クリシュナ108のブログ

2012/09/07(金)22:33

『第11の茶室』 掛け軸  Bhagavad-gita第11章55節から

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『第11の茶室』 掛け軸  Bhagavad-gita第11章55節から 愛するアルジュナよ、私への純粋な献愛奉仕を行い 果報的活動と心の思索の汚れを捨てて 私のために働き、私を人生の至上目的として 一切生類に友好的な人は、必ずや私のもとに来る 『解説』 ここでクリシュナははたらくことについて言及している。君たちはだれのためにはたらくのかかんがえてほしい。家族のため、顧客のため、会社のため、国のためだろうか。やはり自分のためだとおもうかもしれない。ここで抜けているのは、クリシュナのためにはたらくという発想である。今までの人生で君たちはクリシュナのためにはたらくなど想像もしたことがなかったであろう。自分もしくは自分と関わるものを喜ばすために「かせぐ」それが普通だとおもっていたに違いない。活動にはその行為の反動がやってくる。自分だけがたのしもうとするとそれは間違った行為とみなされ罰がくる。悪いことをしたわけでないのになぜ罪にとわれるのか。それがわからないのが無知である。「ヴェーダ」にしたがわず自分をたのしませる行為はヴィカルマであり、誤った活動とされる。クリシュナを喜ばせる活動はアカルマであり、生と死の束縛からの解放が与えられる。この二つの活動のことは既に『第4の茶室』で説明した。 自分がつくったジグソーパズルをだれかがきてバラバラにしたら君ならどうする。相手をせめるはずである。しかしだれかがつくったジグソーパズルがこわされるのを君がみたとする。これに対しては平静でいられるはずである。自分がつくったものとは関係のないものだから。この宇宙(現象世界)をつくったのはクリシュナである。それを今私たちは自分勝手につかい、その環境をこわしている。『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』という「ヴェーダ」教典のなかには次のようにかかれている。「宇宙に存在する一切の生物・無生物は、主によって支配され、所有されている。ゆえに、自分に必要なものとして割り当てられたものだけを受けとるべきであり、それ以外は、それがだれのものかをよく承知したうえで、受けとってはならない」 クリシュナのためにはたらくとは、まずこの世界をだれがつくったのかをしること。だれが支配しているかを理解することである。その創造者がどういう風にそれを使ったら喜ぶかを考えて行動することである。環境破壊や不必要な資源の乱獲。動物の屠殺。そんなことをしてクリシュナが喜ぶはずがない。 自然に与えられるもので質素にくらし「ヴェーダ」にしたがって献愛奉仕(バクティ・ヨーガ)をしてクリシュナに仕える。『第6の茶室』で説明した、現世ご利益の追求(カルマ・ヨーガ)と心の推論、思索(ギャーナ・ヨーガ)ではクリシュナを喜ばすことができないことがここで記されている。人生の目的をダルマ(宗教)、アルタ(経済発展)、カーマ(感覚満足)とすることや、モクシャ(解脱)とすることは薦められていない。人生の至上目的をプレマ(主を喜ばせ、主への愛を得ること)にしなさいと明確に説明している。これは最も内密な分野にはいる情報である。プレマを人生のゴールとしてバクティ・ヨーガを修練すればやがて浄化され、一切生類の生命体のなかに魂をみる。生物の外側をみないで内なる存在をみる。するとあらゆる生命体のなかにパラマートマー(目撃者)として随伴する至上主をみるようになる。そういう境地にいたると人生は完成する。そうすると来世では精神界で直接クリシュナと交際できることがここで約束されている。 肉体や心はやがて捨てないといけない。魂は永遠なのだから魂に関する仕事をすればいい。魂の活動である献愛奉仕(バクティ・ヨーガ)には九つの方法がある。なんども説明したが現代(カリ・ユガ)に最も効果のある方法は二つ、主の聖なるみ名を聞くこと、唱えることである。これ以外に方法はない。これ以外に仕事があるとおもうのは幻想である。心静かにすわってマハー・マントラを唱え、その音の響きを集中してきく。そこにすべての問題の打開策がみつかることが保証されている。 「バガヴァッド・ギーターを読み、神がいかにしてこの宇宙を創造されたかに思いをはせるとき、他の全てのものが全く余分なものに思えてくる」【アルバート・アインシュタイン】

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