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『第10の茶室』 掛け軸 Bhagavad-gita第10章11節から 彼らに特別の慈悲を示すため 私は彼らのハートに宿り 輝く知識の燈火をもって 無知より生じた闇を破る 『解説』 私たちの苦しみの原因はなにであろうか。それは無知である。時速40キロのスピード制限がある道路を、時速100キロで走るとどうなるか。警察が来てスピード違反でつかまえる。そのときそんな法律があることはしりませんでしたといえば警察はゆるしてくれるだろうか。 同様にこの宇宙にも大きな自然の法則が存在している。人は生まれ、成長し、老いて、死んでいく。太陽は朝のぼり夜にはしずむ。水は水蒸気になり空にあがり雲になってまた雨としておちてくる。善行にはよい反動、悪行にはわるい反動がくる。こういう一定の法則に基づき万物の運営にはある一定の管理がなされていることはわかるはずである。統一性のもとに物質現象すべてが統制されている。この現象を正しく理解しその背後に意思があることをしってその法則を尊重しないと罰せられる。しらなかったではすまされない。 人間生活は自己を悟るために用意されているが、それに無頓着でいると罰せられる。人間生活を動物のように生きると宇宙の大法則に違反したことになる。動物のように生きるとは、食べて、寝て、身をまもり、子孫をのこすだけの生活をさす。人間でありながら「ヴェーダ」の教えを受けいれないで毎日をすごしているとヴィカルマという罪の反動の責任をとらされる。 無知でいると肉体と魂の違いなどわからない。暗闇のなかにいれば目がみえず人生の目的が理解できない。盲目の人がおなじ盲目の人の手をひいてあるく。溝におちるのは明らかである。夜になっても家に灯りがともっていない。それは貧しい家庭である。心のなかにも灯がともっていない人は貧しい人である。心に灯りをともすということは「ヴェーダ」を受けいれ、人生を完成させる知識を得るということである。知識の燈火をもって疑い、苦しみの元となる暗闇を照らしだす必要がある。それができてこそ人間生活である。 『バガヴァッド・ギーター』の目的は人類を物質存在の闇から救い出すことである。人間がこの世に生れたのは家畜のようにあくせくとはたらくためではない。私たちは人間としての生命がいかに貴重なものであるかを理解して、無知のなかで生きる動物のような生活を拒否しないといけない。主は個々の体内に魂といっしょに並存しすべてを目撃している。個人の魂(ジーヴァ)の意識は各自の一個体に限られているのに対し、主の意識はすべての個体にある。なぜなら主はすべての生物のハートに住んでいるからである。 もし君たちが「ヴェーダ」の教えにふれ一念発起して心に小さな灯をともし少しでも無知をのりこえようとしたら、ハートにいる主はすぐに君たちをたすけはじめる。心の灯りをつけるスイッチをいれなさい。多数派にのみこまれず、自分が何者かを確かめるため内省すべきである。君たちが自分さがしのスイッチをいれたなら、クリシュナはあらゆる手段を使って君たちをたすけるのである。 すべての生物のなかに、主は目撃者、随伴者として存在している。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Sep 6, 2012 11:05:08 PM
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