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Jul 22, 2016
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         『ナーラダ・バクティ・スートラ』


 第78節  そして非暴力(アヒムサー)と真実(サッチャン)、清浄(スッカ)、慈悲心(ダーヤン)、信念(アースティカ)などの徳を培うべきである



              (要旨解説)



 ここに挙げられている良い質が「バクティ」により達成される。主は『バガヴァッド・ギーター』第10章4、5節で、これら多くの資性を生物に与えるのはただ私のみであると言っている。そして『バガヴァッド・ギーター』第13章8~12節で主の慈悲により与えられる資性の一覧が示されている。  『シュリーマド・バーガヴァタム』第1巻17章24節では宗教性(ダルマ)を象徴するとされる牛の四本の足(チャトゥシュ・パーダン)について説明されている。サッチャ・ユガではこの四本の足、苦行(タパ)、清潔さ(ショーチャン)、慈悲心(ダーヤ)、誠実さ(サッチャン)で牛はしっかりと大地に立っていた。しかしカリ・ユガでは高慢さ(スマーヤ)、色情(サンガ)、陶酔物(マダイ)という無宗教(アダルマ)により足が折られ、誠実・正直(サッチャン)という一本の足しか残っていないのである。しかしこの高尚な宗教原則を、主に身を委ねる「バクティ」により回復できる。人間として生まれたにも関わらずこの宗教原則を受け入れないことは精神的自殺行為、すなわち自分の体への暴力と考えられるのである。


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Last updated  Jul 22, 2016 10:58:29 PM
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Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   ブログ読者 さん
長い連載を続けてこられたことは偉いと思います。教えてほしいことがあります。
毎回冒頭に置かれているスートラの日本文ですが、Sacred text of the Hindus の原文とどれもほとんど相応していないようにみえます。
例えば78ですが、ahiMsAsatyazaucadayAstikyAdicAritryANi paripAlanIyAni に対して、挙がっている日本文は「非暴力(アヒムサー)と真実(サッチャン)、清浄(スッカ)、慈悲心(ダーヤン)、信念(アースティカ)」と違う単語が書かれています。
77 sukhadHkhecchAlAbhAdityakte kAle pratIkSyamANe kSaNArddhamapi vyarthaM na neyamには「放棄して、時が許す限りそれを果たして」とあり、原文のlocative語がどう理解されているのかわかりません。
あるいはもとにした本が違うのかもしれませんので、底本をお教えください。
また訳文を作るというより、ブログ主さんが独自の文を綴るためのブログなのか、基本方針を教えてください。 (Oct 9, 2016 09:11:58 AM)

Re[1]:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   番茶ギーター解説 さん
底本は『バーガヴァタ・プラーナ』(中)訳・美莉亜さんの付録に載っている日本語訳です。
サンスクリットのカナは下記のISKCON/DataBaseから引用しました。

http://www.vedabase.com/en/nbs (Oct 10, 2016 11:01:17 PM)

Re[2]:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   ブログ読者 さん
ご回答ありがとうございました。美莉亜訳『バーガヴァタ・プラーナ』は上がでたときに、英語からの重訳ということがわかり、読むのを止めたので、以後のことは知らず、ナーラダ・バクティ・スートラもあるのは知りませんでした。これも重訳なのですか。
もうひとつ引いて頂いた vedabase のものはイスコンの出版物で、既に書籍版のでているものの電子版です。これはシュリーラ・プラブパーダが最初の僅かな部分を自身で執筆し、弟子が続きを担当して完成させたものです。
こちらは美莉亜訳と違い、きちんとしたもので、原文に word for word, translation, purport という形式が一貫して完備しています。ブログ主さんはこれを参照したとありますが、本当ですか。それを参照したならば 78 の「非暴力(アヒムサー)と真実(サッチャン)、清浄(スッカ)、慈悲心(ダーヤン)、信念(アースティカ)」はでてこないはずです。
このブログはイスコンのデヴォーティの献身学習を記すものではないかと想像していましたが、どうしてイスコンの出版物を底本にしないで、外部の重訳を導入したのでしょうか。まだブログの基本方針について、お教え頂いていないので、この点も含めて、御解説頂けたらと思います。
追記:vedabase の原文は、前に挙げたものの他、Prabhavananda、Bhuteshananda、Sivananda、 Hanumanprasad Poddar のものとは、違いがありません。従って、美莉亜訳がずれているとしたら、美莉亜訳の誤訳、というより、多分許にした英文を誤って訳しているのではないかと想像されます。これもご検討ください。 (Oct 11, 2016 05:41:01 AM)

Re[3]:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   番茶ギーター解説 さん
>78 の「非暴力(アヒムサー)と真実(サッチャン)、清浄(スッカ)、慈悲心(ダーヤン)、信念(アースティカ)」はでてこないはずです。

下記ISKCON/DATABASEの78節です。


One should cultivate such good qualities as nonviolence(ahimsa), truthfulness(satya), cleanliness(sauca), compassion(daya), and faith(astikya).

ISKCONのものを使いたいですが、和訳がないので美莉亜さんのものを使わせてもらっています。

私はISKCONの所属でのプラブパーダの孫弟子ですのでゴウディヤ・ヴァイシュナヴァの哲学を紹介していますが、あくまでも読んでいただくのは普通の若い人を対象にしています。そういう意味では独自の文章を綴るブログという感じです。
よろしくお願いします。 (Oct 11, 2016 10:03:01 PM)

Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   ブログ読者 さん
折角ご回答頂いているのですが、政治家かお役所の答弁みたいなものに終始されていて、こんにゃく問答みたいになってしまっています。もっともこれには、こちら側が、失礼があってはいけないと思い、オブラートに包んだような口振りになっていることも原因のひとつにあるかもしれません。

>下記ISKCON/DATABASEの78節です。
One should cultivate such good qualities as nonviolence(ahimsa), truthfulness(satya), cleanliness(sauca), compassion(daya), and faith(astikya).

というお返事を頂いたので、普通なら感謝しなくてはいけないのですが、正しい引用ではなく、ブログ主さんが括弧書きを付加して、捏造版です。そかもその括弧書きを考慮しても、スートラの和文中にある括弧内のカタカナ表記とは一致していません。またISKCON/DATABASE とお書きになっていますが、そういうものはなく、VedaBase ですよね。どこまでもはぐらかされている感じです。

ということですので、今回はもう少し明確な書き方を心掛けました。また話題も一般的なことはさけ、スートラ7番に限定しました。7番の和訳文は、

第7節  それはこの世的欲望でなく、放棄を、その姿として持つがゆえに

とありますので、若い人が読んでも、老人が読んでも、「・・・ゆえに」はこのスートラ全体をまとめて、理由の文になっているという形式を踏んでいます。何の理由かというと、先行する文、例えば第6番のスートラの内容とかの理由説明となっていると考えるのが普通ではないかと思われます。しかし原文を見ると、

sA na kAmayamAnA nirodha-rUpatvAt

とあります。sA は bhakti または prema-bhakti を受けている女性代名詞で、それの述部が kAmayamAnA というdenominative の present participle, Atmanepada で、それが否定文になっているものです。至高愛のバクティというのであるから、愛とか欲望とかが関わってくるのではないかと思われるかもしれないが、そうではない、と言い切って、そこで文は一応完結しています。そしてその理由を述べるのが、その後に続く ablative語です。つまりこのスートラ全体で、「~は・・・であるのではない。というのは****であるが故に」という、スートラ体に常套とされる構文です。
さてISKCON 本を見ますと、

There is no question of lust in the execution of pure devotional service, because in it all material activities are renounced.

とあって、常套構文に即した訳文が与えられています。というようなわけで、質問の最初の時から毎回美莉亜訳が異なるときは、そちらが誤りであると申し上げていたのですが、聞く耳もたぬといった感じで無視されてきました。それで改めて質問です。

質問1:クリシュナ意識では、伝承されているものをそのまま伝えるのが献身者の義務で、改竄は違犯なのではありませんか。ISKCON出版物をそのまま踏襲すればよかったのに、わざわざ外部のものを導入して、混乱を増幅させているような印象を与えます。

質問2:すべての人は平等であるから、若い人を対象とした別の文が作成されるというのは、教義に反することではありませんか。

質問3:弟子の儀式を受けておられるとのことですが、今回のこうしたいとなみについては、グルとご相談なさった上でのことなのですか。

ちっと詰問口調になってしまいましたが、いままで何も答えて頂けなかったから、とご了解ください。 (Oct 12, 2016 07:16:01 PM)

Re[1]:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   番茶ギーター解説 さん
>>下記ISKCON/DATABASEの78節です。
>One should cultivate such good qualities as nonviolence(ahimsa), truthfulness(satya), cleanliness(sauca), compassion(daya), and faith(astikya).
>英文の単語に( )でのサンスクリットのローマ字表記はワード・トゥ・ワードからそのまま引用しました。


>質問1:クリシュナ意識では、伝承されているものをそのまま伝えるのが献身者の義務で、改竄は違犯なのではありませんか。ISKCON出版物をそのまま踏襲すればよかったのに、わざわざ外部のものを導入して、混乱を増幅させているような印象を与えます。
>その通りですが英訳する時間がありませんでした。

>質問2:すべての人は平等であるから、若い人を対象とした別の文が作成されるというのは、教義に反することではありませんか。
>プラブパーダもニューヨークではまず若者に説教しました。その理由は比較的若者のほうが柔軟性があるからでしょう。そのムードを踏襲したつもりです。

>質問3:弟子の儀式を受けておられるとのことですが、今回のこうしたいとなみについては、グルとご相談なさった上でのことなのですか。

>はい、許可をいただいています。美莉亜さんの訳を使うことなどの詳細は言っていません。


>ちっと詰問口調になってしまいましたが、いままで何も答えて頂けなかったから、とご了解ください。

>更新記録を見ていただいても分かるように、(7・22、8・13、10・10)PCをチェックする時間がほとんどありません。
コメントに気づかず申し訳ありませんでした。

ご指摘その通りです。以後注意します。ご意見本当にありがとうございました。
-----
(Oct 12, 2016 08:36:10 PM)

Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   ブログ読者 さん
妙なことになってきました。もともとはバクティに関する文献の一スートラずつの和訳注解を呈示されていたサイトに、敬意を賛同を覚え、よりよいものになるようにとの気持ちから、和訳の各文が原文にそっていないことを述べ、間接的に訂正したらよいのではとの意見を書き込みました。そうしたら意外にも、ブログ主さんからは、これは既存のM訳に基づいているとのお返事を頂きました。それではそのM訳は殆ど間違っているから、再検討をお願いしたところ、こんどは、若い人向けだからこれでいいのだと。しかも自分はクリシュナ意識に入門しているから正しいとのこと。そこでM訳はクリシュナ意識のではなく、逆にクリシュナ意識ででてえいる本に基づいた方がいいのではとも申しました。そうしたらそんなものは参照しない、とのお返事です。
なんだかブログ主さんが、外部のものを導入して混乱を引き起こし、こちらがクリシュナ意識の本を引いて擁護しようとしているみたいな、へんな図式になってきました。私としては、クリシュナ意識であろうとなかろうと、また若者向けであろうとなかろうと、スートラの本文がわかりやすく訳されたらいいという立場です。なお私も若者であるつもりですが、ここの若者向けの文はさっぱりわかりません。クリシュナ意識の本はわかりやすいです。
はぐらかされ続けているので、もういちど出発点に戻りますと、

非暴力(アヒムサー)と真実(サッチャン)、清浄(スッカ)、慈悲心(ダーヤン)、信念(アースティカ)
One should cultivate such good qualities as nonviolence(ahimsa), truthfulness(satya), cleanliness(sauca), compassion(daya), and faith(astikya)

の両者は相応していません。サッチャン=satya、スッカ=sauca、ダーヤン=daya、アースティカ=astikya という対応関係は、通常の人間にとっては成立しません。しかも私もクリシュナ意識の本も、ローマ字化にあたっては、長音短音の区別はきちんとしているのに、ブルグ主さんは、その区別を無視し、しかもカタカナ書きするにあたって、長短をわざわざ違って表記しています。これはあまりにも不真面目な態度ではないでしょうか。これは故意になされたとしたら、宗教上の違犯行為だと思われます。ご本人はクリシュナ意識の継承者であると自称なさっていますが、まあその真偽はもともと質問の主題ではなかったので、どうでもいいです。ただ同教団では、グルが弟子の過失をあがなってくださるそうなので、ここでグルからの御説明でも頂けたら、過失は解消するのかもしれません。

まあ今のネット時代は、ブログで何を主張なさってもいいわけですので、教団内のことは、そちらのご都合になるわけです。ここではもうひとつスートラ11について見てみましょう。まずはブログの和文です。

第11節  この世のしきたりも、ヴェーダも、それに好ましきものだけを行い、反するものに無関心となる。

この日本文は、わかりにくいです。・・・となる、とありますが、その主体は何/誰なのか?それに好ましき・・・とな何に好ましきものなのか、というのがわかりません。初めM訳は不適当だから、と提言したのですが、ブルグ主さんは、それを頑なに拒否し、クリシュナ意識を排除し、M訳に固執するととれるような返答をなさいました。ちょっと不思議に思ったんですが、そうかM訳にしておけば、間違いは全部 Mせいで、ブログ主さんは何にも悪くないという、まあいわば保険みたいなものだったのですね。
で、スートラ11の原文ですが、 (Oct 14, 2016 06:40:50 AM)

Re[1]:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   ブログ読者 さん
loka-vedeSu tad-anukUlAcaraNaM tad-virodhiSUdAsInatA

と抽象名詞が並んでいます。A B とあるので、A は B である、という構文かなとまずは考えられます。クリシュナ意識の本を見ますと、

Indifference toward what stands in the way of devotional service means to accept only those activities of social custom and Vedic injunction that are favorable to devotional service.

とあります。A B のうちのどちらが主語となり、どちらが述部になるかは一考を要するところですが、この英訳では udAsInatA とは AcaraNaM である、としています。これはスートラ9にて ananyatA とは udAsInatA である、と説明し、'nanyatA の説明をするスートラ10をはさんで、11 で udAsInatA を説明していると理解すれば、クリシュナ意識の本の訳は妥当なわけです。そうするとブログの日本文は A B 並列みたいになっているので、おかしくなります。少なくともクリシュナ意識の本とは違っているので、テクストはある通りに伝えてゆくという基本立場から逸脱した違犯行為なわけです。
そこでもうひとつ問題があります。loka-vedeSu という句ですが、英訳では AcaraNaM だけに掛かっているようになっていますが、スートラ8からのつながりでみると、A B の両方に掛かっていると見なさざるを得ません。この点では私もクリシュナ意識の本には賛成できないわけです。でも半分だけですので、半分違犯。ブログ主さんは全面違犯。(笑)失礼しました。 (Oct 14, 2016 06:43:54 AM)

Re[2]:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   番茶ギーター解説 さん
貴重なご意見有難うございました。

教典への素晴らしいアプローチ感銘しました。

英語が読めないので私は美莉亜さん訳にしか頼れませんが、私はこの翻訳でナーラダ仙の意図を充分看取でき頭が下がる思いでいます。 (Oct 14, 2016 10:57:17 PM)

Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   ブログ読者+α さん
どうも全然真面目に相手にされていないみたいなので、困ってしまい、ちょっとイスコン関連の人に相談してみました。ログを転送して読んでもらい、回答というか感想を教えてもらいました。ただその方は深く関わっていたのは、随分と昔のことだし、狭い社会なので、誰だか特定されると波風が立つので、返信メールはそのまま引用しないでほしいと、要望がありました。そこで趣意ということでわかりにくくしました。原文はもっと面白かったのですが。でも教えてもらえたのはよかったです。

(以下はかなり変更を加えた要約です)
 過去ログ読みました。確かに貴兄が質問しているのに、何も答えていませんね。ですから言葉が段々と挑発的になっていっているのに、へらへらと言を左右にされて、いらだちを覚えるのも無理もないことかなと。かなりはっきりと誤訳してますよ、と言っているのに、主さんの方では、訂正する意志はなし、かといって反論もなく、のらりくらりしていて、お役所の答弁というのはたとえて妙ですね。
 どちかかの肩を一方的に持つわけではありませんが、おかしい点だけは明らかにしておきます。読者さんはスートラ本文の誤読を指摘しているのに、自分は英語は読まないからの一点張りです。ナーラダはスートラを英語で書いたわけではありません。イスコンに入門すると、バガヴァッド・ギーターやシュリーマッド・バーガヴァタなどのクラスに定期的に出席し、それらを習いますが、これは読者さんもご存知の通り、使用教科書は、原文・単語解説・翻訳・注釈説明となっています。アメリカでの開祖バクティヴェーダーンタ・スワ-ミー・プラブパーダの希望というか、弟子に要求したのは、この手順で、すなわちサンスクリット原文で理解するということでした。原文での理解は大変だという声に対して、スワーミーは議論がおこったときに対処できるように、常に勉強しておかねばならないと明言されています。まともな献身者ならば、この言葉の重みを受け止めていると思います。それだから他の宗教教団とはちがって、膨大な量の出版物があるわけです。外部の人も恩恵を蒙っていると思われます。
 イスコンのテクストを扱っている大抵の本はこの形式をとっています。ナーラダ・バクティ・スートラもこの形式なので、したがって原文の理解についての議論を避けるいわれはありません。
 それと日本でも入門講義は海外より来日のグルによってなされるものですので、みな英語です。日本語だけで講義ができる外人グルはみたことがありません。ましてやイニシエイションを受けるには、それを授けるグルとの親密な関係が一定期間保たれて、これならばよいというお墨付きをもらってから儀式が行われます。もっともイニシエイションの数を増やすことも業績になるらしいですから、最近はどの程度まで厳密に行われているかは知りません。ただアメリカでもグルの資格を剥奪されても手放さないでやり続けるそうです。宗教ジャーナリストの告発本もありますし、ネットにもbogus gurusというサイトがあり、事例が多すぎて、今の場合はこれのどれに関連するのかわかりません。
 また応答中に不満が述べられている様に、sauca:スッカという様なローマ字化がありますが、ローマ字は小学校3年で習うので、これを常に間違えるというのは、発達障害の疑いがあります。障害者に対する特別措置があるかもしれません。またイスコン本部には届けていない事例かもしれません。現にこれだけ糾弾されていれば、普通献身者仲間から擁護のものが入るのですが、何もありません。孤立した存在なのでしょう。
 従って主さんがあまりふみこまれないように、逃げているのも一理あります。しかし外部の人によくない印象を与えるのもどうかとは思われます。
 ナーラダ・バクティ・スートラは、スワーミー御自身の訳注は最初のほんの一部だけなので、あとは後人の手に成るものです。議論は大いにしてもいいのではないかと思います。というよりバクティの解説本ですから、みんなでひたいを寄せ合って、よりよい理解に到達するのが好ましいと考えます。書き込みは自由ですから、気が付いたことは、これからもどんどんと入れたらいかかでしょうか。一部の人間だけが、若い者に教えを垂れるという上から目線的な発信を続けているというのは、私も好きではありません。
 なお日本イスコンの内部事情は2チャンネル、クリシュナ意識国際協会、ハレークリシュナで検索すると、勝手なかきこみが一杯みつかります。内部にいたものが、いたちの最後っ屁みたいにして言い放っていったようなのもありますので、話し半分くらいの気持ちでお読みになるのも、一興かもしれません。 (Oct 17, 2016 02:13:04 PM)

Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   ブログ読者 さん
スートラ31をとりあげてみます。

第31節  ちょうど王宮の食事などを例に見られるように
原文は
31 rAja-gRha-bhojanAdiSu tathaiva dRSTatvAt
最初の部分は単語がいくつかくっついて長い語を構成しています。合成語とかいわれますが、のちのこともありここでは samAsa と呼んでおきます。smAsaを構成する諸要素の関係をきちんと見定めることが、文の読解には大事です。それだからこそ古来文法家はその諸関係を分類して、それぞれに名称を与えました。rAja gRha bhojana Adi が並列的に並んでいるとすれば、dvandvaです。もし最初のふたつで「王宮」を意味するのであれば最初のものが二番目のものを限定しているのでtatpuruSaです。「王宮の食事」とすると、最初のsamAsaと三番目の単語の間も限定関係になるので、 tatpuruSaという理解ですが、それは誤りです。それは次のスートラ32により、二項目が問題となっていることがあきらかにされているからです。
32 na tena (1)rAja-paritozaH (2)kSuc-chAntir vA
(variant reading としてkSudhA-SAntirがあるが意味は同じ)
これを
第32節  それを見ただけでは、王は喜ぶことも、癒されることもない
と訳するのは31に引き続いた誤り。スートラ28以降知識至上主義、あるいは知識にもバクティにも同等の価値を認めようとする考えを論駁するものです。よってtenaは「それを見ただけでは」とは絶対になりえず、王宮内の構造を知っていても王様に拝謁できて喜んでもらえることはなく、また食べ物についての知識があっても、空腹を鎮めることはできない、という意味です。従って31のsamAsaは(1)rAjagRha (2)bhojanaは2項目が並んでいるというdvandvaという理解しかありえず、ブログ主の和訳は31, 32 のふたつとも誤り。特に悪質なのは、32にkSudh (variant reading:kSudhA)という単語が明記されているのに、それをわざと訳さないで曖昧にしたままごまかそうとしていることです。もっともそれを訳すと31の訳が誤りであることが露呈するわけです。もしそのことがわかっているとしたら、わかっていないのではなく、確信犯的な誤りということになって(わざと誤りを書いて混乱を引き起こすことが狙いだとか・・・?)、何が何だかさっぱりわからないということになります。以上は、単なる事実関係のことで、英語とか、日本語とか、若者向けだから書き直した、ということとは何ら関係ありませんし、そうした言い訳はできません。
 なお初歩的なことですが、na X Y vA という構文では、Xも否定され、Yも否定されている、つまり二項目が挙げられ、それぞれが否定されているということです。

 以上は多々疑問のある点の一例です。どんなことでも個別的なことは、あら探しをすれば何かでてくるものですが、基本的な立場はどうなんだろうかと思い、同じ教団の方に伺った次第です。その方もグル・シシュヤの継承に疑問を呈しておられました。またグルはシシュヤの過失をかばう、というかかわって責任をとるともいっていました。この点でブログ主さんのグルはなんとおっしゃっているのでしょうか。グルからのコメントでもいただけたら、継承の疑問も解消するのですが。 (Dec 7, 2016 01:32:40 AM)

Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   ブログ読者 さん
あれえ、ブログ主さんが絶対読まないぞと決意を固められたISKCON出版のNarada-Bhakti-Sutra の本の写真がでている。このスートラが話題となった連続記事の冒頭の(1)のところです。読者はこれが底本だと思っても仕方ないですよね。どうしてもとになさった和訳本(重訳本?)の写真にしなかったのでしょうか。

でも英語の本は使わないぞ、というのはブログ主さんの本意ではないようです。第2節の(要旨解説)中に『CC Adhi(!) 4-165』と『主カピラの教え』第13章30節のシュリーラ・プラブパーダの解説とが引かれています。この二書については和訳本はあるのですか。前者に関しては、英語でなくベンガル語を見たのだということもできますが、後者は英語しかないのですよね。
 ところで、後者の引用に関して、質問があります。
離別の心(ヴィプラランヴァ) クリシュナを熱烈(ラウリャン)
と日本語で引用が与えられていますが、私が見た本(2011年版 184頁)では、カッコ付きで記されているカタカナの部分はありません。これはどこから補ったのですか。グルのお教えだったのですか。前者は vipralambha だと思いますが、後者のラウリャンというのがわかりません。どういう語なのか、どうぞお教えください。またプレーマの定義ということで引かれているのだと思うのですが、「これがクリシュナ・プレーマと呼ばれる」という文が飛ばされているのは、どうしてなのですか。
 いろいろとわからないことが多いので、お教えいただけたらありがたいです。 (Dec 7, 2016 02:32:25 AM)

Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   ブログ読者 さん
 第81節 永遠の神理の中で、ただバクティだけが愛おしい、まことにバクティだけが愛おしいのだ。

原文は trisatyasya bhaktir eva garIyasI bhaktir eva garIyasI

ですので、和訳文中の「永遠の神理の中で」というのが原文の中に見いだせません。trisatyasya は「三真実」の genitive です。「中で」という意味を持つ genitive の用法があるかどうか知りたいです。syntax の書などで用例を示して頂けたら幸いです。
またこれは bahuvrIhi-samAsa で、「三つの真実を持つ人にとって、ーー体得した人にとって」ではないでしょうか。
また「愛おしい」もよくわかりません。garIyasI は guru の comparative ですので、「より重いものである、より重きがおかれる」ではないでしょうか。
そうすると eva は「だけ」よりも、「こそが」という強意で、「バクティこそがより重要である」とした方がいいのでは。

このあたりグルのお考えはいかがでしょうか。ご意見をうかがいたいものです。 (Dec 16, 2016 04:59:10 PM)

Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   ブログ読者 さん
第7節  それはこの世的欲望でなく、放棄を、その姿として持つがゆえに

この訳では、この詩節全体は何か別のことがらの理由を説明していることになります。「・・・でなく・・・持つ  がゆえに」で、なく、と持つが一括して扱われています。そうでしょうか。原文を見ますと、

sA na kAmayamAnA nirodha-rUpatAt

kAmayamAnA は名詞ではなく、denominative の present particeple Atmanepada nominative singular feminine であって、sA の述語となっています。「それ、すなはちバクティは、欲望するものではない、自ら欲望を起こすものではない」であり、文はいったんここで切れています。続くablative はこの部分に対する理由を述べています。前の部分は、主文であって、理由を述べるものではありません。

「バクティはそれ自体欲望を起こすものではない。欲望に対する滅尽を形態としている(本質としている)から」
主語+述語、理由語(ablative)
という構造はスートラ体の基本形のひとつです。

グルは別のようにお教えされたのですか。

続く第8詩節も間違いがあるので、コメントをあらためておこないましょう。 (Dec 22, 2016 04:44:57 AM)

Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   ブログ読者 さん
ごめんなさい。スートラ本文に打ち間違いがありました。

sA na kAmayamAnA nirodha-rUpatAt



sA na kAmayamAnA nirodha-rUpatvAt

です。私は間違いを改めることに、やぶさかではありません。 (Dec 22, 2016 05:06:27 AM)

Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   ブログ読者 さん
第8節  その放棄とは、この世的慣習、ヴェーダ、儀式を放棄することなり
この日本語を読む限り、「この世的慣習」「ヴェーダ」「儀式を放棄すること」の三つの項目が並列されているように、とらざるをえないように、しむけられています。日本語をそのまま理解するとこうなりますが、もう少しよくなるように多少無理をしますと、「この世的慣習」「ヴェーダ」「儀式」(という三つの項目を放棄すること、ととれないこともないのですが、和文作成者の意図は後者の方かなと想像されます。この日本文は二義文というか、曖昧文ということになりますが、私も日本語の書き方はとてもへたですので、そのことはもう触れません。まあヴェーダを放棄すること、というのは内容的におかしいので、その時点で訳文を改良しなくてはいけないと思うのが普通なのですが。
 それはともかくとして、原文をみますと、 nirodhas tu loka-veda-vyApAra-nyAsaH とあります。samAsa 部分は、世俗・ヴェーダ・実行・除去 とありますので、以前にもご注意申し上げたように、samAsa の各メンバーの関係をきちんと理解する必要があります。ひとつ前のスートラで、バクティの形態として滅尽が挙げられていました。それではその滅尽とは何かということが、このスートラで述べられています。nirodha と nyAsa は類義語ですから、それらが主語述語関係にあるのはおかしくありません。そこで nyAsa「除去」とは何を取り除くのかということですが、ひとつ前の vyApAra を除くのです。では何の実行かというと、その前にあるふたつの語が関係してきます。そのふたつの語は俗と聖の対になっているということに気付かねばいけません。そうすると俗のいとなみの放棄、聖のいとなみの放棄ということになり、放棄の対象は、三つでなく、二つにならなくてはなりません。[バクティを進めるのに役立たない]世俗的いとなみ・聖典に規定される[祭式の]いとなみを除去することである、ということです。うんと譲歩してもとの文をいかすとすれば、「この世的慣習」と「ヴェーダの儀式」を放棄すること、となりましょうか。

 イスコンの古参献身者はブログ主さんのイニシエイションを疑っておられますが、一体グルは本当にいらっしゃるのでしょうか。一体何というお名前なのでしょうか。 (Dec 29, 2016 03:51:42 PM)

Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   ウログ読者 さん
nArada-bhakti-sUtra の ISKCON本は svv.1-8までは開祖 A.C. Bhaktivedanta Swami Prabhupada 自身の筆になるものです。その後は弟子達により、その志が継承され、書き継がれて完成されました。
そうすると8迄でISKCON本とそごすることは、Prabhupada の見解にさからうことになります。もちろん古典のテクストは、それが理にかなっている限り、どういう読み方をしてもいいのですが、宗教の隠れ蓑を着て、自分をようごしようとする場合は別です。
すでにここまでで、8以前のものでの問題点を指摘しました。その際、遠慮もあって開祖とのそごをことさら取り上げることはしませんでした。
しかし自分はナーラダの真意を理解したのだから、一切の批判には耳をかさない、と豪語しているので、それでは内部では具合が悪いのではないかと危惧した次第です。
外部のものにとっては、開祖の意見と違う者を垂れ流そうが、どうでもいいのですが、古参のISKCON献身者にも相談した手前、今までのようにあいまいなまま過ごすいきかたをちょっと変えようと思います。 (Jan 11, 2017 03:29:37 PM)

Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   ブログ読者 さん
ブログ主さんのスートラをまず引用しましょう。

第3節  それは永遠を、その本質として持つものなり

原文は amRta—svarUpA ca   です。

これは前のスートラから続いているもので、バクティについて述べています。前に、バクティはこれこれだよ、と述べたのを受けて、ここでは更に、なんとかでもあります、と付加している感じです。開祖プラブパーダ師は、一語一語に対する説明も与えていて、
amRta — immortality; svarUpA — having as its essence; ca — and.
としておられます。amRta は不死とされたり、甘露とされたりしますが、ここでは不死性をあてています。次の svarUpA はその根本的性質として・・・を持っている、と訳語をあてています。このふたつを合わせると、不死性をその根本的性質として持っている、となります。この単語解説から、原文を理解しますと、(バクティは)また不死性をその根本的性質として持っている、となります。samAsa を bahuvrIhi と解釈した、まことに適切なものです。
そして訳文としてよりこなれた形で、やや意訳っぽいですが

This pure love for God is eternal.

とされました。バクティを神へのこの純粋な愛、とするのは、この派の解釈的訳といっていいでしょう。原文が呈示され、単語解説も続いているので、この訳文に、たとえ直訳ではなくとも、異を唱える気持ちは起きません。 (Jan 11, 2017 03:32:12 PM)

Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   ブログ読者 さん
ところがブロク主さんは、単語解説から作った訳文でもなく、英訳文をていねいに日本語にしたものでもなく、全く自分の勝手な和文をねつぞうしています。プラブパーダ師は、不死性を本質として持つから、永遠である、という論理的な理解のもとに訳文を綴ったのでしょうが、ブログ主さんは amRta を永遠としてしまいました。これは師に対するぼうとくです。
ISKCONでは違反事項というのが列挙されているみたいですが、師に対する異論、ぼうとくとは大きな罪ではないのでしょうか。

古参献身者の人が、ブログ主さんのイニシエイションを疑っておられたのは、こういう点にあるらしいのです。師には絶対服従というのが基本らしいのですが、これではその原則が踏みにじられているようです。師と相談しながらやっていれば、こんなことは起こらないと言っていました。どうなんでしょうか。 (Jan 11, 2017 03:40:12 PM)

Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   ブログ読者 さん
こうしていてもらちがあかないと思っていましたが、土曜日14日にプラデーパ北堀江でお会いできそうですね。そのときにこころおきなく話し合いましょう。
(Jan 11, 2017 04:23:10 PM)

Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   ブログ読者 さん
第3節の(要旨解説)にも問題があります。

「あなたは、クリシュナの永遠の召使であり、クリシュナの持つ三つのエネルギーのうち中間(境界)エネルギーに属します。火と火の粉、太陽とその光の粒子のように、クリシュナと同じであり同時に違います」『CC Madhya 20-108/109』

スートラ本文の日本語ばかりでなく、引用の文もどうして、わざわざ原文通りに引かないのでしょうか。
原文通り素直にみてゆくと、Madhya 20-108 は、

ジーヴァには本来的形態があります。(すなわちその性質を列挙すると三つあります) (1) クリシュナの永遠の召使いであること。(2) クリシュナの脇にあるシャクティであること。(3) 別であり、別でない現れをしていること。

で続く109です。
それは丁度、太陽の部分である日光、火の輝きの集積のようなものです。本来的性質として、クリシュナには三種のシャクティがあります。

サイト主さんの引用文でも、内容はそんなに違っていないじゃないか、と反論するかもしれません。でもそうならば、なぜ原文の構造をわざわざ壊した形で書くのでしょうか。内容が同じであれば、素直に原文通り書いたらいいじゃないですか。ナーラダのスートラの場合もそうですが、わざわざ原文の順序やかたちを壊すのが目的なのですか。

プラブパーダの英訳にそったから、といういいわけは成り立ちません。プラブパーダのここの英訳は、たしかに意訳していて、直訳ではありませんが、サイト主さんの文ともちがいます。英訳を直訳してみますと、だいたいこんな感じでしょうか。

クリシュナの永遠の召使いであることは、生命体の本来的立場です。なぜならば、彼はクリシュナの周辺的エネルギーであり、同時に主と同一であり、異なっている現れであるからです。ちょうど、日光あるいは火の微細な分詞のようなものです。クリシュナは三つの異なるエネルギーを持っています。

ISKCON の教えでは、献身者は伝えられているものを、その通りに伝えてゆくことが義務とされているそうです。しかしサイト主さんは、自分の意見を前面に打ち出すために、原文とも、プラブパーダの英訳とも違ったものを打ち出しています。これはいったいどういうことなんでしょうか。
直接おうかがいする機会が楽しみです。 (Jan 13, 2017 11:46:38 PM)

Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   ブログ読者 さん
第3節の(要旨解説)です。)
「生命体はエネルギーではあるが、エネルギーの源ではない」『CC Adi 7-117』とはっきり書いてある。
本当にそうはっきり書いてあるのでしょうか。原文の前半行は

jiva-tattva — sakti, krsna-tattva — saktiman

とあります。ここの tattva は(要旨解説)の訳では無視されていますが、適切な訳語を決めるのは難しいです。真理・真実かもしれませんが、古典サーンキヤ学派で列挙する原理かもしれません。この世でみられるジーヴァの側のもの、クリシュナの側のもの、といったことかもしれません。無視はしませんが、私には決定できません。ジーヴァの側がシャクティなのはいいとして、クリシュナの側はシャクティを持つ者とあります。サイト主さんは、クリシュナをもかってに落として、ジーヴァを主語として、エネルギーの源ではない、としてあります。
これは恐らくプラブパーダの英訳The living entities are energies, not the energetic. The energetic is Krsna.をいいかげんにみたためのものかと思われます。living entities を主語そした前半部分は、肯定文ですが、理解を容易にするために敷衍して、否定文も添えたものです。対比されるクリシュナの部分が大事です。従って、サイト主さんが、はっきり書いてある、ということは、原文にははっきり書かれていません。

献身者は伝承されているものを忠実に伝えるのが使命だそうですが、いつもこうやって、嘘を並べていると、癖になる、というか習い性となってしまいます。

もって他山の石として、自分をいましめようと思います。
(Jan 21, 2017 02:44:48 PM)

Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   ブログ読者 さん
 ナーラダ・バクティ・スートラの著者の意図を知るためには、自分はもうわかった、と豪語してまわることではなく、謙虚にスートラの各文を前後の連関を考えながら、読み解いてゆくことだと思います。特にスートラ体というのは、短かすぎるくらい簡潔な表現になっているので、スートラひとつだけをみていてはわからないことが多いです。前のスートラにでてきた言葉は繰り返さないことがしばしばです。したがって前のスートラにさかのぼって言葉を補わないといけないこともあります。
 こうした中で、ブログ主さんは我が強すぎて、自己読みになることがしばしばです。この我がアハンカーラと呼ばれるもので、いろいろなことの妨げになります。第10節をみてみましょう。

第10節 そして他の何にも庇護を求めることはない

とあります。このスートラは前から続いているものなので、9, 10 と原文を並べてみましょう。

9 tasminn ananyatA tad-virodhiSUdAsInatA ca
10 anyAZrayANAM tyAgo 'nanyatA

9 も 8 から続いているのですが、そうやっていくと全部最初から引かなくてはならなくなるので、ここでは便宜的に 8 では放棄がいわれていて、9 ではその放棄について述べているということで、いいことにしてください。9 はきれいなシンメトリーの構造をもった文です。つまり 
Locative 名詞 + 抽象名詞 および(ca)Locative 名詞 + 抽象名詞
です。放棄について、二つの句で説明しているわけです。「それにだけ関わって他に関わらない」と「それに反するようなものには関心を寄せない」ことです。このふたつのうちの一番目の中に使われている語、「だけ関わって他に関わらない」という語の説明が 10 で与えられています。ブログ主さんの訳では、そして他の何にも庇護を求めることはない、とありますので、更に三項目めがたてられているようにとられてしまいます。そういうつもりではない、と強弁すると、「だけ関わって他に関わらない」というのは、他の何にも庇護を求めることはない、となって、トートロジーで無意味なテクストになってしまいます。上の引用中の ananyatA には下線を引いて、スートラが発展的に展開してゆくことを示すとよかったのですが、ここの画面では文字飾りは消えてしまいます。
スートラ作者の真意は、前のスートラで使った語の ananyatA は、主以外の他のものを拠り所とすることの(複数形)放棄(tyAga)ということである、といういわば敷衍的説明になっているわけです。抽象名詞を普通の名詞に置き換えて説明しているので、トートロジーではありません。

 ブログ主さんは、(要旨解説)の中で、偽の自我(アハンカーラ)について言及なさっています。自分読みというのがおこるのは、偽の自我が強く作動しているからです。(要旨解説)の文中にも、偽の自我とは自分は独立していると考えることである、と適切に説明されています。ですから偽の自我ななくなれば、スートラの本文を虚心坦懐に読み、また謙虚にプラブパーダの解説並びにその後継者達の訳と説明を読んで、正しい解釈に近付くことができます。そうでなければ、ナーラダの真意は、少しもわかりません。 (Jan 24, 2017 03:34:14 PM)

Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   ブログ読者 さん
古参献身者の方からご注意を頂きましたので、訂正させて頂きます。以前に ISKCON Database というものはないと書きましたが、あります。お詫びして訂正申し上げます。ただしそれは事務的な諸事を記録するもので、ブログ主さんが主張なさるように書籍のサイトではありません。電子テクストは VedaBase にあり、イスコン献身者であれば、すべての人が必ず参照する広く知られたものだとのことです。全エホバの証人が参照する jw.org のように、基本的なサイトだそうです。
 
どうして Database がでてきたかというと、古参献身者はブログ主さんのイニシエイションを疑っていたので、それで調べたそうです。そのリストの中にブログ主さんのお名前はなかったそうです。
ただ言葉は慎重にしなければならないとも付け加えていました。サイトの更新が遅れているとか、別の名前で登録されているとかの事情も考えられるからだと。でも本人からもグルからも弁明がないので、疑われても仕方がない、とも言っておられましたが。一番の問題は ISKCON の教えと違うことを吹聴している点だとも言われました。

事実関係だけをいえば、ナーラダ・バクティ・スートラを Database で見たというのは正しくなく、かりに VedaBase の言い間違いだとしても、ブログ主さんの仮名書きは、VedaBase の掲げる本文とは相応していないということです。うっかり間違いというのではなく、故意に歪曲した可能性が考えられます。そうでなければ、古参献身者のいうように、学習障害かもしれないということです。

献身者は伝えられてきたものを、謙虚に学ぶ姿勢があるものだそうです。 (Jan 31, 2017 11:59:27 PM)

Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   ブログ読者 さん
第11節の(要旨解説)でブログ主さんはこう述べておられます。

このことが『バガヴァッド・ギーター』第10章4節・5節の要旨解説で、クリシュナ意識の保持、養成に有利な事物を受け入れ、それに不利、有害な事物をしりぞける。これを「サマター」(平静)と言うと説明されている。

そこでもととなっている本の問題の箇所を見ると、

That is called samatA, equanimity. A person in Krsna consciousness has nothing to reject and nothing to accept save in terms of its usefulness in the prosecution of Krsna consciousness.

とあります。これはいい、これはだめ、というレッテルはりをしない、というのが samatA であるとあります。つまり等しく見る、平等に見る、ということです。sama は等しいという意味が原義ですから、そこから派生した抽象名詞で、こだわりのない公平な立場といっているようです。ブログ主さんはこれに(平静)という訳語をあてていますが、原義とはずれているようです。自分はナーラダの所説を理解した、というのが受け入れられるべきこと、それちょっとおかしいのじゃない?という意見はしりぞけられるものというのが基本的立場のようですので、平等観という訳語はまずいので、わざと(平静)としたのですか? ここはナーラダ・バクティ・スートラの本文とは直接関係がありませんが、要旨解説の文章に前後に矛盾があるように感じます。少なくとも、そう感じられるような矛盾が整理克服された形で、文章が呈示されていないようです。自己の思想を整理することは、とても難しいことですので、プラブパーダの所説をなるべくそのまま伝えることに徹するといいのではないでしょうか。
しかし古参献身者が疑っているように、イスコンに入門していないのであれば、全く自由な立場で自説を展開できるわけです。ブログ主さんはイスコンを隠れ蓑にしようとして、それがかえってアダになって、自縄自縛状態に陥ってしまっていませんか。
ネットには一億総評論家といわれるように、何を垂れ流してもいいのですが、イスコン献身者であると表明するならば、それなりの覚悟が必要だったのではないでしょうか。 (Feb 6, 2017 03:24:45 PM)

Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   ブログ読者 さん
>第13節  さもなくば墜落する可能性があるだろう

とあります。原文は

anyathA pAtityazaGkayA (v.l. pAtityAzaGkayA)

そうでければ、というのは直前のスートラに示されている、シャーストラの教えを守ることがなければ、ということ。pAtitya は堕落でよいとして、zaGkayA (AZaGkayA)女性名詞怖れのinstrumental で前のスートラの教えへの理由をしめしています。ISKCON本のSynonyms欄を見ますと、because of anticipating the possibility とあり、原語に即した説明が与えられているからです。possibility は確かに可能性ですが、ここでは否定的な意味合いで使われていて、さらに anticipating でそのことを示しています。句前置詞を前に置いて、理由の語であることも明示しています。日本語でも墜落する可能性とあるので、否定的なニュアンスはあることはありますが、原語にそくして、怖れがあるから、危惧があるから、とすべきでしょう。また理由であることは日本語では消えてしまっています。これでナーラダの真意がわかったと豪語できるのでしょうか。

 もうひとつ疑問があります。ひょっとしてブログ主さんは、シュリーマッド・バーガヴァタムの場合も、プラブパーダの注解本をひらかずに、美莉亜訳だけで済ませているのではありませんか。
 もっとも古参献身者が確かめてくれたように、ISKCONの献身者でなければ、そんなことはもうどうでもいいことなのかもしれませんが (Feb 17, 2017 03:10:00 PM)

Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   ブログ読者 さん
外国語の仮名書きは日本語は特に音の少ない原語なので、不可能です。ですからよい方法などはないのですが、前にもあげた

sauca :スッカ

は、指摘しても再度がんばっておられるので、うっかり間違いではないらしく、古参献身者は、学習障害ではないかとまで言ったわけです。ローマ字は小学校3年で習うそうですから。

その他妙な仮名書きが眼に付くことがありますが、これは間違いというのではなく、ブログ主さんの好みですから仕方ありません。ブログ読者としてはこう書きたいという案も添えておきます。

第9節から
サルヴァボウマ・バッタチャーリヤ は サールヴァバウマ・バッターチャーリヤ
ジャガナーダンダ は ジャガダーナンダ

第10節から
シクシャシュタカ は シクシャーシュタカ
アーンアンダ・マヨー・ヴィヤーサートゥ ??

第11節から
マルガ は マールガ
カーンダ は カンダ
モクシャ は モークシャ (Feb 20, 2017 01:50:38 PM)

Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   ブログ読者 さん
第9節の(要旨解説)中に
 「最高人格主神シュリー・クリシュナに私は身を委ねよう。シュリー・クリシュナは主チャイタンニャ・マハープラブという姿で降誕され、我々に真の知識、主へのバクティを授け、クリシュナ意識を高めてくれないもの全てを捨てるように教えられた。主は超越的慈悲の海。だからこそ降誕された。私は主の蓮華の御足に服従する」『CC Madhya 6-254』
とあります。
原文はつぎの通りです。

vairAgya-vidyA-nija-bhakti-yoga-
zikSArtham ekaH puruSaH purANaH
zrI-kRSNa-caitanya-zarIra-dhArI
kRpAmbudhir yas tam ahaM prapadye

ブログ主さんの日本文とは随分と違っています。これは美莉亜訳にはないものでしょうから、ブログ主さん作成の日本文でしょう。仮にどこからかひっぱってきたとしても、ブログにはその旨かかれてはいません。(書いてあれば責任回避はできたかもしれませんね)
 順に見当してみましょう。「最高人格主神シュリー・クリシュナに」というのは原文にありません。原文での崇拝の対象は、zrI-kRSNa-caitanyaです。要は同じことだ、といってしまうならば、すべての化身の説明は無駄になってしまいます。
「クリシュナ意識を高めてくれないもの全てを捨てるように」というのも原文にありません。vairAgyaにあてたのだと強弁するかもしれませんが、他の項目と順番が違っていますし、欲望を離れること、で充分意味が通じますし、その方がすっきりしてわかりやすいです。わざわざ原文にない語を付加して引き延ばす理由がわかりません。
「教えられた」とありますが、原文はzikSArthamですので、教えるために、です。
「主チャイタンニャ・マハープラブ」とありますが、原文はzrI-kRSNa-caitanyaです。どうして、こうまでも原文を書き換えることに執心されるのでしょうか。
「だからこそ降誕された。」は原文にはありません。
「最高人格主神シュリー・クリシュナに私は身を委ねよう」と「私は主の蓮華の御足に服従する」は重複しています。
そもそも原文が、関係代名詞構文になっていることを、ブログ主さんは理解なさっているのでしょうか。日本文からはそれがまるで感じられません。
またyogaという重要語がとばされています。ekaH puruSaH purANaHはどう処理されたのでしょうか。

若い者に教えを垂れてやる、という主旨のブログだそうですが、こんなことでいいのでしょうか。「」で包んだ部分は、引用とか、外国語文の忠実な和訳が置かれる箇所です。通常の日本語表記の慣用まで逸脱しています。古参献身者が、ISKCON献身者でないことをつきとめましたので、立場は自由になったものの、こんどは社会的慣習に対する違犯が問題となってきました。最高神はこんなことでは、お喜びにならないと思います。 (Feb 21, 2017 02:54:30 PM)

Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   ウログ読者 さん
>第78節  そして非暴力(アヒムサー)と真実(サッチャン)、清浄(スッカ)、慈悲心(ダーヤン)、信念(アースティカ)などの徳を培うべきである

サッチャンはね、satya っていうんだ、ホントはね。だけどちっちゃいから satya のことサッチャンて呼ぶんだよ。おかしいな、サッチャン。 (Feb 25, 2017 01:43:07 PM)

Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   ブロク読者 さん
>第14節  社会規範や、食すなどの活動も、身をもつ間は必要だから

これがブログ主さんのスートラ本文理解ですが、原文と照らし合わせてみましょう。

loke 'pi tAvad eva bhojanAdi-vyApAras tv A-zarIra-dharaNAvadhi

例によってブログ主さんの訳文は、スートラ本文の相応していない、というより違えることを主眼としているみたいです。上の日本文を読む限り、<社会規範>と<食すなどの活動> は同格並列であるとしか、取りようがありません。それぞれloke と bhojanAdi^vyApAras にあてたものでしょう。しかし前者は locative 後者は nominative です。loka は verse 11 では聖/俗の俗。だから原文は、世俗世間にいる限り、食事などの活動は・・・となります。しかしその場合 tAvad は AzarIra-dhAraNAvadhi と重複することになります。
ところで諸本を見ると loko 'pi という読みがあります。(この意味で本テクストの critical edition は是非必要なのです) 世間的なことがらもその限りにおいて、となるのでしょうが、その限りにおいて、というのを考えなくてはなりません。ひとつ前のスートラで、論典の規定の遵守というのが教えられていました。ですからそれを遵守する間には、世間的なことがらも守らねばならない、と考え得られます。スートラの後半部は tv を介して対照させているようです。最後の avyayIsamAsa は A と avadhi ではさんで念がはいっています。身体保持まで、つまり身体を保持している限り、ということです。そうするとこのスートラはふたつのことがらが、tv を介して述べられていることになります。論典の遵守する限り世間的なことも、また一方において、身体を保持している限り食事などの活動も、となり、行わなくてはならない、というのを補って考えるのでしょう。そうするとスートラの前半と後半は、対称的な構造をなしているので、この異読の方が採用されるべきでしょう。ナーラダの真意に通達したブログ主さんは、こうした考察など、どこふく風といった態ですが。

 ここの(要旨解説)もいいかげんです。

>。『バガヴァッド・ギーター』第3章15節には「行為の規制はヴェーダより発し、ヴェーダの源はバガヴァーンである」とある。

とありますが、バガヴァッド・ギーター 3.15 は

karma brahmodbhavaM viddhi
brahmAkSara-samudbhavam
tasmAt sarva-gataM brahma
nityaM yajJe pratiSThitam

とあるので、ブログ主さんがカギ括弧内に示しているものとはちがいます。行為はブラフマンから生ずるものと知りなさい。ブラフマンは不滅のものから生ずるもの(と知りなさい)」とあります。とくに続く後半が重要で、だからすべてにゆきわたるブラフマンは、常に祭祀において確たるものとなる、とあります。ブログ主さんはブラフマンをヴェーダに、akSara をバガヴァーンと言い換えています。バガヴァーンは至高の神(クリシュナ)です。その現象界的ありかたが sarva-gataM でして、それが yajJa で確立するというのはへんです。至高の神は最初から確立しています。だからこうした読み替えは、バガヴァッド・ギーターの真意を損なうものです。この3章でいう行為は、アルジュナの義務としての戦闘行為を念頭においているので、こうしてここだけを抜き出して、他の文脈にあてはめようとするのは具合がわるいです。
 ついでバガヴァッド・ギーター 6.16 が挙げられていますが、ここで教えている中道的ありかたは、ヨーガのためのものであって、バクティだけのためのものではありません。
 こうして文脈を無視して、テクストのあちこちをつまみ食い的にいじるのは、好ましいことではありません。 (Feb 28, 2017 03:46:27 PM)

Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   ブログ読者 さん
>第15章  その道の特徴は、それぞれ異なって語られよう

このスートラの和訳が間違っていることは、(要旨解説)の内容とスートラと連動していないことからも明らかです。まずはスートラ本文から。原文は、

tal-lakSaNAni vAcyante nAnA-mata-bhedAt

スートラ体の基本形のひとつですが、文+ablative というのがあります。まずある文を述べて、その理由を示すというものです。
それ(バクティ)の諸定義が述べられる。様々な見解の異なりがあるから。
続く諸スートラで、人名とともにその定義が列挙されてきます。つまり本テクストとは異なる異説の紹介をしているわけです。ですから(要旨解説)にある自説の下位区分とは別物です。

(要旨解説)の内容にも問題があります。
>前半の三つはバーガヴァッタ・ヴィッディであり、
とありますが、Srimad-Bhagavatam 4.13.3 に対するプラブパーダの Purport と異なっています。プラブパーダの説明は、
bhagavata-vidhi is the system of nine processes which begin with hearing and chanting
とあるので、9つのプロセスすべてが bhagavata-vidhi ということのようです。もっともブログ主さんの帰属は疑われていますので、プラブパーダと違いことを吹聴しても、一行に構わないということかもしれませんが。

>バーガヴァタ・ヴィッディはルーパ・ゴースワミーの『バクティラサムリタシンドゥ』に説明されており
という文は、ブログ主さんのいう最初の三つは、『バクティラサムリタシンドゥ』に説明されていて、残りの6つは説明されていない、というコノテイションになってしまいます。ブログ主さんはそういうつもりではないと言い張るかもしれませんが、文章の流れとして、すべての読者はそうとらざるを得ません。

bhakti-rasAmRta-sindhuは包括的な理論書で、バクティの三つだけに限定して書いているわけではありません。pUrva-vibhAga dvitIya-laharI, vss.74-92 にバクティの64 の手順が列挙されています。この中にはSBに挙げられている9項目はすべて含まれています。しかも vs.72 でhari-bhakti-vilAsa にそれが教えられているとありますので、相補うような関係ではなさそうです。ブログ主さんは両書を見ながら、上の文章を書いたのでしょうか。そしてここは目録だけですが、その実際的なことは、verse 97 以降延々と述べられているので、ブログ主さんはこの箇所をいったいどのようにお考えなのでしょう。
(Mar 3, 2017 06:25:04 PM)

Re[1]:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   虹の父 さん
この一連の流れを見て、イスコンですか?凄い団体ですね。完膚なきまでに叩きのめすってところが。やはり宗教団体には入っちゃいけませんね。 (Mar 6, 2017 11:40:51 AM)

Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   通りがかり さん
虹の父さんさんの感想は、勘違いがあるようです。はじめブログ主さんはインド文献の和訳をしていたので、ブログ読者さんが違っているところがありませんか、といったのが発端です。主さんが自分はイスコンのもので、文献の真意はつかんでいるのだから、ごちゃごちゃいうなといい、それに対して読者さんがカチンときたのか、ややこしくなってきました。そのプロセスで、読者さんはイスコンとは関係ないこと、そしてお友達のイスコンの人に調べてもらって、主さんもイスコン入門が疑わしいことが明らかになりました。つまりイスコンはここの議論には関係ありません。何かイスコンが狂信団体であるかのような印象づけが感じられます。ひいては宗教団体という一般化までされています。ここの議論は、文献本文の読み方という些末な(?)問題に終始していて、宗教団体云々は語られていません。誤解を生まないように、老婆心ながら一言。 (Mar 9, 2017 06:05:59 AM)

Re[1]:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   虹の父 さん
通りがかりさん

なるほど、よくわかりました。失礼しました。
「読者さんがイスコンの人に調べてもらって、主さんもイスコン入門が疑わしいことが明らかになりました」というならば、「イスコンはここの議論には関係ありません」でいいのですね。

ならば、これからも「バガヴァッド・ギーターあるがままの詩」等は、読んでもいいかなあと思います。
ギーターを読んで、この読者さんみたいになるのか?と思ったら、嫌だなぁって思いました。 (Mar 9, 2017 12:41:08 PM)

Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   ブログ読者 さん

ブログ主さんがひたすら沈黙を守っておられる中、別の方が投稿なさっていました。おひとりは私の悪口を言おうとして、もうひとりの方は前の方が(故意に?)論典をずらしているのを修正しようとしてくださっています。 ただ「文献本文の読み方という些末な(?)問題に終始していて」という評価を下さいましたが、伝統的な宗教の理解は、口伝の他には文献によるのが大きな手段となるので、これをちゃんと読もうとするのは、悪い事ではないです。変幻自在に読み替えて、誤りを指摘されても、修正しようとなされらないのはいただけません。
まだ誤解があるようです。「ならば、これからも「バガヴァッド・ギーターあるがままの詩」等は、読んでもいいかなあと思います。」という文はヘンです。Bhagavad gita as it is はここの些末な(?)議論がどうであろうと、そんなこととは関係なしに読む価値にあるものです。ただ「あるがままの詩」というのは誤解を生みやすい表現です。神性なる詩を、そのある通りに説明した[注解書]ということです。ですから、これを真摯に読むと、献身の心を以て、謙虚に伝えられてきたものを受け継いでいこう、という気持ちを起こすきっかけを与えてくれる、というのが原著者の願いです。ですから、これを読んだら、文献は一字一句をもゆるがせにせずにしよう、と発奮することになりますが、そうなるのがイヤだなあって思うとしたら、問題です。
 
でもこうした誤解が起こるのは、私の表現が到らないからで、まだまだ言葉が足りなかったようです。そこでもう少し言葉を尽くして、続けていこうと思います。嫌だなあって思わないでください。

それにしても虹の父さんのぶれかたは、ブログ主さんと双子の兄弟のようにそっくりですね。 (Mar 17, 2017 11:20:10 AM)

Re[1]:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   虹の父 さん
ブログ読者さん

度重なる無礼、誠に申し訳ございませんでした。お詫び申し上げます。

また、バガヴァッド・ギーターという書物を初めて手に取って、わからない事だらけの初心者ゆえ、このサイトに辿り着きました。

コメントに感想を入れる事で、主さんからアドバイスを貰え、少しでも心の安らぎになればと期待していたところでした。

ですが、ぶれている事をご指摘いただいた事は充分注意し、今後コメントする際はよくよく考えてから書き込むように致します。

重ねてお詫び申し上げます。
申し訳ございませんでした。
(Mar 17, 2017 05:37:21 PM)

Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   なにここ? さん
なにここ・・・壮絶、コワッ!! (Jul 10, 2017 11:21:42 AM)

Re[1]:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22)   通りすがりの読者 さん
バガヴァッド・ギーター』第3章15

【クリシュナ意識協会訳】
行為の規正はヴェーダより発し
ヴェーダの源はバガヴァーンである
ゆえに万有に遍満する超越者(かみ)は
常にまた永遠に供犠の中に在る。

【上村勝彦訳(東京大学教授)】
行為はブラフマンから生ずると知れ。
ブラフマンは不滅の存在から生ずる。
それ故 遍在するブラフマンは
常に祭祀において確立する。

【奈良毅訳(東京大学名誉教授)日本ヴェーダンタ協会刊】
すべての行為はヴェーダより発し、
ヴェーダは至高者(ブラフマン)より発していることを知るがいい。
故に、永遠普遍の無限存在(ブラフマン)は
常に供養の在り方の根源に関わってくる。

【辻直四郎(東京大学名誉教授)】
行為は梵より生ずると知れ
梵は不滅のものより生ず
故に一切の遍満する梵は
常に永遠の祭祀のうちにある。

【鎧淳(金沢大学名誉教授)】
行為は梵に発し
梵は不壊なるものから生ずると知れ。
されば、一切に(あまねく)存する
常住の梵は、祭式にて確立す。

翻訳は難しいですね。
聖典の翻訳は正確を期さないといけませんが
何よりも詩句の意味合いを理解することが大事なのではないでしょうか? (Dec 22, 2017 01:41:06 PM)

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ジョーンズ@ Re:『捨ててこそ青春だ』 第6章 新村(シンチョン)の隠れ家サウナ(08/25) あきらめるほうがつづけるより難しいのは…
なにここ?@ Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22) なにここ・・・壮絶、コワッ!!
虹の父@ Re[1]:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22) ブログ読者さん 度重なる無礼、誠に申し…
ブログ読者@ Re:ナーラダ・バクティ・スートラ(78)(07/22) ブログ主さんがひたすら沈黙を守っておら…

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