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『第6の茶室』 掛け軸 Bhagavad-gita第6章15節から このように体と心と行動とを 統御する修行を積み上げて 超越主義者は物質界を脱却し わが住処(すまい)なる神の領域(くに)へ来るのだ 『解説』 ここでは「体と心と行動を統御する」ことで「物質界を脱却する」ことができるという秘密が明かされている。魂は肉体と心(正確には心・知性・偽の自我)でできた霊体とで二重に覆われていることはすでに説明した。肉体の行動とは、感覚をとおして感知した物質世界と接触し、手のとどくものすべてを支配してたのしもうとすること。心は本来物質(肉体・霊体)、精神(魂)どちらへもむけられるのであるが、統御訓練されていないと物質への欲求にむけられる。 物質のほうをむいた心の行動とは肉体の欲求をどうして獲得しようかと思索することになる。肉欲をかなえるにはどういう方法があるか、どういう手段があるのかと色々かんがえる。この物質でできた肉体と心を精神的なエネルギーと接触させるように訓練することが魂の覚醒をもたらすのである。 肉体に付随するものは欲望・感覚満足、心に付随するものは思索・推論、魂に付随するものは至上主への奉仕である。それぞれの段階に応じて修行をしないといけない。 定められた仕事をして現世ご利益を追求る道はカルマ・ヨーガとよばれる。自分の質にあった仕事をヴァルナ制度のなかから受けいれる。この職種とは「ヴェーダ」によって四つに区分され定められた仕事である。僧侶階級、軍人・行政官階級、商業・農業階級、労働者階級である。これらのうち自分の性質、能力にあった仕事につき「かせぎ」をする。社会の頭となり手となり体となり足となり支えあい秩序をたもつ。そのなかで節度をもってダルマ(宗教)、アルタ(経済発展)、カーマ(感覚満足)を人生の目標にする。そしてできる範囲で「かせぎ」を「つとめ」として、なにか精神的向上のためにつかう。 肉体に対する快適さとか所有欲などを捨てて経験知識を積みかさねて、それを通じて真理にふれる道はギャーナ・ヨーガとよばれる。自分は肉体ではないと心の推論、思索で感知する。魂と肉体の違いを心底理解できるように自力で探求しようとする。モクシャ(解脱)、つまり物質世界からの脱却を人生の目標にする。 そして至上主に対して愛と奉仕で仕える道をバクティ・ヨーガとよぶ。ギャーナ・ヨーガに惹かれる人はまだ至上の存在への焦点が定まらない。しかしバクティ・ヨーガを修練すると、私たちが最終的に依存している人が至上主クリシュナだとわかる。神に対してなにかをください、まもってくださいとお願いする気持ちを捨て、自発的にこちらからなにかをさせてください、仕えさせてくださいと祈るようになる。そうするとクリシュナの望みに仕えるには精神界の家にかえらないといけないことがわかる。クリシュナの本当の望みはなにかを教えてくれるのはグル以外にないことがわかると、弟子入りし直接指導を受け本当の自分の家にかえる準備をするようになる。グルが教えるその方法とはシュラバナン(聞くこと)、キルタナン(唱えること)からはじまる九つのバクティ・ヨーガのプロセスである。この方法にしたがってクリシュナに仕え、主の望みをかなえようとすることがバクティ・ヨーガの活動である。プレマ(クリシュナを喜ばすこと)が人生の目標になる。 「物質界を脱却し」とあるが、これはもうひとつ別の自然、精神界(神の領域)があることを示唆している。物質界は一時的で有限な相対世界である。そこには生老病死、三つの苦しみ(自分が起因となるもの、他の生物からもたらされるもの、自然界からくる天変地異など)、時間(過去をなげき未来を心配するもの)、カルマ(自分がした行為の作用・反作用)がある。精神界は永遠で無限な絶対世界である。私たちを苦しめる要因は皆無である。この二つの自然が存在することを学ばないといけない。心を肉体にむけるか魂にむけるか、よくかんがえないといけない。 アルジュナ(左)は至上主クリシュナ(右)からバガヴァッド・ギーターの教えを聞く。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Sep 2, 2012 11:26:12 PM
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