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『第8の茶室』 掛け軸 Bhagavad-gita第8章5節から 死の時期が来て、肉体を離れるときに 私だけを想っている者は誰でも まっすぐに私の郷に到る このことに疑いの余地はない 『解説』 プラヤーナ・カーレー(死ぬとき)に、一生涯にしてきたことを死のときにテストされる。人生の最期に、つまり死ぬ本番のときに人はためされる。そのとき君たちは本当の家である精神界にかえる決心をしていないといけない。「ヴェーダ」をしらない無知な人はそんなことはわからない。死のときが人生の総仕上げでクリシュナに認めてもらう絶好のチャンスなのである。無知な人はそんなチャンスをみすみすのがしてしまう。覚者にとって死は有意義な瞬間だが、愚かな人にとってはただの恐怖にしかすぎない。 死の本当の意味をしらない人は死とともに生前におかした罪により、このよろこばしくない物質界に強制的に再送還される。ヴィカルマによりその罪の程度に応じて次世の肉体と行き先がきまる。死のときにクリシュナを想ったものはヴィシュヌ・ドゥータという至上主の使いがやってきて精神界に移送してくれる。このことは「ヴェーダ」に記述されている。これに反して無知蒙昧のなかで死をむかえたものにはヤマ・ドゥータという閻魔大王(ヤマラージ)の部下が必ずあらわれ大王の前につれていく。そして来世の裁定がくだされる。 クリシュナは「アルジュナよ、私も君も、何回となくこの世に生まれてきたのだ。私は全てを覚えているが、君は前世のことを何もしらない」【バガヴァッド・ギーター第4章5節】といっている。ここで至上主(イーシュワラ)と個人の魂(ジーヴァ)の違いが明確にされている。個人の魂は前世のことも、また他の人がなにをしてきたか、なにをかんがえているかもわからない。しかし至上主はすべてをしっている。物質界において至上主は、すべての生物の肉体のなかにある魂に寄り添いその活動をみている。私たちは自分のことしかわからない、隣の人がなにをかんがえているのかもわからない。しかし至上主は宇宙中のすべての生物の動向をしっている。主はスーパーソウルと呼ばれる四本腕のヴィシュヌの姿で各生命体の体内に個人の魂と一緒にいて、すべてを観察している。だから死ぬとき目撃者として審判をくだせるわけである。適切な心の状態で死んでいくには常日頃からクリシュナの話を聞き、み名を唱えるという献愛奉仕の活動をしないといけない。 プロ野球の選手も毎日毎日打撃練習でボールをうちつづける。そうすることによって本番の試合でヒットがうてる。練習しないで打席にたったならまずうてない。それと同様に君たちも「ヴェーダ」がおしえている練習メニューにしたがって毎日練習しないといけない。水泳の本をよんだだけではおよげない。毎日プールで練習をしないといけない。死ぬときに心がみだれず主のみ名が想い出せるように毎日唱えないといけない。 毎日の活動をクリシュナのためにおこなう。クリシュナのために仕事をして、クリシュナのために奉仕をするための肉体をやしなう。食事はクリシュナのためにつくり、ささげたあとでたべる。毎日花一輪、水一杯でいいから愛とともにささげる。そして時間のゆるす範囲で『バガヴァッド・ギーター』を一節でもよむ。マハー・マントラを一回でも唱える。そういうあなたの行為を主はすべてみている。そして人生の最期に精神界にかえる最大のチャンスに、君は最高の意思表示ができるに違いない。それが人生の完成である。あなたは、人は死ぬときにためされるというもっとも大切な知識をここでしったのである。 「私の人生は一見悲劇的な出来事に満ちていた。それにもかかわらず、私が目に見えたひどい傷を残さずに生きてきたとしたら、それは全てバガヴァッド・ギーターのおかげだ」【マハトマ・ガンジー】 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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