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クリシュナ108のブログ

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Sep 16, 2012
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カテゴリ:著作公開
『第18の茶室』 (最終室) 掛け軸  Bhagavad-gita第18章66節から

全ての宗教を放棄し
ただ私に服従せよ
恐れるな
私がおまえを全ての罪の報いから救おう

茶室18章.jpg



『解説』

最後の茶室なので最終的な教えをしめすことにする。私たちがかえるべき本等の場所は精神界であることはもうわかった。精神界には三種類のカテゴリーがある。光にあふれているブラフマジョーティという空間。ヴァイクンタとよばれる四本腕のヴィシュヌが主宰神として統治する多数の惑星。数多ある惑星の頂点でクリシュナがいるゴーローカ・ヴリンダーバン。どこにかえろうと自由だが、クリシュナは『バガヴァッド・ギーター』を読んだ人をここで救おうといっている。「ヴェーダ」はクリシュナをしることが目的とかいてある。当然私たちがかえる場所はクリシュナのいる“ゴーローカ・ヴリンダーバン”である。

この物質界を一時的な滞在先とするなら、私たちはこの世界に旅行にきたとおもってもらいたい。そしてやっと本来の家にかえらないといけないと気づいた。私たちの本当の父はクリシュナである。個人の魂はすべてクリシュナの子供である。子供はまだ幼いと親の買ってきた服を素直に着る。しかし成長するとやがて自分で服を買いたいといいだす。反抗期である。では好きな服を買ってきなさい。そういってクリシュナは私たちを買い物に出してくれた。

しかし自分をたのしませるものを買いにきた世界で色々苦労(天国にいったり地獄におちたり、行動のいい結果によろこんだり悪い結果にかなしんだり)して親のありがたさがわかった。買い物に夢中になり親のことをわすれていた。親孝行もしたい、昔あそんだ友達ともあいたい。そろそろ実家にかえろうと決心する。精神界には物質はもっていけない。だからすべて捨てていかないといけない。あとはクリシュナに不要なものはすべて捨てる覚悟ができました、あなたに服従しますと伝えないといけない。もう故郷に帰りたいのですと伝えないといけない。主にあなたの保護下にもどりたいと決心したことをしらせる必要がある。

クリシュナは長い間なにをしていたんだ連絡もしないでとおこったりはしない。「恐れるな」とここでいってくださっている。「それでは案内人(グル)を差向けるから次の便に乗ってかえりなさい」今あなたはその声がきこえたはずである。もういちど最後の茶室で目を瞑(つむ)り、心をクリシュナに集中し耳をすませてもらいたい。「それでは次の便に乗ってかえりなさい」きっとそうきこえるはずである。

その声をきいたなら、こんな悲苦の世界は捨てて空港へむかうべきである。空港とはクリシュナのもとへかえることができる情報があるクリシュナの寺院とかんがえてもらいたい。空港へはくれぐれも手ぶらでむかってほしい。精神界にはこの世の荷物はもち込み禁止であるから。故郷にもっていける手土産はプレマ(クリシュナへの愛)のみである。もし君が空港へむかう決心をしたなら物質界への長い旅行であったが、本当におつかれさまでしたといいたい。あとはクリシュナの寺院へいきパスポートの申請をするだけである。そしてこの一生が終わるとき精神的な飛行機への搭乗がゆるされるはずである。

「こうして心を浄められ、全ての苦しみが除かれた者が長く陰鬱な旅から帰ったなら、旅人はもう二度と家を離れぬように、もはや主の御足を捨てようとはしない」【シュリ-マド・バーガヴァタム第2編8章6節】

「幾多の生涯を経て真の知識を得た者は、私があらゆる原因の原因であり、すべてのすべてであることを知って私に服従する。かかる偉大な魂は実に稀である」【バガヴァッド・ギーター第7章19節】

「わが顕現と活動の超越性を理解する者はその肉体を離れた後に、アルジュナよ、再び物質界に誕生することなく、わが永遠の住処に来たりて住むのだ」【バガヴァッド・ギーター第4章9節】

「物質界にある最高から最低の全惑星は、誕生と死をくりかえす苦悩の住処だ。しかし私の郷に来た者は、クンティーの子よ、決して物質界に再び誕生することはない。」【バガヴァッド・ギーター第8章16節】

ここでクリシュナは「私がおまえを全ての罪の報いから救おう」と約束している。『第3の茶室』でもふれたが、君たちは今まで「ヴェーダ」の知識をしらずに誤った活動に携わり罪を犯してきたことになる。それが無知であることもしったはずである。『茶室』をよみ終えた君たちにはその罪を燃やし灰にする知性が備わった。その贖罪法をおしえるために、人生を成功させるために『バガヴァッド・ギーター』は語られた。この真髄をよく理解してほしい。

最後にいっておく。絶対真理とはむずかしいものではない。いたって簡単なのである。素直に無垢な心で『バガヴァッド・ギーター』のなかの主の言葉をきいてほしい。

それが成功の秘訣である。人生を成功させるか否かは君たち次第である。

私は人生の問題を解決する答えをしめした。しかしそれをきいただけでは、答えが本当かどうかわからないであろう。当然である。この答えをたしかめるために人生はある。人生をその答えを確証するために使う、つまり自分さがしのために使うことができたら成功する。

「全てのダルマを放棄し、ただ私に服従せよ」これがクリシュナの『バガヴァッド・ギーター』での最後の教えである。それではクリシュナにどうやって服従すればいいのか。実践的にはこれはクリシュナの代表者である正統なグルに服従せよ、ということである。それがクリシュナの最後のメッセージである。自分さがしはグルの助けなしでは成功しないと肝に命じてほしい。

主チャイタンニャは従者のラーマナンダ・ロイに「物質的な義務を捨ててジャガンナータ・プーリーに行きなさい」【チャイタンニャ・チャリータムリタ/マッデャリーラ8章297節】といいました。「全てのダルマを放棄し」とはその本意をこの節にみつけることができます。


君たちのなかから一人でも成功者が出たなら、私は私のグルを喜ばせたことになる。クリシュナを喜ばせたことになる。

オーム・タット・サット

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1965年「ヴェーダ」を西洋に教えるため一人のグルが太平洋を渡って約50年が経った。

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そのグルから入門を受けた僧侶が私のグル、 Sri Vaisesika Maharaj です。(米国在住)

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ヴェーダに示されている物質界(下)、精神界(上)

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ヴェーダに示されている物質界(それぞれ右下部分)、精神界(魂の本来の住居)

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最終の茶室までお読みいただき、ありがとうございました。ギーターは何度も繰り返し読むことをお勧めします。お好きな『茶室』に戻りまた読み直してください。そしてギャーナをビッギャーナに変えてください。






Last updated  Oct 9, 2012 10:36:59 PM
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Sep 15, 2012
カテゴリ:著作公開


『第17の茶室』 掛け軸  Bhagavad-gita第17章2節から

バガヴァーンは答えられた
肉体に覆われた魂が持つ物質自然の様式によって
信念には徳、激情、無知の三種類がある
それについて聞きなさい

茶室17章.jpg



『解説』

この物質界にいる魂はかならず肉体という服を着せられる。普通肉体は魂の意思ではうごいていない。徳、激情、無知という三様式でできた肉体は、同じく三様式のエネルギーに反応してしまう。三様式という物質要因(プラクリティ)は一時的なのでその三者の影響は増加したり減少したりする。魂は食べなくていいので空腹は感じないものだが、肉体はおなかがへる。食べて一時的には満腹になるが時間がたつとまた空腹になる。これを繰りかえす。生じて、しばしとどまり、破壊される。これが物質現象である。おなかがへるという感覚は肉体上にのみおこる一時的な意識である。肉体は外部からの影響でうごいている。感覚をとおして感知する現象世界に反応している。

お店ですきな服をみつける。それがほしくなる。条件のいい会社がある。そこではたらきたくなる。魂はそんなもの必要はない。だから肉体は魂の意思でうごいていないことがわかる。接触する外部エネルギーの配合で、肉体の行動がきまる。

どの様式に惹かれるかは前世での活動の影響を受けることが多い。しかし自分の意思でその配分はかえられる。当然徳の様式の配分をふやし、激情、無知の様式の比率はへらすべきである。「徳の様式にある人は神々を崇拝し、激情の様式にある人は悪魔を崇拝し、無知の様式にある人は幽霊を崇拝する」とクリシュナがいっている。

至上主クリシュナではなく物質界にいる半神とよばれる神々たちを崇拝すれば、来世で彼らがすんでいる物質界の天国とよばれる高位の惑星に昇進する。

悪魔とは激情の様式がつよく至上主クリシュナを信じようとしない、また神をねたみ否定したい人のことである。自分の感覚満足に役立つなら「ヴェーダ」も利用する。大統領や大学教授や会社経営者など強力なリーダーシップをもつ人が自分勝手なかんがえで人を導くなら、それにしたがう人は悪魔にしたがっているかもしれない。

無知の様式の影響を受けるとすべてにやる気がなく怠惰になり、不規則な生活になり、肉食や酒やタバコにふける。そういう人には幽霊が憑依しやすくなり破滅的な人生をあゆむことになる。

例えばだが、私たちは今本当の家からはなれ自分がたのしむ物を買いにきているとかんがえてもらいたい。離れた場所に買い物にいくには乗り物に乗っていかないといけない。肉体という乗り物に乗ってきているとかんがえてほしい。しかし市場で色々と目移りして買い物をしている間にどこからきたかわすれてしまった。豪華な装飾品や車などの店にはいってそれがほしくなる。酒屋やたばこ屋に立寄ってしまう。そんなことを繰りかえしている。はやく正気にもどらないと、もっと市場の奥にはいっていくことになる。

しかし迷路にはいっていってはいけないと注意してくれる人もかならずいる。そういう人をさがし自分はどこからきたのか、どこにいけばいいのかきくべきである。そうしたら市場の地図がもらえるかもしれない。地図には市場の出口がのっている。本当の家にかえる空港行きのバスがくるバス停がのっている。それが「ヴェーダ」という目的地をしり、そこへ辿りつくための地図である。

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自分は肉体ではなく、魂である。肉体は一時的、魂は永遠である。魂の家は物質界にはないとクリシュナは説く。ナマハタに行きなさい。ナーマとはクリシュナのみ名、ハタとは市場。本当の家に帰りたいならクリシュナのみ名をあつかっている市場をさがすべきである。






Last updated  Oct 1, 2012 08:55:02 AM
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Sep 13, 2012
カテゴリ:著作公開
『第16の茶室』 掛け軸  Bhagavad-gita第16章23節から

教典の教えを放棄し
欲望のおもむくままに行動する者は
完成を達することも幸福を手にすることも
そして至高の目的地に至ることもできない

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『解説』

世の大方の人々は「ヴェーダ」教典にふれることなく一生を終える。世の中には二種類の人間がいる。「ヴェーダ」の教えにしたがう人と、したがわない人。神を喜ばせようとする人と、自分を喜ばせようとする人。人生を成功させる人と失敗させる人。正道をあゆむ人と、道からそれまよう人。神聖な質の人と悪魔的な質をもつ人。

ここでは「ヴェーダ」にしたがわない人のことを、欲望のおもむくままに行動する人といっている。「ヴェーダ」をきいただけ、しっただけでは不十分。したがわないと効果はない。どうしたがうかをグルにたずねないといけない。およぎかたを本でよんでもそれだけではおよげないのと同じである。

人間生活は動物生活と違い「ヴェーダ」を受けいれるために用意されている。もし人間として生を受けた幸運をむだにしたなら、その反動を覚悟しないといけない。「ヴェーダ」の中にかかれている教えはクリシュナをしるためのものである。クリシュナが本当の保護者だとわかったなら人生の目的、ゴールをどこにおくべきかがおのずとわかるはずである。

チャイタンニャ・マハープラブ(1486~1534)という方は5百年前にあらわれたクリシュナ自身である。暗黒のカリ時代にはクリシュナは地球におりてこないことになっているが、このカリ時代には隠れてチャンナ・アバターラ(隠れた化身)としてあらわれたのである。チャイタンニャ神は「カリ時代では主の聖なるみ名を唱える以外方法はない」といわれた。マハー・マントラの唱名以外に人生を完成させる手段はないのである。

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チャイタンニャ神はカリ時代のユガダルマ、サンキールタン・ヤッギャを教えた。


クリシュナも5千年前に「常に私の栄光を唱えなさい」【バガヴァッド・ギーター第9章14節】といっている。

【シュリーマド・バーガヴァタム(バーガヴァタ・プラーナ)】の最終節(第12編13章23節)にも「私は至上主ハリに尊敬の礼をささげます。集まって主のみ名を唱えることで全ての罪深い反動が破壊され、主にひれ伏し礼をささげることで全ての物質的苦しみが取り去られます」とある。

また「カリ時代では、人々は一般に寿命が短く、しかも精神的に目覚めにくい。そしてさまざまな心配をかかえている。彼らにとって、精神的悟りの最もよい方法は、主の聖なるみ名を唱名することである」【ブリハン・ナーラディーヤ・プラーナ】とかかれている。それが最高の供犠(ヤッギャ)であり、サンキールタン・ヤッギャとよばれる。

チャイタンニャ神は「ヴェーダ」の教えを三つにまとめ説明した。その三つの主題とは、下記のとおりである。

1)生命体と人格主神との関係を確立させること
2)献愛奉仕に関係のある義務を遂行すること
3)その結果究極のゴールである神のもとに辿りつくこと

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左から、クリシュナ、チャイタンニャ、ラーダー

まず自分のゴールをどこに設定するかきめないといけない。ゴールがわからないと、だれと関係をもち、どんな修練をおこなうかがわからない。ゴールは本当の家にかえること。そのためにはグルにしたがい、主の聖なるみ名を唱えるという供犠をおこなわないといけないことがわかる。これがカリ時代の「ヴェーダ」の究極の指示なのである。最も秘奥な結論をチャイタンニャ神は明示してくださったのである。これはとても重要な部分である。だれにでも明かされるものではない。心して胸にきざんでもらいたい。

マハー・マントラを唱えることで人生の完成、至高の幸福が達成される。これは秘奥な部分に属する教えである。クリシュナのみ名は強力ですべての罪を灰にする。

『ハレー・クリシュナ ハレー・クリシュナ クリシュナ クリシュナ ハレー ハレー / ハレー・ラーマ ハレー・ラーマ ラーマ ラーマ ハレー ハレー』

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5百年間主チャイタンニャの教えは途絶えず現代にも受け継がれている。

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オバマ米大統領にも「バガヴァッド・ギーター」は手渡されました。






Last updated  Oct 20, 2012 09:25:00 PM
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Sep 11, 2012
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『第15の茶室』 掛け軸  Bhagavad-gita第15章15節から

わたしは全ての人の中に住み、記憶と知識と忘却を与える
全ヴェーダはわたしを知るためにあり
わたしが全ヴェーダを知り
わたしがヴェーダンタの編集者である

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『解説』

最高人格主神クリシュナはすべての生命体の心のなかに個人の魂(ジーヴァ)と一緒にいることがわかる。だからクリシュナはすべての人の友だということである。しかし私たちは主がいつも一緒にいることに気づいていない。「ヴェーダ」の知識に出会わないとそのことに気づかず一生を終える。月がたくさんのバケツの水のなかにうつるように、主はすべての生物の中に分身して存在する。その分身した主をパラマートマー(随伴者、目撃者)という。だから個人の魂はクリシュナからはなれることはできない。

私たちは独立してなんでも自分で決定して行動できるとおもっているが、パラマートマーとしての主の認可がないと行動とその結果は成立しないのである。君たちがなにかをしようとしても、主がみとめないとその計画は頓挫してしまう。主が背後ですべてをコントロールしているとわかっている人は心のなかに灯かりがともっているといえる。知識の光により正しい視野をもっている人である。

記憶と知識は自分の力で獲得できない。主が与えるとはっきり言われている。またどういう知識がほしいのかもポイントになる。自分が支配者でたのしみたいとかんがえていれば、主はその望みをしり一時的ではかないものを手にする知識を与える。人生の本当の目的がしりたいと心底望んでいる人には「ヴェーダ」に接する機会を与えてくださる。そしてその人の理解と熱意がふかまるとグルをおくってくれる。

忘却もまた主からくる。クリシュナは「私は時、諸々の世界の大破壊者である」【バガヴァッド・ギーター第11章32節】といっている。時はすべてをわすれさせる力である。時とともに物質は劣化する。体や家や道路も時間がたつと古くなる。物質はしばし存在したあと最終的にはかならず破壊される。しかし魂は永遠な存在なので破壊の対象ではない。ヤドカリが小さくなった不要な貝からでるように、私たちもやがて肉体から追いだされる。そして服を着がえるように新しい肉体にはいるのである。

「ヴェーダ」はクリシュナがつくったと宣言された。主はプールナン(完全)である。全知全能である。一切の欠陥、誤謬がない完璧な人。イーシュワラ(至上主)である。主の手によるものは完璧であるゆえ「ヴェーダ」は完璧な知識ということになる。人間がつくったケチな書物ではない。したがえば成功が約束される。多くの先代のアーチャリヤ(自ら模範をたれて教える人・グル)もこの教えにしたがい解脱を得た例には枚挙にいとまがない。

「ヴェーダ」の知識なしでは肉体からの解放は得られず物質界でいつまでもさまようことになる。物質界ではしあわせになれない。不幸の切れ間がしあわせと勘違いする世界である。魚が陸に上がったらただ苦しむだけである。水にもどれば生き生きとおよぐ。君たちも水を得た魚になれる。本来の家にかえり生き生きと喜びのなかでくらすには「ヴェーダ」からその方法をみつけないといけない。

クリシュナが神であることをしり、たすけを請わないといけない。クリシュナのみが真の救済者である。「ヴェーダ」は相対世界(物質界)のものではない、絶対世界(精神界)からきた教えである。だから絶対真理が説明されている。これ以上の贈り物はない。クリシュナがどういう人であるかがわかれば、自分がだれなのかがわかる。


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全ヴェーダは、わたしを知るためにある。とクリシュナは宣言された。






Last updated  Sep 12, 2012 09:50:09 PM
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Sep 10, 2012
カテゴリ:著作公開


『第14の茶室』 掛け軸  Bhagavad-gita第14章20節から

肉体をまとう者が
その体とかかわる三様式を超越したとき
生老死とそれらの苦から解放され
その生涯のうちにも甘露を味わう

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『解説』

物質界を形成するエネルギーのうち、徳の様式は人を幸福と知識に束縛し、激情の様式は欲望を生み人を現世ご利益を求める活動に束縛し、無知の様式は知識を覆って人を狂気と怠惰と幻想に束縛する。

「ヴェーダ」にしたがわない活動はすべて無知の様式である。また徳の様式にちかづけるのが供犠、布施、苦行である。この三つの浄化力はすごい。反対に地獄に至らせる三つの活動が性欲、怒り、渇望である。

この物質自然界の三様式はたがいにあらそいあって、ときにはその優劣にも差がでる。この三様式を超越するにはまず徳の様式の影響の割合をふやすように努力しないといけない。徳の様式の比重が多くなれば肉体と魂の違いがわかってくる。

食べ物にも三様式がありその影響はおおきい。まずクリシュナにそなえて、そのお下がりをいただく。そうするとこの食べ物はプラサーダム(慈悲により浄化されたもの)とよばれ三様式を超越したものになる。単なる徳の様式の料理ではなく私たちを強力に浄化してくれる。クリシュナにたべていただくために料理をして、それを最初は主の写真でいいからささげる。どうかおたべくださいと愛とともにささげる。それだけでいい。クリシュナにささげられるのは徳性の食べ物だけである。野菜、果物、穀物、牛乳などが徳の様式の食材である。これらは寿命をのばし体を浄化し、体力、健康、幸福を増加させる。激情の様式の食べ物は苦み、酸味、塩味がつよい。辛く、刺激的で乾燥していて焦げているようなものである。病気の原因となり苦痛、痛みを与える。無知の様式の食べ物は、食べる三時間以上前に料理され、味がなく、腐敗していて、悪臭をはなち、食べ残しやふれるべきでない物(肉類、酒類など)がはいっているものである。これも健康上非常に有害である。賢者は徳の様式の食べ物を主にささげそのお下がりのみを食し、愚者はそれ以外の食べ物をこのむ。

徳の様式も物質的なものでこの世界への執着を生むが、三様式を超越し精神的活動をはじめるには障害が少ない。ちょうど飛行機に乗るには空港が都合のいい場所であるのとおなじである。クリシュナへの奉仕、バクティ・ヨーガも最初は純粋にはできない。アシュタンガ・ヨーガ、ギャーナ・ヨーガ、カルマ・ヨーガの様相が混ざりあっている。純粋なバクティに近づくには神聖な人物との交際、主の聖なるみ名の唱名と主のリーラ(教典に書かれているクリシュナがおこなった活動)を聞くことが有効である。

また徳の様式でおこなう供犠、布施、苦行も必要である。供犠についてはすでに説明をした。布施とはすべてのものはクリシュナのものであり石ころひとつ私たちは所有していないという理解である。だからすべてのものはクリシュナに差しだす。私たちははたらきいくらかの報酬を手に入れる。しかしそれはクリシュナのものであり、自分の質素な生活と「つとめ」に必要なもの以外は主にかえす。つまり寄付をすることである。しかし寄付はなんらかのみかえりを期待してはならない。不承ながらするのもよくない。また値しない人にするのもよくない。徳の様式の寄付とはクリシュナに、または主と関係のある人、団体にするものである。苦行とは多少の不便を受けいれ自分を魂とみなすように浄化させる方法である。肉食をやめる、陶酔物をとらない、賭け事はしない、結婚した相手とだけ性生活をする。これが徳の様式の苦行である。

クリシュナへの献愛奉仕は徳の様式(サットヴァ)をこえた純粋な徳の様式(シュッダ・サットヴァ)の活動とよばれる。そのような精神的活動で得られるクリシュナへの愛から甘露が味わえる。この物質の三様式を克服するときはかならずとも死ぬときではない。今私たちが生きている生涯の間でも三様式から自由になり無恐怖の状態になれるということである。この三様式をこえると自己に安住して、幸と不幸を区別せず、土塊も黄金も同様にみて、賞賛と非難、名誉と不名誉、友と敵をおなじようにあつかうことができる。正統なグルの指導をうけない限り私たちも三様式はこえられない。実際におよげる人でないと、人に水泳を教えることはできない。

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正統なグルの教えは、直接クリシュナから教えを受けるのと違いがない。


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まず生活を、徳(サットヴァ)の様式に高める。そうすれば魂と肉体の違いが理解され、バクティ・ヨーガを始める機会にめぐまれ目的地(プレマ)に到達できる。






Last updated  Sep 10, 2012 07:44:09 PM
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Sep 9, 2012
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『第13の茶室』 掛け軸  Bhagavad-gita第13章22節から

このように生命体は物質自然の中にあって
特定の生活様式に従い、物質の三様式を享受する
それは物質自然と係わるからである
このように生命体は様々な種の中で善や悪に遭遇する

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『解説』

個人の魂が物質界とかかわると、物質を構成する三様式、徳(サットヴァ)、激情(ラジャス)、無知(タマス)というエネルギーの影響を受けることになる。

過去世のカルマにより人はそれぞれ関心をしめす対象が違ってくる。また現世で交際する人のもっている様式に強く影響される。徳の様式の人は自分の仕事や知的追求によって満足感を味わっている。哲学者、科学者などは自分の知識に誇りをもっている。そういう人は一般的に生活環境も良好なので物質的な最上の幸福感をもっておりそれに束縛されてしまう。激情の様式の人は現世ご利益に惹かれ、能力のおよぶかぎり金や物や名誉を所有したがる。慈善団体や社会福祉のために寄付活動もおこなう。そして際限なく自分の富をふやそうと奔走する。無知の様式の人は無気力で暗闇のなかに退歩、堕落していく。必要以上にねむり、投げやりで酒やドラッグにおぼれ、目的も定めずに気ままに行動する。

この物質界という容器のなかにはこれらの三様式が混ざりあった状態になっている。これはあくまでも例えであるが、コーヒーカップのなかに、ミルク、砂糖、コーヒーがはいっているとする。自分の味の好みでその配分は調節できる。肉体のなかに、徳、激情、無知がはいっているとかんがえてもらいたい。君たちのコーヒーカップ(肉体)のなかの配分はどうなっているだろうか。それは君たちが付きあう人をみればわかる。同じ配分の人に惹かれるからである。
砂糖やコーヒーの分量を多くすればたしかにおいしい。しかし中毒になってやめられない。できるだけミルク(徳性)の配分を多くしたほうがいい。

この三様式(トリグナ)は物質を構成する要素で、この物質エネルギーのことをマーヤー(外的エネルギーの別称でもある)という。違うもの、そうでないものという意味である。マーヤーとは私たちの魂を物質にしばりつけようとする幻想力のことである。この力がクリシュナのことをわすれさせようと攻撃してくる。「ヴェーダ」の知識をしらないとこの非常に強力なマーヤーは克服できない。この体は自分の意思でうごかしているとかんがえるのは間違いである。自分の本当の意思とは魂である。魂の行動とはクリシュナを愛し、仕えたいとおもうこと以外にない。もし君たちがクリシュナへの献愛奉仕をのぞんでいないのであれば、魂はねむっていてマーヤーにうごかされている。マーヤーは君たちの心にはいりああしなさい、こうしなさいという。それで心を自分自身だとおもって行動する。日本に生まれたらその影響を受け日本語をしゃべり、日本料理をおいしいとおもう。日本特有のしきたり、文化を受けいれる。

人間の女性を見たとき、徳の様式にいる半神などの偉大な生物や自己を悟った聖者は外面をみず性別もみず一個の魂とみる。激情の様式にいる人間はきれいな人でお付きあいしたいとおもう。無知の様式下の動物たち、たとえばライオンやトラはおいしそうな食べ物とみる。三様式の影響の違いにより、それぞれ違った視点をもっている。違った行動様式をとる。

自分は人間、日本人、韓国人、アメリカ人、男性、女性という身体の上だけの問題と自分自身とを同一視して錯覚におちいり魂の存在を見失う。こういう外側の条件は死とともに捨てさられる。自分自身を一時的な肉体上の存在であると誤解したときだけ人は善や悪という相対的な現象に遭遇する。

このような二元性は精神界にはない。魂はそういう二元性とは関係のない存在である。知識の目をもち肉体と魂の違いをしるものは物質界の鎖から脱出する方法をしり本当の家にかえっていける。コーヒーカップの物質成分を捨て、「ヴェーダ」の知識という三様式をこえた純粋な甘露をいれないといけない。

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クリシュナは物質自然(プラクリティ)を構成するトリグナをこの章でアルジュナに説明しました。またその物質自然とは別にそれを認識する者(魂)の存在を教えました。






Last updated  Sep 10, 2012 07:36:47 PM
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Sep 8, 2012
カテゴリ:著作公開
『第12の茶室』 掛け軸  Bhagavad-gita第12章6節、7節から

私を崇拝して、全ての行為を私のために行い
逸脱することなく私に全てを捧げ
献愛奉仕をして常に私を瞑想し
心を私に固定する者たち
おお、プリターの子よ
私は速やかに彼らを生死の大海から救い出す

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『解説』

すべての創造物、精神界と物質界をつくり維持しているのは主クリシュナである。精神界では私たち個人の魂(ジーヴァ)はスバルーパという精神体をもっており、その体が魂そのものの永遠で精神的な姿である。精神界には時間が存在しないのでその姿も永遠に変化しない。また精神界にあっても主体と客体の関係は永遠にかわらない。常に私たち個人の魂(ジーヴァ)は至上主(イーシュワラ)に依存しており、崇拝する側とされる側、奉仕する側とされる側の関係はかわることはない。精神世界の惑星では直接主をみることができ、個別に交流することが許され常に至福の状態がつづく。これは興味をひくための作り話ではない。「ヴェーダ」にそう記述されている。

しかし私たちが今住んでいるのは物質界である。物質的な感覚をとおしてしか事物を認識できない。物質の肉体が魂を覆いその能力を制限している。精神自然に属する事象は肉体をとおしては感知できない。君たちのもつ物質の目でクリシュナをみたとしたら、その目は太陽の数千倍の神々しい輝きでつぶれてしまう。私たちの物質感覚は不完全である。君たちの目は太陽や電気の光があるという条件下でのみ機能する。漆黒の闇のなかでは視野がなくなる。また音も一定の周波数しかきこえない。においも限られた範囲のものしかかげない。そういう不完全な道具で完全で永遠不滅、全知全能、至高至福の至上主をみたりはできない。私たちの感覚で絶対真理をとらえようとしても絶対に失敗する。

だから「ヴェーダ」が用意されている。自力で主をみようと努力する必要はない。「ヴェーダ」にその情報はすべて記されているからである。

「汝らこのヤッギャ(供犠)によって幸いなり。これを達成すれば望むもの全部授けられ解脱に達する」【バガヴァッド・ギーター第3章10節】とある。このヤッギャ(供犠)については「捨ててこそ青春だ10章」で説明した。ヤッギャ(供犠)をしなさいと主はいっている。それは献愛奉仕を主に対しておこなうことである。そうすれば主が絶対真理を理解できるブッディ(知性)をさずけてくれる。

自力では不可能、クリシュナ意識での活動、つまり献愛奉仕のみが精神的理解のたすけとなる。クリシュナにひたすら仕えることが献愛奉仕である。魂の本質は仕えるということ。君たちも自然に色々なものに仕えているはずである。親に、子に、恋人に、会社に、国家に仕えている。なぜなら魂には仕えるという性向があるからである。仕えると幸福、満足が感じられるからである。しかし一時的なものに仕えて得られる喜びはすぐに消える。クリシュナに仕えると永遠の至福がやってくる。決して消えない、へらない幸福が得られる。同時に苦しみ、恐れがなくなっていく。

常にクリシュナのことを想っている、その時間をできるだけ長くたもつようにする。人はクリシュナに仕えているかクリシュナ以外のものに仕えているかを主に目撃されている。どんなときでも声に出して、または心のなかでマハー・マントラを唱えることでクリシュナに仕えることができる。それが「ヴェーダ」が教える最高の献愛奉仕である。主のみ名は絶対であり主自身となにも違わない。精神エネルギーに満ちあふれている。主の姿を瞑想し、み名を唱えれば主自身と接触し外的エネルギーの影響から浄化されていく。海でおぼれたら自力ではたすからない。物質界の海でおぼれている私たちを主は救いあげてくださる。


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1945年8月6日、広島に原子力爆弾が投下された。この原爆の開発責任者オッペンハイマーは広島の惨状を知った後、テレビカメラに向かってこう言った。「われは死神なり、世界の破壊者なり」 この言葉はバガヴァッド・ギーター第10章34節、第11章32節から引用されている。






Last updated  Sep 9, 2012 10:31:56 PM
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Sep 7, 2012
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『第11の茶室』 掛け軸  Bhagavad-gita第11章55節から

愛するアルジュナよ、私への純粋な献愛奉仕を行い
果報的活動と心の思索の汚れを捨てて
私のために働き、私を人生の至上目的として
一切生類に友好的な人は、必ずや私のもとに来る

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『解説』

ここでクリシュナははたらくことについて言及している。君たちはだれのためにはたらくのかかんがえてほしい。家族のため、顧客のため、会社のため、国のためだろうか。やはり自分のためだとおもうかもしれない。ここで抜けているのは、クリシュナのためにはたらくという発想である。今までの人生で君たちはクリシュナのためにはたらくなど想像もしたことがなかったであろう。自分もしくは自分と関わるものを喜ばすために「かせぐ」それが普通だとおもっていたに違いない。活動にはその行為の反動がやってくる。自分だけがたのしもうとするとそれは間違った行為とみなされ罰がくる。悪いことをしたわけでないのになぜ罪にとわれるのか。それがわからないのが無知である。「ヴェーダ」にしたがわず自分をたのしませる行為はヴィカルマであり、誤った活動とされる。クリシュナを喜ばせる活動はアカルマであり、生と死の束縛からの解放が与えられる。この二つの活動のことは既に『第4の茶室』で説明した。

自分がつくったジグソーパズルをだれかがきてバラバラにしたら君ならどうする。相手をせめるはずである。しかしだれかがつくったジグソーパズルがこわされるのを君がみたとする。これに対しては平静でいられるはずである。自分がつくったものとは関係のないものだから。この宇宙(現象世界)をつくったのはクリシュナである。それを今私たちは自分勝手につかい、その環境をこわしている。『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』という「ヴェーダ」教典のなかには次のようにかかれている。「宇宙に存在する一切の生物・無生物は、主によって支配され、所有されている。ゆえに、自分に必要なものとして割り当てられたものだけを受けとるべきであり、それ以外は、それがだれのものかをよく承知したうえで、受けとってはならない」

クリシュナのためにはたらくとは、まずこの世界をだれがつくったのかをしること。だれが支配しているかを理解することである。その創造者がどういう風にそれを使ったら喜ぶかを考えて行動することである。環境破壊や不必要な資源の乱獲。動物の屠殺。そんなことをしてクリシュナが喜ぶはずがない。

自然に与えられるもので質素にくらし「ヴェーダ」にしたがって献愛奉仕(バクティ・ヨーガ)をしてクリシュナに仕える。『第6の茶室』で説明した、現世ご利益の追求(カルマ・ヨーガ)と心の推論、思索(ギャーナ・ヨーガ)ではクリシュナを喜ばすことができないことがここで記されている。人生の目的をダルマ(宗教)、アルタ(経済発展)、カーマ(感覚満足)とすることや、モクシャ(解脱)とすることは薦められていない。人生の至上目的をプレマ(主を喜ばせ、主への愛を得ること)にしなさいと明確に説明している。これは最も内密な分野にはいる情報である。プレマを人生のゴールとしてバクティ・ヨーガを修練すればやがて浄化され、一切生類の生命体のなかに魂をみる。生物の外側をみないで内なる存在をみる。するとあらゆる生命体のなかにパラマートマー(目撃者)として随伴する至上主をみるようになる。そういう境地にいたると人生は完成する。そうすると来世では精神界で直接クリシュナと交際できることがここで約束されている。

肉体や心はやがて捨てないといけない。魂は永遠なのだから魂に関する仕事をすればいい。魂の活動である献愛奉仕(バクティ・ヨーガ)には九つの方法がある。なんども説明したが現代(カリ・ユガ)に最も効果のある方法は二つ、主の聖なるみ名を聞くこと、唱えることである。これ以外に方法はない。これ以外に仕事があるとおもうのは幻想である。心静かにすわってマハー・マントラを唱え、その音の響きを集中してきく。そこにすべての問題の打開策がみつかることが保証されている。


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「バガヴァッド・ギーターを読み、神がいかにしてこの宇宙を創造されたかに思いをはせるとき、他の全てのものが全く余分なものに思えてくる」【アルバート・アインシュタイン】






Last updated  Sep 7, 2012 10:33:37 PM
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Sep 6, 2012
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『第10の茶室』 掛け軸  Bhagavad-gita第10章11節から

彼らに特別の慈悲を示すため
私は彼らのハートに宿り
輝く知識の燈火をもって
無知より生じた闇を破る

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『解説』

私たちの苦しみの原因はなにであろうか。それは無知である。時速40キロのスピード制限がある道路を、時速100キロで走るとどうなるか。警察が来てスピード違反でつかまえる。そのときそんな法律があることはしりませんでしたといえば警察はゆるしてくれるだろうか。

同様にこの宇宙にも大きな自然の法則が存在している。人は生まれ、成長し、老いて、死んでいく。太陽は朝のぼり夜にはしずむ。水は水蒸気になり空にあがり雲になってまた雨としておちてくる。善行にはよい反動、悪行にはわるい反動がくる。こういう一定の法則に基づき万物の運営にはある一定の管理がなされていることはわかるはずである。統一性のもとに物質現象すべてが統制されている。この現象を正しく理解しその背後に意思があることをしってその法則を尊重しないと罰せられる。しらなかったではすまされない。

人間生活は自己を悟るために用意されているが、それに無頓着でいると罰せられる。人間生活を動物のように生きると宇宙の大法則に違反したことになる。動物のように生きるとは、食べて、寝て、身をまもり、子孫をのこすだけの生活をさす。人間でありながら「ヴェーダ」の教えを受けいれないで毎日をすごしているとヴィカルマという罪の反動の責任をとらされる。

無知でいると肉体と魂の違いなどわからない。暗闇のなかにいれば目がみえず人生の目的が理解できない。盲目の人がおなじ盲目の人の手をひいてあるく。溝におちるのは明らかである。夜になっても家に灯りがともっていない。それは貧しい家庭である。心のなかにも灯がともっていない人は貧しい人である。心に灯りをともすということは「ヴェーダ」を受けいれ、人生を完成させる知識を得るということである。知識の燈火をもって疑い、苦しみの元となる暗闇を照らしだす必要がある。それができてこそ人間生活である。

『バガヴァッド・ギーター』の目的は人類を物質存在の闇から救い出すことである。人間がこの世に生れたのは家畜のようにあくせくとはたらくためではない。私たちは人間としての生命がいかに貴重なものであるかを理解して、無知のなかで生きる動物のような生活を拒否しないといけない。主は個々の体内に魂といっしょに並存しすべてを目撃している。個人の魂(ジーヴァ)の意識は各自の一個体に限られているのに対し、主の意識はすべての個体にある。なぜなら主はすべての生物のハートに住んでいるからである。

もし君たちが「ヴェーダ」の教えにふれ一念発起して心に小さな灯をともし少しでも無知をのりこえようとしたら、ハートにいる主はすぐに君たちをたすけはじめる。心の灯りをつけるスイッチをいれなさい。多数派にのみこまれず、自分が何者かを確かめるため内省すべきである。君たちが自分さがしのスイッチをいれたなら、クリシュナはあらゆる手段を使って君たちをたすけるのである。

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すべての生物のなかに、主は目撃者、随伴者として存在している。






Last updated  Sep 6, 2012 11:05:08 PM
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『第9の茶室』 掛け軸  Bhagavad-gita第9章18節から


私はすべての目的であり、保護者、主、目撃者である
郷であり、慰めであり、最も親密な友である
私は創造であり、破壊であり、万有の基礎である
私は憩いの家であり、永遠の種子である

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『解説』

『バガヴァッド・ギーター』で説明されている主要項目は次の5つ。

1)イーシュワラ(至上の支配者。監督者)
2)ジーヴァ(あらゆる生物。支配者の監督、統制をうけているものたち)
3)プラクリティ(物質自然)
4)カーラ(時間。宇宙、物質自然現象の存続期間) 
5)カルマ(生物の活動、行為。その反動)

君たちは人生の目的、ゴールをどこにおいているだろうか。はっきりと答えられるだろうか。漠然としてはっきりしていない人が大半であろう。しかし目的地が決まらないと電車の切符さえ買えない。みんなが乗っているからなんとなくその電車に乗る。しかし行き先はよくわからない。君たちの人生はそんな状態である。自分がするスポーツを決めないとスポーツ店にいってもどの道具を買ったらいいのかわからない。

私はすべての目的である、とクリシュナがおっしゃっている。ゴールはクリシュナに辿りつくことだと判明した。ジーヴァはそれぞれクリシュナと永遠の関係をもっている。ゴールに辿りつくとはその関係を回復することである。主との永遠の関係(ラサ)には、中立、主従、友人、親子、恋愛の種類がある。精神界では個人的に主と交際するためどれかの関係が与えられる。

しかしこの物質界では主との関係をわすれてしまう。この世界では創造、維持、破壊が繰りかえされる。一時的なあわただしい世界といえる。物質界には必ず始めと終わりがある。つまり時間という概念に支配される。だからたのしいこともかなしいことも永遠にはつづかない。それぞれやがて消えてはまたおこる。それを繰りかえす。この世界が自分の住居であり、ここにいつづけたいとかんがえるのは幻想である。主はアルジュナに、「この世ははかなく悲苦に満ちた地である」とおっしゃった。そして、「私への献愛奉仕をしてすみやかに本来の故郷である精神界にかえりなさい」とおっしゃった。献愛奉仕とは主について聞くことと唱えることからはじまるプロセスである。

ジーヴァにはすべて父親がいる。君たちにも父親がいる。全生命体には必ず父親がいる。しかし唯一父をもたない生命体がいる。それがイーシュワラであり、パラブラフマン(至高の魂)、パラマートマー(目撃者)であるクリシュナである。種をまきすべての魂を創造したのは永遠の保護者であるクリシュナである。主はアルジュナの親密な友となり、彼を救いたい一心でこの『バガヴァッド・ギーター』を語られた。

クリシュナは畏怖の念をもって崇められるような神ではなく、友人としてたすけてくださるような優しい方である。名前をよんだだけでたすけにきてくださる。名前をよぶのにお金などいらない。今すぐにでもはじめられる。物質生活をしている人は夢をみている人にたとえられる。大金持ちになる夢をみても実生活は貧乏、虎におそわれる夢をみても実際には安全である。目覚まし時計の音で目がさめたとき、人は本当の状態をしることになる。同様にクリシュナのみ名という超越的な音を唱える人は夢のような物質生活から本来の精神生活へと目覚めていくのである。病気のために処方された薬によって体調が回復するように、マハー・マントラを唱えることにより心が浄化され純粋になっていくのである。

『ハレー・クリシュナ ハレー・クリシュナ クリシュナ クリシュナ ハレー ハレー / ハレー・ラーマ ハレー・ラーマ ラーマ ラーマ ハレー ハレー』
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ハレーという言葉は主のエネルギーによびかける形である。クリシュナとラーマは最高のよろこびという意味である。主の最高のよろこびのエネルギーにたすけられて私たちは主に近づくことができるのである。


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「バガヴァッド・ギーターこそ、この世に現存しうる書物のなかで、最も賞賛され、評価されるべきものである」【アーサー・ショウペンハウエル】






Last updated  Sep 6, 2012 10:35:17 PM
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