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クリシュナ108のブログ

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Nov 29, 2016
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        『ナーラダ・バクティ・スートラ』


 第81節  永遠の神理の中で、ただバクティだけが愛おしい、まことにバクティだけが愛おしいのだ。

             (要旨解説)

 心と体と言葉の三つ(トリ・サッチャ)を使って主への「バクティ」を行ったならば、それは主にとって最も愛おしいものとなる。「ナーラダ・ムニはヴィーナを奏でながらラーディカ・ラマナの御名を唱え三界を旅して、会う人全てにバクティを配る」と謳われている。また、主は五百年前に最も堕落した魂を救うために、主チャイタンニャと主ニッチャーナンダのお姿で現れた。そして全ての者にバクティ・ラサを配られた。私達も、主や主の純粋な献身者の足跡に従って会う人全てに「バクティ」のみが崇高な宝であると説教すれば、主にとって最も愛おしい人になる。

 「自らの心と言葉、行為を用いて、全ての被造物を私の顕現と見なすこと、これこそが私へと通じる教えの中で最高のものであると、私は宣言する」『シュリーマド・バーガヴァタム』第11巻29章18節

行為を用いる方法はユクタと呼ばれ、ルーパ・ゴースワミーはそれをユクタ・ヴァイラーギャと呼んでいる。心身を用いて「バクティ」に従事すれば物質との結び目(アハンカーラ)がなくなるという教えである。行為を用いてこそ人に模範が示せる。人は瞑想と称する無行為の詐欺師にだまされ、実際は心を制御できない輩の教えを受け入れ混乱する。規定原則を守り、主の御名を唱え、謙虚に献身者に、全ての生命体に仕える行為の中に生きている人こそ聖者なのである。シクシャ・グルの権化であるルーパー・ゴースワミーに従う者こそ真の「バクティ」が与えられる。

 「バクティ」のみが森羅万象の中に主を見る眼を与えてくれる。そして全ての生命体の中に主を見て、主を忘れている人に主を思い出させようと奮闘努力する。主の御名を唱えてもらうように懇願する。



2016年12月7,8,9日とインド・クルクシェートラ大学のセミナーに出席します。







Last updated  Nov 29, 2016 05:40:27 PM
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Oct 10, 2016

       『ナーラダ・バクティ・スートラ』


 第80節  主は賛美されるなら、直ちにそのバクタの下に現れ、ご自身を与えてくださろう

             (要旨解説)

 主の姿を見るための自分勝手な方法などない。すべては主のいわれのない慈悲にかかっている。「どうか私の前に現われてください」と主に要求することはできない。こちらの都合どおりに太陽に昇るよう要求できないのと同じである。太陽が自然の法則どおりに昇るように、主もいわれのない慈悲の心から現われてくださる。主に仕えながら、その瞬間が訪れるのを忍耐強く待ち続けなくてはならない。主を縛ることができるのは、純粋無垢な献身奉仕だけなのである。そして物質的な感覚では、主を見ることも感じることもできない。「私はあなたの永遠の召使ですから、あなたに仕えさせてください。私に奉仕を与えてください」これが主への最高の賛美である。主の慈悲にすがって行う献身愛奉仕に主が喜びを感じた時、主はご自分の判断で姿を見せるのである。
 「私を愛し、常に私に奉仕する者たちに、私は姿を見せる(本分は真の知性を与えるになっている)。それにより彼らは私のもとに来るのだ」『バガヴァッド・ギーター』第10章10節 この節はクリシュナはご褒美としてご自分の姿を見せることを言っているのだとシュリーラ・プラブパーダは解説している。サーダナ・バクティの段階を超え、バーヴァ、プレーマに昇ると、主との謁見(ダルシャン)が与えられるのである。







Last updated  Oct 10, 2016 11:10:16 PM
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Aug 13, 2016

     『ナーラダ・バクティ・スートラ』


 第79節  不安と疑いから解放されて、全身全霊を持って、ただバガヴァーンだけを礼拝すべきである


        (要旨解説)


 不安と疑いは無知から生じる産物である。主から離れると恐怖が生まれる。将来が心配になる。そして幻惑され主以外の相対的な概念でこの苦しみを逃れようと努力する。それが無知である。前節に挙げられた良い質を身につけない限りこの無知から逃れることはできない。『バガヴァッド・ギーター』第13章12節で、主は良い質(スヴァダー)を説明した後、「以上のことが知識の本質であり、これに反することが無知であると私は明言する」と宣言している。この不安と疑いに代表される心の迷いは執着と嫌悪という二元相対観念から生まれる。この大敵に打ち勝つには主の正統な代表者であるグルと歴代のアーチャリヤの御足に保護を求めなければならない。グル、シャーストラ、サドゥの見解は一致している。人類にとって最高の恩恵は全身全霊でする献身奉仕(アナンニャ・バクティ)によるバガヴァーン・シュリークリシュナの礼拝(バジャナ)によって得られることを確証している。師弟継承(グル・パランパラー)に入ることより不安と疑いから解放され、師弟継承をつなぐ慈悲が与えられると、つまり人にクリシュナ意識を配る側に回ると、一意専心の「バクティ」(アナンニャ・バクティ)が得られる。


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Last updated  Aug 13, 2016 08:21:27 AM
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Jul 22, 2016
         
         『ナーラダ・バクティ・スートラ』


 第78節  そして非暴力(アヒムサー)と真実(サッチャン)、清浄(スッカ)、慈悲心(ダーヤン)、信念(アースティカ)などの徳を培うべきである



              (要旨解説)



 ここに挙げられている良い質が「バクティ」により達成される。主は『バガヴァッド・ギーター』第10章4、5節で、これら多くの資性を生物に与えるのはただ私のみであると言っている。そして『バガヴァッド・ギーター』第13章8~12節で主の慈悲により与えられる資性の一覧が示されている。  『シュリーマド・バーガヴァタム』第1巻17章24節では宗教性(ダルマ)を象徴するとされる牛の四本の足(チャトゥシュ・パーダン)について説明されている。サッチャ・ユガではこの四本の足、苦行(タパ)、清潔さ(ショーチャン)、慈悲心(ダーヤ)、誠実さ(サッチャン)で牛はしっかりと大地に立っていた。しかしカリ・ユガでは高慢さ(スマーヤ)、色情(サンガ)、陶酔物(マダイ)という無宗教(アダルマ)により足が折られ、誠実・正直(サッチャン)という一本の足しか残っていないのである。しかしこの高尚な宗教原則を、主に身を委ねる「バクティ」により回復できる。人間として生まれたにも関わらずこの宗教原則を受け入れないことは精神的自殺行為、すなわち自分の体への暴力と考えられるのである。


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Last updated  Jul 22, 2016 10:58:29 PM
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Jun 18, 2016
        『ナーラダ・バクティ・スートラ』


 第77節  幸と不幸、願望、利益などを放棄して、時が許す限りそれを果たして、一瞬とて時を無駄に過ごすべきでない

             (要旨解説)


 心を使うと善悪、損得、結果への期待という心情に支配される。これらのものを放棄するには「バクティ」から得られる高い意識が必要である。心を抑制・統御することは、バクティ・ヨーガによってのみ可能となる。それがユクタ・ヴァイラーギャである。「バクティ」こそが真の離欲に、ふさわしい(ユクタ)という意味である。私達が一時的な執着から離れ、永遠の至福に満たされるには前節にある義務の遂行から始まるヴァイディ・バクティのプロセスを受け入れなければならない。そしてその義務・規則の遂行が自発的にできるようになれば、物質界での持ち時間を一瞬たりともおろそかにしなくなる。このような発達のプロセスが「バクティ」を受け入れた人には保証される。欲望は欲望を満たすことで解決されない。欲望を放棄することで真の欲望が顕現する。


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Last updated  Jun 18, 2016 07:37:24 AM
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May 14, 2016

       『ナーラダ・バクティ・スートラ』


 第76節  むしろバクティの聖典を尊び、それが指し示す義務を果たすべきであろう


            (要旨解説)


 ヴェーダには信念をカルマに向ける、アートマンに向ける、バガヴァーンに向ける方法が説明されている。それぞれカルマ・ヨーガ、ギャーナ・ヨーガ、バクティ・ヨーガの推奨である。一般に人々は物質的な感覚満足の欲望が捨てられない。自分が色々考えて絶対真理を探究したいという思いが強い。だから最初の段階ではラジャスの質を持つカルマ・ヨーガが勧められる。そしてやがてサットヴァの質のギャーナ・ヨーガの段階へと昇進する。しかしそういう段階を踏まずとも、「バクティの聖典」を学び、ヴァイディという義務の遂行による外的な「バクティ」から始め、ラーガヌーガという自発的な内的な「バクティ」へと移行する訓練を果たすべきだと助言されている。行(ぎょう)とはカルマという意味とサンスカーラという意味の二つがある。カルマとは行為、サンスカーラとは行為以前の心の印象を指す。行いを規制し心を浄化するのが修行であり、ヴァイディ・義務を果たすバクティと呼ばれる。

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Last updated  May 14, 2016 07:49:23 AM
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Apr 27, 2016

       『ナーラダ・バクティ・スートラ』


 第75節  それはかえって混乱に陥り、決して結論に至ることがない


            (要旨解説)


 経験至上主義の哲学者のようなアプローチで至上主に近づく。それは土台無理な話である。『バガヴァッド・ギーター』第4章4節の要旨解説でプラブパーダは「いつも自分達の見地からクリシュナを解釈している悪魔族は、自分達が理解できるように歪曲している」と揶揄(やゆ)している。このような見地で辿り着く結論は至上主を非人格として捉えるのが関の山である。マーヤーヴァーディは一番悪い悪魔、全ての者達はマーヤーヴァーダ哲学を聞いてはいけない。そうすれば破滅するだろうと主チャイタンニャも忠告している。『CC Madhya 6-169』 サルヴァバウマ・バターチャーリヤは、偽りの論理で満ちたあらゆる種類の議論を持ち出し持論を主張しようとしたが、主チャイタンニャに論破されて意気消沈した。『CC Madhya 6-177』 また混乱とは、ダルマ、アルタ、カーマ、モクシャをゴールに設定することである。それらは動機がクリシュナに向いていない。


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Last updated  Apr 27, 2016 10:40:47 PM
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Mar 28, 2016
       『ナーラダ・バクティ・スートラ』


 第74節  彼は決して議論に耽るべきでない


            (要旨解説)


 全ての知識が、ヴェーダとして物質創造の最初から示されているのに、どうして議論して新しい何かを作り出さないといけないのか。自分の理解できる範囲で、また不完全な感覚で絶対真理に辿り着けるわけがない。カエル博士が自分が住んでいる井戸の大きさから、太平洋の大きさを類推するような愚行である。有限な者が無限な者を彼らの理屈で理解しようとしても必ず頓挫する。全て徒労に終わるので、いたずらな詮索、想像に耽るべきではない。時間の浪費である。心という物質を使って、その考えるという手段を使って、物質を超えた超越的なものが推測できるわけがない。

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Last updated  May 14, 2016 08:12:50 AM
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Feb 8, 2016
       『ナーラダ・バクティ・スートラ』


 第73節  なぜなら彼らは全て主のものだから


            (要旨解説)


 私達は主の所有物であるから、主から独立して存在はできない。全ての源であり原因であるお方、主クリシュナから発生した分子(アヌー)である。本当の父であるクリシュナに仕えるのが魂の永遠のダルマであることを思い出し服従した時、主の内的エネルギーに抱かれ保護される。

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Last updated  Feb 8, 2016 11:08:51 PM
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Jan 23, 2016


       『ナーラダ・バクティ・スートラ』



 第72節  カーストや学識、姿形も、家系も、財産も、職業でさえ、彼らの間で区別されることはない



            (要旨解説)


 純粋な献身者の行動の動機は、クリシュナへの奉仕のみに集中している。そのような活動はもはや物質界の活動ではない。物質の構成要因であるトリ・グナの支配やカルマの反動を超越している。生まれやそれに伴う一時的環境と、魂が一切関係のないことは『バガヴァッド・ギーター』第9章32節でも説明されている。
また『シュリーマド・バーガヴァタム』第11巻12章「サットサンガの栄光」の各節で列挙されている聖者との交際により得られる「バクティ」顕現後の状態は、これらの物質的区別とは一切関係のないことが示されている。本来魂にはこういう一時的な肉体上の区別など存在しない。主の前では全ての魂が主の召使であり平等である。

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Last updated  Jan 23, 2016 01:43:15 PM
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