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『第13の茶室』 掛け軸 Bhagavad-gita第13章22節から
このように生命体は物質自然の中にあって 特定の生活様式に従い、物質の三様式を享受する それは物質自然と係わるからである このように生命体は様々な種の中で善や悪に遭遇する 『解説』 個人の魂が物質界とかかわると、物質を構成する三様式、徳(サットヴァ)、激情(ラジャス)、無知(タマス)というエネルギーの影響を受けることになる。 過去世のカルマにより人はそれぞれ関心をしめす対象が違ってくる。また現世で交際する人のもっている様式に強く影響される。徳の様式の人は自分の仕事や知的追求によって満足感を味わっている。哲学者、科学者などは自分の知識に誇りをもっている。そういう人は一般的に生活環境も良好なので物質的な最上の幸福感をもっておりそれに束縛されてしまう。激情の様式の人は現世ご利益に惹かれ、能力のおよぶかぎり金や物や名誉を所有したがる。慈善団体や社会福祉のために寄付活動もおこなう。そして際限なく自分の富をふやそうと奔走する。無知の様式の人は無気力で暗闇のなかに退歩、堕落していく。必要以上にねむり、投げやりで酒やドラッグにおぼれ、目的も定めずに気ままに行動する。 この物質界という容器のなかにはこれらの三様式が混ざりあった状態になっている。これはあくまでも例えであるが、コーヒーカップのなかに、ミルク、砂糖、コーヒーがはいっているとする。自分の味の好みでその配分は調節できる。肉体のなかに、徳、激情、無知がはいっているとかんがえてもらいたい。君たちのコーヒーカップ(肉体)のなかの配分はどうなっているだろうか。それは君たちが付きあう人をみればわかる。同じ配分の人に惹かれるからである。 砂糖やコーヒーの分量を多くすればたしかにおいしい。しかし中毒になってやめられない。できるだけミルク(徳性)の配分を多くしたほうがいい。 この三様式(トリグナ)は物質を構成する要素で、この物質エネルギーのことをマーヤー(外的エネルギーの別称でもある)という。違うもの、そうでないものという意味である。マーヤーとは私たちの魂を物質にしばりつけようとする幻想力のことである。この力がクリシュナのことをわすれさせようと攻撃してくる。「ヴェーダ」の知識をしらないとこの非常に強力なマーヤーは克服できない。この体は自分の意思でうごかしているとかんがえるのは間違いである。自分の本当の意思とは魂である。魂の行動とはクリシュナを愛し、仕えたいとおもうこと以外にない。もし君たちがクリシュナへの献愛奉仕をのぞんでいないのであれば、魂はねむっていてマーヤーにうごかされている。マーヤーは君たちの心にはいりああしなさい、こうしなさいという。それで心を自分自身だとおもって行動する。日本に生まれたらその影響を受け日本語をしゃべり、日本料理をおいしいとおもう。日本特有のしきたり、文化を受けいれる。 人間の女性を見たとき、徳の様式にいる半神などの偉大な生物や自己を悟った聖者は外面をみず性別もみず一個の魂とみる。激情の様式にいる人間はきれいな人でお付きあいしたいとおもう。無知の様式下の動物たち、たとえばライオンやトラはおいしそうな食べ物とみる。三様式の影響の違いにより、それぞれ違った視点をもっている。違った行動様式をとる。 自分は人間、日本人、韓国人、アメリカ人、男性、女性という身体の上だけの問題と自分自身とを同一視して錯覚におちいり魂の存在を見失う。こういう外側の条件は死とともに捨てさられる。自分自身を一時的な肉体上の存在であると誤解したときだけ人は善や悪という相対的な現象に遭遇する。 このような二元性は精神界にはない。魂はそういう二元性とは関係のない存在である。知識の目をもち肉体と魂の違いをしるものは物質界の鎖から脱出する方法をしり本当の家にかえっていける。コーヒーカップの物質成分を捨て、「ヴェーダ」の知識という三様式をこえた純粋な甘露をいれないといけない。 クリシュナは物質自然(プラクリティ)を構成するトリグナをこの章でアルジュナに説明しました。またその物質自然とは別にそれを認識する者(魂)の存在を教えました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Sep 10, 2012 07:36:47 PM
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