BGM代わりに点けていたテレビからはとある泥棒のニュースが流れていた。二年ほど前からアメリカでちらほらと話題になっていた怪盗がオーストラリアにやってきたらしい。しかし、そんな事は今の彼にはどうでも良かった。
 「――――――――――」
 ゆっくりと目を閉じると彼はそのまま眠りに落ちていった。たった今ニュースで言っていた怪盗が、彼にも大きく関係があることを知る由もなく…

 その日も、いつものように食事の買い物に出ていた。前回の買い物と違うのは、彼が裏路地にいる事だろう。少なくとも、表を歩かなければ警察官に絡まれる事もない。ある程度はさっきもばら撒いてるから街のゴロツキに絡まれることもない。家までの道程を、彼は誰にも邪魔される事なく帰る事が出来る…はずだった。
 「おわっ!?」
 「――――――――!?」
 角を曲がろうとした時、彼は誰かと出会い頭にぶつかった。向こうは走ってきていたらしく、ぶつかった衝撃で尻餅をついている。彼の方はと言うと、ゆっくりしていたからか少しよろめいた程度で済んでいた。しかし、感情の方はそうはいかない。
いらいらする感情を抑える事無く、いつものように彼は懐に忍ばせたナイフに手を伸ばした。
 「―――――――邪魔だ」
 前に警察官を殺したようにナイフを懐から取り出す。今回は拳銃はないから念入りにコロしておかないといけない。そんな事を考えながら彼は怪しく光るナイフの切っ先を相手に向けた。彼にとっては幸いな事に、ここは裏路地…夜中に死体が一つ転がってもおかしくはない場所だった。多少声が出たとしても誰も見向きもしないし通報される事もない。ともすれば、死体が転がり出る事もないかも知れない。何にせよ、彼にとってはかなりの好条件だったと言えるだろう。
 「ち、ちょっと待てって!?」
 ぶつかった相手は即座に立ち上がると同じ様にナイフを構えた。何故か手には大粒の宝石が握られている。恐らく、それを盗んで逃げていたのだと言う事が彼にも容易に想像できた。しかし、そんな事は彼にはどうでも良かった。大事なのは、目の前にいる少年が彼にとって歩く上での障害でしかないという事だった。
 「悪ぃけど、俺だってこんな所で死ぬわけにはいかないんだ…」
 対峙しながら、彼は何処か懐かしい感覚に襲われていた。まるで目の前の誰かを知っているかのような、そんな奇妙な感覚に。
 「――――――――死ね」
 彼がナイフを振り上げたその時だった。ナイフの刃が作り出した月の光の反射光で相手の顔が照らし出される。
その顔に、彼は何故か攻撃の手を緩めた。相手の顔を、何故か知っているような気がしたのだ。それは相手も同じ様で、その事が嬉しいような驚いているようなわからない顔から察する事が出来た。
 「マーティオ…なのか?」
 「エリック…お前なのか?」

 それが一年ぶりとなる彼、マーティオ・S・ベルセリオンとその親友、エリック・サーファイスの再会の瞬間であった。

 「イヤー奇遇だな。まさかお前がオーストラリアにいるとはな」
 「―――あぁ、そうだな」
 結局彼は再会した友人と住処に戻っていた。相手が知り合いと言う事もあり、殺すが躊躇われたのだ。
 「それで、お前は今何をしてる?」
 再会の余韻もそこそこに彼は目の前の茶髪の少年、エリックにいきなり質問をぶつけた。エリックはエリックでまるで我が家のようにくつろいでいる。その様子に多少彼の顔にも喜びのようなものが見え隠れしていた。
 「何も。あの後アメリカに戻ってのんびりと暮らしてるよ。オーストラリアには旅行でな」
 それが嘘だと、彼にはすぐに分かった。アメリカでのんびり暮らしてる人間がオーストラリアの路地裏で出くわした見ず知らずの相手に何の躊躇いもなくナイフを向けられるはずがない。無論、エリックの方もそれが通じていないのは分かっていたみたいであり苦し紛れに笑みを浮かべていた。
 「――――――イシュか」
 唐突に彼の頭の中に別れ別れになる少し前のエリックの言葉が浮かんできた。
 ―親父やお袋を殺したイシュを許すわけにはいかない―
 翔太郎に拾われるまで人と関わりを持たず、両親の顔を知らない彼にとってエリックが何故そこまで両親の死を引き摺るのか、その時は分からなかった。
 しかし、今の彼には推し量る事が出来たがあえて言葉にはしなかった。それがエリックにとってどれほど大事なものかは彼がイシュの言葉を発した瞬間に見せた激しい怒りと憎悪に歪んだ表情からも分かる。何より、今の彼には大切な人を失う事がどんなに辛い事か痛いほどよく分かった。
そして、復讐したくなるその気持ちも。 「いや、それもあるが一番の理由は追われてたからなんだ」
 いつもの明るい顔に戻るとエリックは笑った。いつも笑顔を絶やさないエリックと笑う事が少ない彼。まるで真反対な二人だがそれでも部屋を包み込む雰囲気には穏やかなものがあった。それは、彼があの日から久しく感じていなかった雰囲気であった。
 「…それよりも、お前は何してるんだよ?まさか医者か?」
 「いや…何もしてない。ここは確かに病院だが俺は医者なんて大層な事は出来ない」
 そう言って彼は自分の手に視線を移した。甦ってくるのはあの日の記憶。
救えなかった命の重さ。あの日から、彼は医療行為をする事も医者紛いの振る舞いをする事も止めていた。そして何より、自分が医者だと認めるのが堪らなく嫌だったのだ。
 「…ここの家主が不在でな。俺は勝手に留守を預かってる」
 「なるほど…」
 彼の微妙な表情を察したのかエリックはそれ以上追求する事はなかった。
 「ところで、物は相談なんだが…泊めてくんない?」
 何の脈絡もないエリックにいつしか彼は溜め息をついていた。

 親友との思いがけない再会から一ヶ月、彼は次第にほんの少し騒がしい生活にも慣れていった。といっても、一年と少し前まではまだ騒がしい生活だったのだから意外と早く順応できたようだ。それと同時に彼はエリックの奇妙な行動に気付いた。
 昼間の内に何かをしていたかと思うと数日以内にふらっと姿を消すのだ。しかも、エリックが姿を消した日には必ずと言っていいほど怪盗のニュースが飛び込んできた。シェルと名乗るその怪盗は素顔こそ仮面で隠していたから正体は分からない。
 だが、その動きに彼は何故か見覚えがあった。いや、見間違えるはずがなかった。なぜなら、その動きは彼が幼少の頃を共に過ごしてきた人間の動きに他ならなかったからだ。
 怪盗シェルについて分かっているのはその卓越した身体能力と素顔を隠す仮面、そして男だと言う事だけである。
 (男ならキョーヤかエリックか…)
 考える必要はない、時期的に考えても当てはまるのは一人しかいなかった。しかし、彼はそれを追求しようとはしなかった。誰にだって言いたくない事はある、触れてほしくない事はある。今の彼が、彼女について触れてほしくないように。だからこそ、彼は怪盗の事を話題には出しても話を掘り下げようとしなかった。あるいは、待っていたのかもしれない。親友の、エリック口からその事実が語られるのを。

 その日、彼は夢を見た。

 思い出したくもない、あの日の夢を…

 「おい!しっかりしろ!!」
 彼は必死になって少女の肩を揺さぶっていた。身体の至る所から血が滲み出ており、心なしか呼吸も小さくなっている。
 「すぐに病院に連れてってやる!」
 今の自分に出来る最大限の治療を行うと彼は周囲を見回した。周囲には何人かの警察官の姿があり、パトカーも2台ほどある。これを使えば病院まで大急ぎで行く事も出来るだろう。だからこそ、彼は助けを求めた。見ず知らずの警察官であるにも拘らず、である。それは、僅かな希望であった。だが、その希望もすぐに失意で塗り潰されてしまう。
 「なんだ、後にしてくれ! 今、あいつを追いかけないといけないんだ!」
 そう言って彼を突き放すと警察官はパトカーに乗り込みその場を後にした。
 「なんだよ…それ…」
 怒りのあまり彼は拳を握り締めていた。自分の仲間が事故を起こしておきながら、それでも助けてはくれないのか。
そして、同時に彼は自分にも怒りを感じていた。他人なんかに頼った自分に対して。
 「マー…ティオ……」
 それは消えてしまいそうな声だった。だが、彼はそれを聞き逃さなかった。
 「ヘルガ!?しゃべるな、今ピートの所に……」
 彼の言葉を遮るようにヘルガと呼ばれた少女はそっと彼の唇に人差し指を当てた。
 「いいの…自分でも分かるから…」
 「そんな事はない!まだだ…諦めてたまるか…」
 「ねぇ、マーティオ…私ね、本当なら死ぬはずだったんだ…でも、あなたが助けてくれた…あなたが、私に新しい命をくれた」
 「あぁ、そうだ!お前は生きてる。まだ生きてるんだ!だから諦めるな…」
 「ねぇ…抱き締めてくれないかな…」
 返事の代わりに彼は少女を抱き締めた。震える肩を慈しむ様にそっと包み込む。まだそこにあるぬくもりを、護るかのように。
 「忘れないで…私のこと…」
 残り少ない力を振り絞るとヘルガはゆっくりと彼の頬に触れた。
 「忘れない!だからはや…」
 彼は最後まで言葉を告げる事が出来なかった。彼の口を軟らかく、暖かい何かが塞ぎ、口の中に生温かい物が流れ込んできたからだ。突然の事に彼の頭は一瞬真っ白になった。
 やがて、ヘルガの腕が彼の頬から離れ、力なく項垂れた。訳も分からず、彼は口元を拭う。そこにあったのは、彼が良く見慣れた真っ赤な血であった。よく見ると、彼女の口元も血で塗りたくられている。
 そこで彼は漸く、ヘルガが自分に最期の力を振り絞って口づけをした事に気付いたのだ。
 「…まだだ!諦めてたまるか!!」
 ヘルガの身体を背負うと彼はその場から走り出した。彼に残された最期の可能性、その可能性に縋り付く為に。

 「おい!ヤブ医者!起きてるんだろ!!」
 棲家に戻ってきた彼は唯一の同居人の名を叫んだ。力の限り叫んだ。叫ばずにはいられなかったのかも知れない。
 「どうしたんだい?マーく」
 「いいから早く手術の準備をしろ!このままじゃヘルガが…」
 ヤブ医者と言われた男はそこで漸く彼が背負った血みどろの少女の姿に気付いた。
 「分かった!マー君は彼女を処置台に寝かせて!」
 今までに見た事のない険しい顔にさしもの彼も言葉を失い、指示の通りに動いた。

 しかし、この少女がもう一度その穏やかな笑みを彼に向ける事はなかった。

 「マー君……」
 男はどういう風に声を描けたら良いのか分からなかった。助からない訳ではない、どちらかと言えば可能性は高い方であった。だが、その可能性を無駄にしないだけの設備がなかった。そして何より、時間が経ち過ぎていた。努力はした。それこそ、他の患者に向ける何倍もの努力をした。無駄な努力だとは分かっていても、二人ともありとあらゆる処置を施した。しかし、それでも越えれないものがあるのもまた事実だった。
 「何故だ……」
 誰に言う訳でもなく、彼は自分の『手』に向かって叫んでいた。
 「何故だ! 何故お前は誰かを殺す事しか出来ない!?あの時は救って見せたのに!」
 それは、恐らく医療に携わる道を選んだ者なら誰もが通る道だった。どんなに一生懸命になっても叶わない事はある。それが、命を扱う事ならなおさらだ。
 しかし、それを経験するには彼はまだ幼かった。道徳や人生経験も足りなかった。そして何より、相手が拙かった。
 医療関係者は肉親や近しい人の手術に立ち会えないのはそのためでもある。しかし、それが今の彼に分かるはずもなかった。
 「マー君、気持ちは分からなくもないよ。でも……」
 それ以上男は言葉を紡ぐ事は出来なかった。彼の目に、その雰囲気に呑まれたからである。
そして彼は無言で男の前を後にした。その瞳に、この世の物とは思えない程の恐ろしい怒りと憤り、そして憎悪を宿らせて。

 その日、彼は生まれて初めて明確な殺意と憎悪を持って人を殺した。

 「――――――――――」
 雨が降っていた、まるで何かを悲しむように。優しく降る雨が、何故か彼には痛く感じられた。
 いや、実際彼は心を痛めていた。それは、以前にも彼が感じた痛みだった。
あの時と圧倒的に違うのは、やはり自分の手で一度は救ったからだろう。そっと唇に指を当てて瞼を閉じる。今でも、唇の触れ合うぬくもりと彼女の姿が脳裏に甦ってくる。もう、会う事の叶わない愛しい存在。
 握り締めたナイフが、いつもよりも重たく感じられた。

 「――――――ヘルガ!」
 少女の名を叫びながら、彼は身体を起こした。全身は汗でぐっしょりと濡れている。辺りを見回したがエリックの姿はなかった。
 「――――――――――」
 彼は思わず安堵していた。流石に、今の彼にヘルガの事をはぐらかせる自信はなかったからだ。
 彼はできる事なら幼少時代を共に過ごした3人、特にエリックにはその事を知られたくなかった。自分の弱さを見せるような気がして、とても嫌だったからだ。
 「―明日の朝は怪盗の話題から、か」
 半ば確信に近い想像を抱きながら、着ている物を全て脱ぐと彼はシャワー室に向かった。

 「今朝のニュースです。本日深夜未明、怪盗……」
 BGM代わりにつけていたテレビから流れてくるニュースを背に彼は慣れた手付きで2人分の朝食を用意していた。と言っても、トーストを焼いてシリアルの準備をするだけなのだが。突然押し掛けて来た居候はまだ起きていない。そう言えば、あの4人の中でもエリックは取り分け朝に弱かったな、そんな事を考えながら彼は一足早く朝食にありついた。
 「おーおー、派手にやったんだな」
 参考にとアメリカのテレビ局から送られてきたらしい映像には警察官を煙に巻きながら割りと優雅に逃げる怪盗とその怪盗を「たぁぁいほぉぉぉだぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」と叫びながら追う金髪の警察官の姿があった。
 「そう言えば、追われてるとか言ってたな。なるほど、確かにしつこそうだ。なぁ、エリック」
 気配を察したのか、彼は視線をテレビに向けたまま居候に呼びかけた。当の本人はのそのそと生欠伸をしながら冷蔵庫に向かっている。
どうやらまだ半分寝惚けているらしい。
 「そうだろ?もうホントしつこくてしつこくて……」
 そう言ってエリックは冷蔵庫からオレンジジュースを取り出すとそれをシリアルに何の抵抗もなくかけていた。ちなみに、このオレンジジュースは濃縮100%で味の濃さが売りである。つまり、かなりすっぱいのだ。
 まずそうだ、と彼は思ったがあえて指摘しない事にした。それよりも追求すべき事があると言うのも一つだが、一番の理由はエリックの反応が面白そうだったからだ。
 「…と言う事は、この怪盗シェルとやらはやはりお前なんだな。エリック」
 「あぁ…そう…だ……」
 寝惚け頭で会話していたエリックも漸く事態に気付いた。勘付かれているとは思っていたがまさかこんなアホらしい、それもお約束の展開でばれるとは思ってもいなかったのだ。
 「マーティオ…お前!?」
 「…シリアルにオレンジジュースか。中々変わった組み合わせだな」
 二重でやってしまった自分のミスにエリックは頭を描きながら深い溜め息を吐いた。彼は彼で、毅然と食事を続けていた。
 「…とりあえず、事情を話せ」

 「…で、イシュ絡みのブツを片っ端から盗んでいる、と」
 食事を終えた彼はコーヒー片手に事情を聞いていた。聞かせる側のエリックはというと、時折オレンジ味のシリアルに顔をしかめている。「せめて果汁30%なら…」と何度か呟いていたが濃縮100%果汁を選んだのは他ならぬエリック自身なのだから文句の言いようはない。
 「あぁ…ささやかながら俺なりにイシュの連中に抵抗してるって訳さ。ちなみに、趣味もかねてたりする」
 すっぱいシリアルを漸く完食するとエリックは安堵したような顔をしていた。そこまで拙いものなのか、と彼は思ったが流石に試す気も味の感想を求める気も起こらなかった。
 「ちなみに、さっきの映像に映ってたのが俺がオーストラリアに逃げてきた原因だ。しつこさは保障する」
 「あぁ、あれは確かにしつこそうだ…わざわざ追ってきたくらいだから」
 彼の言葉にエリックは訳の分からないと言った表情を浮かべた。理由を言う代わりに彼はテレビを指差す。
そこには大々的にこう書かれたテロップが出ていた。 ―――怪盗シェルに対抗するため、オーストラリア警察はアメリカから怪盗シェル対策のスペシャリストとしてネルソン・サンダーソン警部を召集する事にした、と。
 「マジかよ…」
 この世界に安住の地はないのか、そう呟きながらエリックは項垂れた。そんなエリックを尻目に彼はさっさと食器の片づけを始めた。
 「…なぁ、マーティオ。何かいい案はないか?」
 「怪盗を止めればいい。あの警部とやらは怪盗シェルを追っているのであってエリック・サーファイス個人を追ってるんじゃないんだからな」
 「それは無理だな」
 一番簡単で、一番楽な方法をエリックはあっさり否定した。
 「今シェルをやめたら、俺はどうやってイシュに恨みをぶつければいいんだ?」
 その答えを、彼は持っていなかった。

 ―でも、私はそのままの貴方が好きだな―
 煙草をふかしながら、彼は一人の少女の事を思っていた。
 彼女はそのままの自分が好きだと言ってくれた。ぶっきらぼうなところも、普通なら怯える鋭い目付きも、そっけないところも。全てをひっくるめて、そのままの自分が好きだと言ってくれた。
 だからこそ、彼は今の生活を続けていた。彼女が好きだと言ってくれた、自分であるために。しかし、思いがけない親友との再会を機に彼は考えていた。はたして、今の自分は彼女が好きだと言ってくれた自分なのだろうかと。彼女が好きだといってくれた自分は今の自分と同じなのだろうかと。
 「なぁ…どうなんだよ、ヘルガ……」
 返事は返ってこなかった、帰って来る筈がなかった。救えなかったのだ、この手で見殺しにしてしまったのだ。
 「…待てよ。俺はそんな事をうじうじと考えるよなやつだったか?」
 そのまま自問自答する、果たしてマーティオ・S・ベルセリオンという男はそこまで女々しい男だったのだろうかと。答えは否だった。少なくとも、ヘルガが好きになってくれた彼はそんな女々しい男ではなかったはずだ。
 ―私は、そのままの貴方が好き―
 彼女の言葉が何度も頭の中でリフレインする。なら、彼女が好きだったそのままの自分いるためにはどうしたらいいのだろうか?中々でない答えを繰り返し考えながら、彼は部屋の天井を眺めていた。

 「…よぉ、マーティオ」
 彼が2本目の煙草に火を点けたのと同時にエリックは彼の部屋を訪ねるとそのまま手近にあった椅子に腰掛けた。
 「何だ、エリック。金なら貸さんぞ」
 「そうじゃねぇよ!…そろそろ出て行こうかと思ってさ」
 「…急だな。原因はやはり例の」
 「あぁ。流石に警部が出てきたら大変だしな。それで、お前今暇か?」
 「…まだるっこしい。回りくどく言わないで言いたい事をさっさと言え」
 そう言われてエリックはそれまでの人懐っこいと言う言葉が似合いそうな笑顔から一気に表情を引き締めた。それと同時に彼も表情を引き締めた。とは言っても、彼の表情は基本的には無表情なのでエリックでさえもそうかもしれないと思った程度ではあるが。
 「…なぁ、俺と一緒に来ないか?」
 それは、エリックからしたらかなり重大な提案だった。彼の実力はエリックも良く知っている。そんな彼が同行してくれるのなら、エリックにとってはこの上ない頼りになる相棒を手に入れる事になる。
 しかし、彼にも今の生活がある。それを壊そうとまではエリックも考えていなかったのだ。
 「次の盗みは2週間後にするつもりだ。それまでに返事を…」
 「…分かった。お前に付き合おう」
 「……へ?」
 「次の盗みは2週間後だったな…それまでに準備を済ませておく。悪いがその間ここの管理は任せたぞ」
 そう言って彼は部屋を後にした。後には、あっけに取られているエリックだけが取り残されていた。

 それから1週間、彼は本当に準備を済ませてしまった。
 どこから持ってきたのか分からないショットガン、手榴弾と言った重火器。接近戦を意識してか数種類のナイフが数本ずつ。いざと言うときを想定してか変装セットに非常食。なんに使うのか分からない水鉄砲。他にもあったのだがこの場では割愛させていただく。そして、最後に青い仮面。
 「よくもまぁこんなに…って言うか、変装セットに非常食はいらないだろ!?」
 「何があるか分からないからな。一応用心のためだ」
変装セットはともかく、非常食や水鉄砲が必要な場面がエリックにはどうしても想像できなかった。それ以前に、自信満々にそう告げる彼にエリックはそれ以上何も言う事はできなかった。いや、一番の理由は彼の瞳だった。別れ別れになる前の、自信に満ちた鋭いその眼差しにエリックは言いようのない頼もしさを感じたのだ。
 「…よし。じゃあ予告上でも出してくるか。っと、そうだ」
 予告カードに獲物と日時を書き記しながらエリックはマーティオの方を振り向いた。
 「マーティオ。お前、なんて名乗るんだ?」
 「そうだな…」
 ふと彼は自らの手に視線を移した。
 誰かを殺す事しかできない手。しかし、あの日少女を救ったのもまた事実だった。 …彼の答えはおのずと一つしかなかった。
 「―――――――――だ」
 「OK…じゃあ、こいつを出してくるぜ」
 そう言ってエリックは部屋を飛び出した。その表情は心なしか嬉しそうだった。
 彼は彼でじっと自分の手を見つめていた。あの日、その手は彼の大切な人を殺してしまった。それなら、そのままであり続けようと彼は思ったのだ。それが、彼女が愛した自分だと言うのなら。
 だからこそ、彼は再び彼にとっては忌まわしいあの名を名乗った。自分が誰かを殺したり何かを壊したりしかできない事を、そして彼女の事を忘れないために。

 そして、予告の期日がやって来た。

 「準備はいいか、マーティオ?」
 新たな相棒にエリック―怪盗シェルは問いかけた。その顔には既に彼を怪盗たらしめている仮面がつけられている。
 「あぁ。いつでもいける」
 そう言って彼は青い仮面をつけた。
 遥か上空には綺麗な満月が輝いている。まるで、怪盗シェルの新たな相棒の誕生の瞬間を祝福しているようであった。
 「今回のターゲットは『リュケイオンの瞳』ってサファイアだ」
 「分かってる…先に行くぞ!エリック!!」
 そう言って彼は…マーティオ・S・ベルセリオンは駆け出した。
 そこには迷いはない。
 そこには恐れはない。
 あるのは、新たな決意だった。
 誰かを殺す事しかできない手。
 その手で出来る事をするために。
 マーティオは走り出したのだ。
 しかし、マーティオはまだ知らない。
 近い将来、誰かを殺す事しかできないその手で大切な親友の未来を救う事を…

 そしてその夜、新たな怪盗が一人生まれた。
 黒いマントに青い長髪、そして青い仮面。
 かつて、犯罪者として恐れられ、医者として自らの愛しい人を助け殺したその名。
 それが今、新たな目的を得て甦った。
 その名は―――――怪盗イオ。

Fin



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